マタイによる福音書 4章1~11節
誘惑を受けられる主 山北宣久
新しい年を与えられた。「新年や またうかうかの初めかな」とならぬよう、主の赦しと忍耐と期待とによって与えられている日々を生かし切って行きたい。
今秋第36回の教団総会を迎える。未受洗者配餐問題をめぐって揺れる教団は多様性を大切にするがゆえに何によって一致する教会なのかが決定的に問われることとなろう。議論とともに決断をもって課題に向き合って行く迫りを感じさせられる。
*初詣
正月三日間でまた九千万人を越える人々が初詣に行ったというニュースが報ぜられるであろう。この人数に新年礼拝参加者が加えられていないことだけは確実だが、いろいろ考えさせられる。
初詣・神社仏閣で祈る人々は何を祈るのだろう。恐らく自分の幸福、安全、繁栄、成功、せいぜい拡げたところで家族の幸いであろう。初詣には隣人が欠落しているのではないか。
ここにクリスマスと初詣の違いが浮かびあがる。人々の救いと世界の平和を祈り、自分の幸福から共なる恵みへ愛を与えられて向かうのがクリスマスであろう。自己愛を表出する初詣、隣人愛を深めるクリスマスこの差が存在する。
*誘惑
しかし、私たちとて自己中心、利己主義、自分を絶対化する傾向はすぐ襲い来たるを知っている。
神を第一とする生き方を旨としながら、自分を主とする対し方をとろうとする、ここに誘惑が存在する。
この「誘惑」の問題が新年最初のみ言葉として与えられる。これが教団の聖書日課として臨むことは何ともふさわしい。それは、私たちは何を第一として、生き歩むのかが根底から問われるからである。
「さて、イエスは悪霊から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」
バプテスマを受けられた主はすぐに誘惑にさらされた。しかも自分の意志ではなく、霊に導かれてそうしたというのである。
このことは象徴的だ。何故なら、バプテスマを受け神のみこころに叶った道を歩もうとする時、そうはさせまいとする悪魔の力が猛然と働くからだ。
ヨーロッパの諺に「神がchurchをつくる時、悪魔もその傍らにchapelをたてる」とある。
神に従おうとする時、必ず悪魔もついてくる。激しく闘う人ほど誘惑にさらされるということがいえるのだろう。Liveを反対から読めばEvilとなる。生は悪と背中合わせなのだ。
主イエスがバプテスマを受け水から上がられた時「天がイエスに向かって開いた」という。(3章16)そしてその直後、僅か二節のちに地獄が開けたのを見るのだ。
天の高い所を知る人は、また同時に地獄の深い所をも知らねばならぬのだろう。そうした意味で、主イエスは悪魔の誘惑と直面させられねばならなかった。
*三つの誘惑
主の受けられた三つの誘惑は大胆な言い方をすれば口と目と手の誘惑と表現できるのかも知れない。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(4章3)
これは口の誘惑である。民衆の物質的要求を満たし、口からのパンをいつも備え、人心を引きつけたら、皆喜んで迎えてくれるだろう。これは自信過剰型キリスト者なら、すぐに乗りそうな話だ。
次に「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言った。(4章6)
これは「目の誘惑」である。民衆は派手なスペクタクルショーを好む。イエスが見た目も鮮やかなショーまがいの姿を見せるなら人とは拍手喝采、神の子と認めるだろう。これは熱狂信心型キリスト者なら、いかにも乗りそうな話だ。
更に悪魔は「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」と言った。(4章9)
これは「手の誘惑」である。権力、繁栄、そして人をも手に入れ治められるなら、メシア、救い主として迎えよう。こんな在り方は現世利益型キリスト者は乗りそうな話である。
口、目、手の誘惑、これらはもしあなたが神の子ならといってなしたものだが「神」と「子」を引き裂き、神の子をして偶像の子にしてしまう点にポイントがある。
私たちもバプテスマによって神の子とされながら、口と目と手を欲望達成のために行使すべくひきずられ、結局は偶像の子とさせられてしまう、ここに誘惑が存するのだ。
*神の言葉
悪魔の巧みな、ギリギリの線をついてくる誘惑に対して主はみ言葉をもって厳しく対応された。
ルターはこの箇所を誘惑というより「攻撃」としている。信仰は信仰、現実は現実と分離させ、絶対的な神との関係を相対化させ、骨抜きにしようと攻撃をしかけてくる。
こうした攻撃に対し、主は議論をもって応じられなかった。申命記8章3、申命記6章16、同じく申命記6章13の神の言葉を直截的に語って退けられた。
悪魔がみ言葉を不正に引用し、強引に時には巧妙に自分を神の座につけてしまう歪曲、神が主語であるべきところを自分を主語としてしまう在り方へと変えてしまうことに、正しくみ言葉を主は語り、悪魔の攻撃を退け、誘惑に勝利されたのだ。
神の言葉を以って垂直の線、タテ軸をはっきりさせる。ここに人間中心主義、ヒューマニズムとの混同から脱する道が開かれる。
ところで主は何のために誘惑にさらされたのであろう。それは私たちのためであったことをこそ確認しておきたい。
様々な誘惑にさいなまされ、悪魔の攻撃にさらされつつ生きざるを得ない私たちのために、主イエスご自身、誘惑を受けられたのである。「その誘惑は私も受けた、そしてあなたのためにその誘惑に勝ちをおさめておいた。恐れるな、私はあなたと共にいる。」こう言って悪魔の誘惑のさなかにてこそ私たちと出会い、支え給うのである。
「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」
(ヘブライ2章18)
私たちのために勝利の道を招いてくださった主イエスにあって進み行こう。
「試みにあわせず悪より救い出し給え」と祈りつつ。
(聖ヶ丘教会牧師・日本基督教団総会議長)