洗礼を受けていない者にも開かれた聖餐(以下開かれた聖餐)を執行しているということで、私は山北議長の提案によって常議員会から教師退任勧告を受けた。しかしこの私への教師退任勧告は明らかに不当である。まず私のような開かれた聖餐を執行している教師は、礼拝出席者が少なく、さまざまなしがらみで洗礼は受けられないが礼拝には毎週出席している方を排除できないという理由で、数は少ないが教団の成立時からいたと思われる。
一九六〇年代後半からは、いわゆる最後の晩餐の記事だけではなく、五〇〇〇人の共食、被差別者とのイエスの食事などにも聖餐との関わりがあるという聖書学の知見や神-世界-教会というミッシオ・デイによる宣教論、教会論の知見により、開かれた聖餐を自覚的に執行する教会や教師が出てくるようになった。
そのことは一九八七年発行の日本基督教団宣教研究所編による『聖餐』によって明らかである。同書所収の論文で村山氏は、「宣教の現場の闘いから出てきている聖餐の問題を、始から秩序の乱れとして切り捨てては真の対話は生まれない。 ここにこそ今日の宣教の課題が具体的に提示されているのであるから、今後相互批判による対話を深めていく必要があろう」と言って、今後の課題として以下の問題を挙げている。①サクラメントとは何かの問題。②未受洗者陪餐の問題。③礼典執行に絡む二重教職制の問題。④聖礼典に介在する国家権力の問題(「救世団」合同加入時の問題を踏まえつつ、今日の課題として考える)。⑤式文改訂問題である。
ここに挙げられている五つの問題は、少なくとも聖餐に関わる教団教会の本質的な問題である。私たち教団に所属する教会、信徒、教職は、各個教会の現場での取り組みを重んじながら論議を積み重ねていく中で、戦時下戦争協力という誤りを犯し戦責告白においてその誤りを反省した合同教会としての日本基督教団の教会建設を共有するために招かれているのではないか。少なくともそのような形成途上の教会として日本基督教団は存在していると私には思われる。
ところが、山北議長をはじめ私の教師退任勧告に賛成する方々は信仰告白・教憲教規遵守違反としか言わない。開かれた聖餐について話すのはいいが、執行はいけないの一点張りである。それでは山北議長及び山北議長を支持する方々が、今までどれだけ議論の場を誠実に作ってきたかと言えば、ほとんど皆無である。聖餐についての自由な懇談会だから記録もとらないと昨年七月の常議員会で私に発題させ、十月の常議員会で教憲教規違反だからと私に教師退任勧告を山北議長は出してきた。今の教団常議員会は驚くべき強権政治の場となっている。丁寧な議論によってお互いの意見にある真理性に耳を傾けつつ一つの道を決断するというのではなく、意見は言わせるが、最初から方向は決まっている。民主主義の原則である少数者の意見が重んじられるということはほとんどない。すべてが多数決の論理で事が進められている。
「正しい聖礼典の執行」を繰り返し主張している山北議長への私の根本的な問いは、そう簡単に正しい聖礼典の執行というようなことが言えるのかということにある。私は第35合同後20回教団総会で行われた聖餐式の陪餐には与からなかった。沖縄教区との関係の修復がなされ沖縄教区から教団総会議員が出席できるようになってこそ、教団総会で行われる聖餐式がふさわしい聖餐式だと考えたからである。山北議長は正しいとは信仰告白、教憲教規に則っていることだと言う。信仰告白、教憲教規に則り、沖縄教区を切り捨て、また私のような開かれた聖餐を執行する教師を切り捨てて成立する日本基督教団が、果たして教団成立以来の歴史にきちんと責任を負える合同教会としての日本基督教団になり得るのであろうか。私にははなはだ疑問に思えるのだが。
(教団常議員・紅葉坂教会牧師)