健やかな時も病める時も
中条 鈴枝
(盛岡市・内丸教会員)
「みちのくは花盛りなり、君ら得て」と奥羽教区に温かく迎えられた。故浅野順一先生のご紹介でチリ地震津波後の港町大船渡で、開拓伝道に勤しむ牧師に嫁いだ。
故荒井源三郎先生は、「地方の伝道は台所教会、家内工業である。九九パーセントは夫人の力による。しかし牧師の一を加えて百パーセントになることを」。中山年道先生からは、「牧師夫人程、悪魔になるか、天使になるかの選択を日々求められる人はない」と大先輩の伝道者から頂いた心構えを胸に秘めて。
開拓伝道の幻を共にして、新居は礼拝堂であり、集会室であった。教会学校の生徒は溢れ、若者達は深夜まで、人生、神を語った。伝道所が生まれた事を知った人々が、牧師を訪ね、出入の多い日々を送った。
「二匹の魚と五つのパン」の奇蹟、スリルに満ちて、オサンドンに専心した。いろいろな補いの必要から英語塾にも力を注いだ。土地購入、会堂建築へと、プライバシーが限られる激しい生活、チャレンジングな営みが続いた。パイオニアの精神に鼓舞された若者達との出会いは、「あなた達の勲章よ」と煽てられて、その気になっていた。
しかし、十年の開拓伝道に疲れて、北東北、盛岡に移り、百年余の歴史ある内丸教会に招聘された。十二部屋もある文化財的西洋館、ネズミやゴキブリが走る空室は、勿体ないと、青年達を受け入れ、共同生活が始った。下宿人と共に思春期の一人息子も、豊かに伸びやかに育てられた。この結果に、神様のユーモアに驚いている。
羊飼いの食卓では、朝拝が守られ学生寮さながらの寮母の台所牧会、活気に満ちていた。地域の人々と共に用いられ民生委員も務めつつ、韓国の方の日本帰化手続きをお手伝いしながら、隣国、アジアへの関心、愛に目覚めさせて頂いた。牧師館のお客様と語らい、静聴しながら、お茶を供し、お宿もした。「急須」の役割が果たせるように願いながら。
主人の胃癌手術、続いて私の心筋梗塞で、相前後して医師に身を委ねて、一九九八年、隠退生活に入った。
奇跡的に病癒され、中条は、乞われてタイのハンセン病コロニーの職員に、ボランティアとして、日本語を教えに赴いた。私は、冠動脈バイパス再手術、大動脈弁置換術を二〇〇三年に受け、肺サルコイドーシスの治療も継続中である。
中条は「バンコク日本語キリスト教会・BJCC」に招かれ、二〇〇四年三月、彼の地で働くことになった。単身赴任である。おしどり夫婦には想像されない出来事であった。
隠退後、天使のような盛岡、教会の方々に囲まれて、独居の冬籠りを大切にしている。
毎朝九時、現地時間七時に、「ブーブー」「ブーブーブー」と無声のラブコールも楽しい。今日も、この生命用いられる感謝、世界の友にアンテナを高くし、連絡事務所の忙しさである。そして、絶えざる伝道への切なる祈りの内に、春を待つこの頃である。
『大夕焼け 窓いっぱいに 古希を越ゆ』 鈴枝