問題点を見るのではなく、チャンスを見続ける
宮川 章子
(岡山信愛教会員)
『問題点を見るのではなく、チャンスを見続ける』
「わかんない」「こんなのやりたくない」「うざい」と言ってやる気のなく、だだをこねて、直面する問題から逃げようとする子どもたちを相手に、「なぜ?」「どうしてやらないの?」と手をやいて、悩んでいる時に、与えられた学習塾の勉強会の講師が言われた言葉です。
牧師のパートナーとなって十八年。岡山に導かれて八年。学習塾の先生として七年が経ちました。
教会での生活は、決して平坦ではありません。問題点を上げたらキリがないでしょう。学習塾の先生という与えられた仕事を通して「はっ!」と改めて気がつかされました。すべては、私自身の問題だということを。たくさん神様からチャンスをいただいているのに、いつも主の十字架と復活の希望を与えられているのに。なかなかそこを見ようとしない。問題点ばかり、相手を変えよう、周りを変えようということばかり目がいってしまっている自分の姿が。
「教えようとしていませんか。やらせようとしていませんか。無意識にしていることを意識することが大切です」「自分自身が楽しまないと子どもも学習が楽しくないはずです」「幹は自分です。枝葉は自然についてきます」と次々と講師が言われる言葉。
牧師のパートナーになりたての頃は、(だんだんずうずうしくなってきていますが)「牧師の妻はこうあるべきだ。こうすべきだ」との圧力に押しつぶされそうになったことも何度もありました。また、「辞めたい。この場から逃げたい」と思ったこともありました。結局は自分で自分を「こうすべき。こうやるべき」と縛り付けていたのです。そして、「あれが足りない。これも足らない」と引き算ばかりしていたのです。挙句の果てに夫のせいにしたり、本当に未熟でした。
聖書の御言葉は、「すべて主に委ねなさい」とくり返し、くり返し、わたしたちに語り続けています。主にすべて委ねているつもりで、まったく何も委ねていない私の姿が改めてくっきりと見えてきたのです。聴いているつもりで受け入れていない。自分の力で必死にあがいて相手や周りを変え、主が私に与えようとされているすべてのものから、逃れようとして「そんなこと分かっているわよ」と目の前に起きている物事のみに振り回され、一人よがりの傲慢な自分がそこにいたのです。
主イエスは、いろいろな方法や物事を通して教え続けてくださっています。時には、厳しく、時には、やさしく語りかけてくださいます。『あなたは、牧師のパートナーってとっても楽しいと喜んでないのですよ』『いつも喜んでいなさい。ではなく、あれもしなくては、これもしなくてはと、心を向けるものがずれていますよ』『まず思い煩いをわたしにすべて委ね、わたしに心を向けなさい』と。
夫が、「ここは、良い教会だ。楽しい教会だ」と口癖のようにつぶやくのも、きっと無意識に思っていることを意識しようとして奮い立たせて?いるのではないかなと思います。
どんなことも楽しんで喜んで、問題点と思えることも自分に与えられたチャンスと受け止めて、主に委ねて、歩み続けていきたいと願っています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Iテサロニケ5・16~18)