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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4593号】クリスマスメッセージ

2005年12月24日

マタイによる福音書二章一~一二節

異邦人を照らす光 上原智加子

・全ての人が招かれている日

今年もまたクリスマスがやって来ました。至る所で、クリスマスの楽しい雰囲気で盛り上がっているのを目にします。でもどうして教会以外の場所で、クリスチャンでもない人々が、これほどまでクリスマスを祝うのでしょうか?
おそらく毎年来るイベントの一つとしてお祝いしているだけかもしれません。しかし、クリスマスは、単なるイベントで、楽しみたい人だけが参加して、楽しんだらそれで終わりなのではありません。むしろ、クリスマスは、分け隔てなくすべての人が喜び祝い、この喜びに生きるように招かれている日なのであります。なぜなら、その日は、神の御子が世を照らす真の光として、すべての人を照らすためにお生まれになった日だからであります。御子が生まれたこの日、ユダヤ人だけでなく異邦人にも、神を喜び讃美する救いの道が開かれました。イスラエルが待ち望んでいた救い主の誕生は、真の神から遠く離れ、闇の中をさまよっていた人々のもとに、神の救いの訪れをもたらしたのであります。その意味においては、クリスマスは、正しく敬虔な人たちのためというよりも、むしろ自分ではどうすることもできない罪に苦しみ、闇の中でもがき、さ迷っている罪人のために備えられた喜びの日だと言えます。御子は、暗闇の中で輝いている光であり、闇の中を歩む人びとこそ、その光を見て、喜び、神を賛美するようになるからです。このクリスマスの意味を、御子の誕生の出来事に直接に接した人々の姿を通して見てみたいと思います。

・最も遠くにいた者たちが

マタイ福音書は、マリアとヨセフ以外で、御子の誕生を知っていた人物として東の方の博士たち、それも異邦人の、占星術の学者たちの存在があったことを告げています。異邦人である彼らが、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みにやって来たということの内に、すでにクリスマスの意味が隠されています。それは、真の神から最も遠くにいた者たちが、神の救いに最も近くに導かれたということであります。
彼らは、「東の方から」来た人々でありました。聖書では「東」は、様々な問題を抱えている場所として描かれています。それは、アダムとエバが罪を犯して楽園から追放された場所であり、カインが弟アベルを殺害した後、追放された地でありました。神の決定に不満を抱いたヨナが座ってニネベの町の成り行きを見守ったのも東の方でありました。言わば「東」は、神から追放された場所、あるいは逃亡する場所であり、さらに神への反抗を示す象徴的な場所であると言えます。
また彼らは占星術の学者でもありました。このことも、彼らが真の神からは遠くはなれたところにいたことを物語っています。というのは多くの異教の国々では月や星などの天体が人間の運命を支配する神々に数えられていたからです。彼らは天体の動きに通じている学者というだけでなく、天体を信仰する人々の間で祭司の役割を担っていたと考えられます。実際に「学者」と訳された言葉は、「賢者、天文学者」の意味に使われますが、「占い師、魔術師、魔法使い」という悪い意味にも使われています。
こうした東の方に住む異邦人の占星術の学者たちが、ユダヤの王としてお生まれになった方の誕生のしるしを発見して、そのことを喜び祝うために早速ユダヤの国へ向かって旅立ったのであります。神から遠く離れ、偶像やまじない、魔術に満ちた生活の中にあった異邦人の彼らが、しるしを見て、イスラエルが待ち望んできた王、メシアを一目見て拝みたいとの強い願いを抱いたのでありました。そして彼らの熱心な求めは、神に受け入れられ、彼らは輝く星と聖書の御言葉に導かれて神の御子に出会うことができたのであります。

・真の神を礼拝する生活へ

しかしながら、学者たちのメシアに一目お会いしたいという熱意とは対照的に、ヘロデ王とユダヤの宗教的指導者たち、そしてエルサレムの住民たちは、メシアの誕生の知らせを聞いても喜ぶどころか、むしろ不安と恐れを抱いたのであります。そして彼らと一緒に御子を拝みに行こうともせずに、冷たい傍観者であることに徹したのでした。本来なら、真の神を礼拝し、メシアを待望してきたはずのユダヤの民こそ、その御許に急いで拝みに行くべきであるのに彼らは尻込みし、自ら遠ざかったのであります。
そして、彼らとは反対に、神に反逆する地に住む異邦人の方が、しるしを見て、メシアの誕生を一目見ようと熱望し、神に許されて御子のみ許にと導かれたのでありました。
また驚くべきことに、学者たちは、救い主、ユダヤ人の王として生まれた御子の姿の内には、何一つ輝かしい栄光の王たるようなしるしを見ることができなかったにも関わらず、つまずくことはありませんでした。彼らが、命がけの旅をして、苦労してやっと辿り着いて仰ぎ見たメシアは、貧しい小屋の中にただ母マリアと共にいた幼子の姿であったのであります。彼らは、御子の内に何一つ輝かしい栄光の姿を見出すことがなくても、その貧しい姿の内に、神の言葉の成就を見て、喜びに満たされ、賛美し、御子の前にひれ伏して礼拝を捧げたのでありました。
そしてまた彼らは、御子の前に自分たちが持ってきた「黄金、乳香、没薬」の贈り物を差し出しました。彼らがもし魔術師のたぐいであったとするなら、その贈り物は、彼らの商売道具でもあったと言えます。彼らは、自分の持っていた最良の高価な物を捧げたというだけでなく、彼らの生活を成り立たせていた大切なものを惜しみなく御子に捧げたのであります。そうすることによって、彼らは言わば、これまでの偶像や魔術に満ちた生活から、真の神を礼拝する生活へと、その生き方そのものを決定的に変えられたのだと言えます。
このことは、彼らが「別の道」を通って自分の国へ帰って行ったことのうちにも暗示されています。

・生き方を変えられ

輝く星と聖書の御言葉に導かれて異邦人の学者たちは、ついにユダヤの王、異邦人を照らす光として、世を救うためにお生まれになった御子に出会い、生き方そのものを変えられました。
それは彼らが、見えないものに目を注いで、希望を抱き、神が与えて下さるしるしとみ言葉に支えられ、信仰を抱いて歩んだからであります。
私たちもまた、クリスマスの外見の華やかさにではなく、神の約束の確かさに信頼して、わたしたちを真に生かす救いの喜びをしっかりと受け止めたいと思います。そして新たな気持ちで、信仰の服従の道を歩み出していきましょう。
(須磨月見山教会牧師)

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