信仰と「本物」にふれて描き続ける
日本が太平洋戦争に突入する一九四一年の春、一四歳の福島さんは家業の理髪を継ぐため信州飯田から東京へ修行に出た。「三笠館」の若主人、後藤三男さんが迎えに来てくれた。車中で師匠は終始、一冊の本を読んでいる。主人がトイレに立ったすきに、福島少年は座席に置かれた本を開けてみた。聖書との初めての出会いだった。
三笠館に入店してすぐに渡されたのは聖書と讃美歌。「今度の日曜日の朝から日曜学校へ行きなさい」。師匠から言われて行った東京・芝教会。これが教会生活の始まりだった。
しかし、その師匠も先輩達も間もなく応召。昭和一九年戦時体制により、理髪のような平和的職業に携わる男子の就業も禁止。業を離れざるを得なくなり、主人の長兄の書生となった。夜間中学から明治学院専門学校を卒業、茅ヶ崎市にある平和学園に七年間奉職した。
終戦後、軍隊から帰った師匠は理容学校の創設に関わり、「理容と一般教育の経験を持つ福島を」と迎えられ、学校法人中央理容専門学校作りに参画。後藤さんは、日本の教育制度のらち外に置かれていた職業学校を専門学校として国に認知させるべく、理容学校の責任を福島さんに任せ、七五年、ついに専修学校を学校教育法の中に位置づけ、今日の専門学校制度の基礎を造った。
「理容師は容姿を整える技術だけでなく、その裏にある美しさに対する感性を養わなければいけない」。師匠は「本物」にふれさせるために従業員を美術館や音楽会に連れて行ってくれた。本物にふれる感動が、やがて福島さんに絵筆をとらせた。
定年後は絵画三昧。隔年でヨーロッパスケッチひとり旅に出かけ、個展も一六回。福島さんの目がとらえた本物の風景が、多くの教会員宅の玄関やリビングを飾っている。教会では、この道を伝道へと、「絵を楽しむ会」を指導。求道そして洗礼へと導かれる人が与えられた。