その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」《ルカによる福音書5章27〜32》
立ち上がったレビ
収税所に座っていた徴税人のレビは、主イエスから、「わたしに従いなさい」と呼びかけられ、立ち上がって従いました。レビは主の呼びかけに応えて、自分の働きの場から、ここが自分の居場所としていた所から立ち上がったのです。
そして、レビはさっそく主イエスをお迎えして宴会をもちました。ヨハネの黙示録にこのようにあります。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3章20節)。レビはたしかに心の戸を開いて主イエスをお迎えしたのです。
私たちは、日々の生活や働きにおいてしばしば行き詰まりを覚えます。教会の現状もきびしいものです。困難な課題があります。そのような中で奮闘努力をするのですが、なかなか実りを得ることができません。自分の力不足を痛感したり、協力者が得られないことを嘆いたりします。
さらに、「何をやってもムダ…」、「どうせできない…」といった思いにとらわれ、心も体も縮こまってしまいます。何かをする前から、自分で「できない」と決めつけてしまい、座りこんでしまうのです。
そのような時、自分の決意や努力、あるいはがんばりで立ち上がる人もいることでしょう。けれども、自分のがんばりには限りがあります。
私たちを本当に立ち上がらせる力は、私たち自身の中からではなく、外から与えられるものです。自分の外からの呼びかけや働きかけ、あるいは、支えによって私たちは立ち上がるのです。
外からの呼びかけ
以前、全国で共に説教の学びをしている交わりの中で、お子さんが発達障がいをもっておられる牧師の書かれた文章を読みました。
その牧師は、息子さんの診断がくだされた時、大変悲しく辛い気持ちになり、その日は家族で静かに過ごしたいと思ったけれども、役割があったので、ある講演会に出かけたとのことです。そこで彼は、ドイツから来られた講師のお話しの中で、「救われるということは、健康であること以上のことです」との言葉を耳にしました。そして、このように言っています。「息子の病気は治らない病気。でも健康であること以上にもっと大きな恵みを、イエス様は私たちに与えてくださっているんだ。…イエス様は、私たち家族のことをしっかりと目に留めていてくださり、そして、私たちにおいても、確かに働いていてくださっているのだ、そう思ったんです」。
この牧師は、まさに外からの声を聞き、それによって立ち上がったのです。
振り返りますと、私自身、今から38年前、学生運動後のいわゆる「内ゲバ」の時代に、混乱のただ中にあった時(カルト宗教に走ったりもした!)、その泥沼のような状態から抜け出させてもらい、信仰へと導いていただき、立ち上がらせていただいた者です。自分の力で立ち上がったのではなく、出会いを与えられた牧師の言葉をはじめとする、外からの呼びかけによって立ち上がらせていただいたのです。
心の中で立ち上がる
もちろん、そうは言っても、この世のさまざまな力によって押さえつけられ、とても立ち上がることなどできないということもあります。そして、立ち上がろうとする意欲さえ失ってしまうようなこともあるでしょう。
ある教会でのことです。男の子が母親と一緒に礼拝に来たけれども、その子はとても活発な子で、ちょっとの間もじっとしていられず、すぐにイスの上に立ち上がってしまったというのです。母親に「座りなさい」と注意されて一旦座るのですが、また、立ち上がる。そのようなことを何回か繰り返して、母親はとうとうその子を抱きかかえて、無理やりイスに座らせました。
そうしたら、その子は意外にもじっと座って、そしてニコニコしながら母親にこう言ったというのです。「ママ、ボク、体は座っているけど、心の中では立っているんだよ!」。
私たちはどうにも立ち上がることができないことがあります。病気や体の不自由さ、家族の心配ごとや人間関係のもつれ、仕事の大変さや生活の不安など、重荷に押しつぶされそうになることがあります。教会においても、5年先、10年先が本当に心配です。
そのような時に必要なことは、その男の子のように「心の中で立ち上がる」ことではないでしょうか。今の自分の状態や自分が置かれている状況を受け容れるけれども、そこでうずくまっているのではなく、そのような自分に対して、神さまが与えてくださる務めや役割が知らされることを祈り求めることです。それが、体は思うようにならなくても、自分の心の中では立ち上がるということであると思うのです。
罪人を招くため
主イエスの呼びかけによって、徴税人レビは立ち上がりました。
しかし、主にお会いし、主のお声を聞きながらも、立ち上がることをしなかった人たちもいました。ここにファリサイ派の人々や律法学者が登場しております。彼らは、徴税人たちと一緒に食事をしている主イエスと弟子たちに、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」とつぶやきました(30節)。彼らが大事にしていた律法やきまりにおいては、それはそうあってはならないことであったからです。
けれども本当は、彼らは自分たちの居場所から立ち上がることをしなかったということではなかったでしょうか。自分の立場や居場所に座りこんで、主の呼びかけに聞き従わなかったのではないでしょうか。
主イエスは、「罪人を招いて悔い改めさせるため」(32節)にこの世に来られた救い主です。私たちもまた、主の呼びかけに聞き従っているか、自らの罪の悔い改めをもって主の招きに応えようとしているかを自らに深く問わなければなりません。
主の復活の命に生きる
レビは立ち上がりました。この「立ち上がる」との言葉は、主イエスのご復活を表わす言葉としても用いられています(ルカ24章7、46節ほか)。レビが立ち上がったということは、それまでの人生から、主の復活の命の中を新しく生きる者とされたということです。
私たちもまた、主の呼びかけによって立ち上がらせていただきましょう。うずくまったり、座りこんでしまったりすることがあっても立ち上がるのです。何度でも。主の呼びかけに応えて。
(第39総会期教団総会書記・秋田桜教会牧師)