カナダ伝道会社は1873年創立50年を記念して外国伝道の開始を議決し、鎖国を解いた日本に第一陣として2名の宣教師を派遣した。山梨への伝道は1876(明治9)年その第二陣として派遣されたイビー(C.S.Eby)が遣わされた。彼は甲府盆地内を騎馬伝道し、3年間の伝道活動によって最初の教会、日本メソジスト甲府教会が創設された。1878(明治11)年であった。その教会の会員になっていった地元の青年たちは妹たちが尋常小学校を卒業しても進学する普通教育の学校がなかったことなど様々な動機を以て女子が高等教育を受けられるような学校を望み、発起人会を設立した。その発起人会は建物を準備するが、教師はカナダ婦人伝道会社に求めた。その求めに応じて派遣されたのがサラ・アグネス・ウィントミュート(Sarah Agnes Wintemute)であった。
ウィントミュートは1864年、カナダ・オンタリオ州に生まれ、同州女子師範学校、女子大学へと進み、フランス語、ラテン語を学び、また画学校も卒業している。その後、カナダ・メソジスト教会のカナダ婦人伝道会社から1886(明治19)年10月に東洋英和女学校へ派遣され、1889年4月まで、算術、英語、体操、西洋裁縫を教えていた。
来日して2年半経った時、カナダ婦人伝道会社は山梨英和女学校の初代校長にウィントミュートを指名した。山梨では新海栄太郎、宮腰信次郎、浅尾長慶らが発起人となり、全県下に寄付を募り山梨英和女学校を設立する準備が整いつつあった。
25歳のウィントミュートは東京を出発、山梨に向かう。当時、甲武鉄道は立川まで開通。立川以西は、馬か徒歩で移動するほかなかった。最大の難関である上り6キロの笹子峠を歩いてやってきたウィントミュートは迎えの青年たちを見ると嬉し涙を拭いつつ固い握手をした。志を同じくし、信仰をともにする者の心からの出迎えをどんなに喜ばれたことか。5月14日、山梨英和に着任した。
ウィントミュート校長を迎え、山梨英和女学校は甲府市太田町に、商家佐渡屋を校舎として1889(明治22)年6月1日に開校した。校舎は約80坪だった。生徒は6人。夏期休暇前に9人となった。25歳の初代校主・新海栄太郎をはじめ若い設立者たちは、9月の学期始めをめざし生徒募集の広告を数回にわたって山梨日日新聞に掲載し、ようやく9月から3人が入学し、12人となった。
実際の開校式は11月2日に盛大に行われた。式典プログラムではウィントミュート校長の「演説」も山梨日日新聞に「女子教育論」と題され全文が掲載されている。
ウィントミュート校長のカナダ婦人伝道会社への報告では「午前中は国語、午後は英語、毎日修身(Moral Science)という名目で、聖書の勉強にあてられます。大部分の者にとって聖書は初めて触れる興味あるもので、熱心に耳を傾けよく質問をします」。「キリスト教による学校ができるということは稀有な出来事ですが、地域の人々は、この学校が内面的なものを育てるところだという印象を、早くに感じとったのです」。キリスト者に対する偏見、厳しい抵抗の中で、ウィントミュート校長が提示した教育目標は「生徒たちをキリストの下に導き、キリストの精神をもって生徒たちがそれぞれの家庭を清く、美しく幸福につくり変えるとともに、社会に対しては奉仕することの尊さと、そのための能力を身につけさせること」であった。
商家を学校として開校した校舎は学校運営をしていくには施設、環境の面で必ずしも適した環境ではなかった。新海栄太郎校主ら設立者は翌年に730坪の土地を500円で購入し、翌1891年夏期休暇に入るとすぐに新校舎建築にとりかかった。
新校舎は和洋折衷でモダンな建物だった。県内では関心を持つ親たちの見学も増え、英和女学校の教育内容について理解も深まり、初期のように学校やキリスト教に対しての恐怖心も薄れ、生徒数も31人(うち寄宿舎生25人)となった。
1892年3月、ウィントミュートは休暇で退任し帰国した。再来日したウィントミュートは1893年、東洋英和学校教師(男子校)をしていたコーツ(H.H. Coates)と結婚。翌年に中央会堂第1代総理イビーの後コーツが第2代総理となった時、妻ウィントミュートは同会堂の婦人会長となり、以後、コーツと共に教育、伝道、社会奉仕に力を尽くし、その間、6人の子どもの母となった。
48年間にわたって日本各地で伝道を続けたコーツが1934(昭和9)年に70歳で召天した後も、ウィントミュートは日本から離れることはなかった。そして1939(昭和14)年の山梨英和女学校創立50周年記念式典に出席している。
太平洋戦争勃発後も、家族の帰国要請にもかかわらず、帰国することはなかった。1945(昭和20)年6月駿河台のニコライ堂内・仮設病院で81歳で召天した。
ウィントミュート先生は60年近く日本で伝道と教育に尽くしたが、その生涯の若き日、山梨英和の初代校長として教会の若者たちと創設の苦労を共にしたことを彼女は生涯忘れなかっただろう。
私たちもその若者たちの息吹と若き宣教師の情熱を覚えて、いつまでも心に刻んでおきたい。