壁の穴
中谷郁美
(熊谷教会員)
「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』…」(Ⅱコリント6・1〜2)のみ言葉を贈られて、40才台半ばで、静岡教会で伝道師をしていた夫と見合い結婚をした。静岡の2年余りは忙しかったが、楽しかった。二人でいる時は、互いに自分の体を休ませる事で精一杯だった。その後、熊谷教会に招かれ、今、7年目を終わろうとしている。
わたしの愛唱聖句は、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった…」(イザヤ53・4)である。4年前、子供の時から患っていた慢性腎炎が悪化して、在宅での透析治療が始まった。1日4回、4~5時間置き、2Lの薬液を腹部のチューブで出し入れする。操作は至って簡単。しかし、体力、気力は確実に落ちた。
そんな私の傍らで牧師として、幼稚園の園長として日々を過ごす夫。素朴で、弱さを隠さない。「あるがまま」、「無理しない」が口癖だ。子供の頃は動物園の園長になりたかったとか、犬、猫、金魚の世話はもちろん、私の助けも黙々としてくれる。わたしは、素直に、感謝している。
一方、私は口うるさい。家事は夫に甘えてそこそこ。しかし、教会雑務では欠けがないようにと、あれもこれも。気持ちが先行して疲れ果てる。冷たい空気が漂う。「おれはいたっておとなしい人間だ。怒られないでくれ」と夫は言う。
ある夕礼拝前、言い争った。その後、「ドタン、バタン」と大きな音。夫は礼拝堂へ。私は恐る恐る辺りを見回した。壁に穴が開いていた。慌ててカレンダーで隠した。数日後、「何をしたの」と聞くと、「お前を叩くわけにもいかないから、壁を蹴った」と、悲しげな顔で言った。「恐ろしい人」と思った。暫くして、カレンダーを外して見た。粉々に砕けた壁、その奥に冷たい闇が潜んでいた。突然、「わたしだ。この穴をあけさせたのは、わたしだ」との思いが心を突き刺した。「もう止めよう。追い詰めるのは」。私は夫との生活のあり方に、思いを巡らし始めた。
「わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」(詩篇121・1〜2)は9年前私が夫に贈ったみ言葉だ。
夫は毎日曜、み言葉を語る。私はそのみ言葉に留まり、生きてきただろうか。キリストの眼差しを避け、自分の力で何かを埋めようとしていたのではないか。「壁の穴」の正体は「罪」だと知った。罪は絡みつく。「自分に拘らず、キリストを見続ければいい。ゆだねる事が課題だ」と、夫は自身にも言い聞かせるかのように言う。そんなある日、「罪を離れて立ち帰るなら、…罪を赦してください」とのソロモンの祈りの言葉が心に迫ってきた。「主よ。ごめんなさい」。涙が溢れた。心の深い所に静けさが広がった。
今日も夕食後、礼拝堂で十字架の下に立つ。夫のギターに合わせて精一杯賛美する。ああだこうだと話し、祈る。楽しくて、暖かい。キリストの恵みを味わう者として、二人はここにいる。