鎮西学院は、1881年(明治14年)10月、長崎の東山手に北米メソジスト教団の宣教師C・S・ロング夫妻によって創設されたカブリー・セミナリーを前身としている。日本語では、『加伯利英和学校』と表記された。ロング宣教師は、当時、長崎で発行されていた『西海新聞』や『鎮西日報』に盛んに生徒募集の広告を出している。英語速習の方法を教授するというものである。
外国人2名、助教1名と日本人教師をスタッフとしており、週5日の夜学も開講している。夜学の謝金は、毎夜2銭だった。昼間部は、英語のほかにも漢文も教授しており、8時30分~12時、 午後は、1時~3時 が授業時間となっており、謝金は、3ヶ月で1円であった。寄宿舎もあり、1ヶ月食費3円50銭とある。
多くはカブリ学校シー・エス・ロングの名前で広告が出されたが、中にはカブリフ学校シー・エス・ロングの名前でも広告が書かれており、明治時代の香りが漂う。
このような広告が功を奏したのか、明治16年に書かれたロング宣教師の日記には、開学の時に18名の学生が集まったと書かれている(鮫島盛隆「シー・エス・ロング日本宣教記」1974年刊)。
ここで、校名にもなったカブリーとは、いったい誰なのか。ロング宣教師の1881年11月29日の日記には、「この学校は、…親愛し尊敬する旧師の追憶の祈念塔として建てられた」(鮫島前掲書P35)と記している。
実は、ロング宣教師夫妻が日本に派遣される直前に母校テネシー・ウエスレヤン大学で送別会が催され、その席上、敬愛して止まなかった故・恩師ネルソン・E・カブリー博士(英語表記では、コブレイの方が正しいと思われるが、ロング宣教師は、あえて日本人にとって発音のしやすいカブリーと表現したのであろう)の夫人モーリー・V・カブリーが日本の青年たちのためにと2ドルの献金を捧げた。それが契機となって多くの人々から献金が集まり、それを基金にロング宣教師は、長崎で男子校を設立したのだった。すでに2年前に同じ北米メソジスト教団のラッセル宣教師が、長崎・東山手に活水女学校を始めていた。
ロング宣教師は、まさに敬愛して止まなかった恩師の名前を学校名にしたのだ。そのネルソン・カブリー博士については、若干の史料が残っている。
ネルソン・E・カブリー博士は、1814年にテネシー州に生まれ、長じてテネシー・ウエスレヤン大学を1843年最優秀の成績で卒業、9年間をニューイングランドで牧師として活躍。その後、夫人の健康のために、イリノイ州のMckendreeカレッジの教授となった。後年、同カレッジで学長となった。1863年には、Zion's Herald誌の編集長も兼務していた。1863年には、彼自身の健康のため南部へ移りアセンズのテネシー・ウエスレヤン大学の学長となった。
1872年 には、ジョージア州アトランタのMethodist Advocateの編集長となった。ネルソン・カブリー博士のテネシー・ウエスレヤン大学の在任は、1863年~1871年ということになる。まさに、同博士の在任中の教え子が、ロング宣教師なのだ。大いに薫陶を受け、ロング宣教師の人生の指針となったのが、同博士だった。
牧師としてのカブリー博士は、説教の名手であり、編集者・書き手としての同博士は、名文家としても有名であったと伝えられる。1864年・1868年・1872年 のメソジストの総会のメンバーでもあった。1874年にジョージア州アトランタで没。
モーリー夫人の詳細については分かっていない。ただ、鎮西学院は、モーリー夫人の2ドルの献金の精神を今も受け継ぎ、長崎ウエスレヤン大学では、短期大学の開学時代以来、大学祭を2ドル祭と名付けている。
因みにカブリ英和学校から鎮西学館へと校名変更したのは、1889年(明治22年)、 現在の鎮西学院となったのは、1906年(明治39年) のことであった。鎮西学院は、2度の火災に遭い長崎市東山手から長崎市竹ノ久保へ移転したが、1945年原爆に被災。1947年に長崎市近郊の諫早市 へ移転して65年を経過した。
モーリー夫人の2ドルの精神を受け継ぎ、長崎ウエスレヤン大学では、世界で貧困や病に喘ぐ青少年のためにボランティア活動を展開しているが、何れの日にか彼等のために何事かを為したいと考えている。(Kyodan Newsletterより)