三月二五日、〇六年度最後の日曜日、能登半島の北端にある輪島教会では、八年という時を一緒に過ごした勇文人牧師一家の送別会が、礼拝後に予定されていた。過疎地に立てられた小規模教会では、人間関係が濃密だ。輪島教会員にとって、この日は特別の日となるべく定められていた。
午前九時四二分、教会学校の分級の最中、この地方を震度六強の地震が襲った。数日前から空気が生ぬるかったとか、モグラを一度に一〇匹も見たというような話が、巷間まことしやかに語られたのも事実だが、それは、ことが起きてからのことで、後知恵。地震は全く突然のことだ。老朽化した教会の二階は、誰もが体験したことのないほど揺れ、生徒の一人は棚から落ちた地球儀で頭部を怪我した。幸い重傷ではなかった。
教会建物は、一見したところ大きな傷はない。しかし、子細に見れば壁に無数のひび割れが走り、屋根の形が微妙に歪んでいる。
教会周辺には、空き地が目立つ、何年も前から無住となり傷みが酷かった家々は崩壊した。僅か一週間の間に撤去され、更地となったものだ。今なら市が無償で撤去してくれるから。
踏みつけられたように潰れた家も少なくない。そのような地域の中で、輪島教会はかろうじて踏み留ったのだ。もしかすると、建物の内部には、亀裂があり、今後致命傷になるまで拡がるかも知れない。実際、比較的被害が軽微と見える羽咋教会でも、余震の度毎に亀裂が増大した。その様子を、内城恵牧師は、テープでマークし記録していた。亀裂と共に不安が拡がる。
七尾教会では、土台に隙間ができ、屋根が歪んだ牧師館を見た。倒壊してこそいない建物も、立て替えが必要となれば、被害の程は全壊と何も変わらない。
輪島市門前地区の被害の甚大さは、一言で壊滅状態。戦場を連想させられた。外形が一応そのままに残っているコンクリートの建物も内部はどうなのか。
輪島教会の送別会は中止となった。勇牧師は被災の後、予定通りに金沢の若草教会に転任した。その後、輪島まで往復最短で二五〇キロの道を毎日通っていると聞いた。後任の五十嵐成見氏は、東京神学大学の新卒、彼も被災した輪島教会に、予定通り赴任した。他教派から転入した関係で、信徒伝道者としてスタートする。「大変な所に、大変な時に赴任しましたね」と話を向けると、彼は、口元に笑みを浮かべて頷いた。静かに、しかし覚悟を定めた様子は、既に伝道者の顔だ。勇牧師と共に忙しく働き、一緒に信徒宅を訪問している。今、はからずも、共同牧会が実現している。このこと自体は、後々良い体験となるだろう。
健気さに打たれ、「何か困ったことはありませんか」と、実に愚かな質問をしてしまった。答えは意外、「車がないんです」。それはもともと、地震とは関係ないが、最も必要な時、最も必要な所に、それがないという、教団の貧しさだ。
過疎の地を、そこに立てられた小規模な諸教会を地震が襲った。能登の諸教会を、その働きを、具体的に支えなければならない。