神代真砂実
「教団新報」四六四四号に掲載された後宮敬爾氏の「力による一致では悲しすぎる」という文章について、特に『リマ文書』をめぐる部分が不正確なので一言したい。文章の後半部分に含まれる教憲・教規やドイツの教会(EKD)の性格の不正確な理解にも実は大いに問題を感じているのであるが、ここでは『リマ文書』の件に絞って書く。
さて、問題なのは『リマ文書』から未受洗者の陪餐を肯定する議論を氏が引き出しているという点である。
この問題点そのものをまず明らかにしておこう。氏の文章の四段落目を以下にそのまま引用してみる。
「そしてその作業の中で『陪餐資格』が課題となり、具体的には『知的ハンディを持つ人の陪餐』『幼児洗礼者の陪餐』『子どもの陪餐』『未受洗者の陪餐』などがあげられたのだ。そして、その応答として世界レベルで様々な教会で様々なあり方の『開かれた聖餐』への試行がなされているのである」。
未受洗者の陪餐を含めた「『開かれた聖餐』への試行」は「その応答として」、つまり、この段落の冒頭に出てくる「その作業」への応答としてなされていると氏は述べている。
それでは「その作業」とは何か。「その作業」というのは直前の「こうした過程を経て、教会は聖餐の重要性を再確認してきた」(三段落目)という、再確認の作業という意味としか理解できない。さらに「こうした過程」というのは、当然のことながら、その直前の文章、「リマ文書で世界の教会が新たに確認したことは、聖餐が持つ多様な意味とその豊かさであった」を指している。
このようなわけであるから、氏は『リマ文書』によって聖餐の意義を確認した世界の諸教会が未受洗者の陪餐を含んだ「開かれた聖餐」を試行していると述べていることになる。氏が『リマ文書』から未受洗者の陪餐を導き出している、言い換えれば、『リマ文書』から未受洗者の陪餐が必然的に導き出せるとしていることは明らかである。
しかし、ここには無理があり、誤解があると言わなければならない。というのも、『リマ文書』は未受洗者の陪餐を認めていないからである。一例を挙げてみよう。バプテスマに関して『リマ文書』は「バプテスマは、十字架につけられそして甦られた主なるキリストと一体になるということである。それはまた、神とその民のあいだにむすばれた新しい契約の関係の中に加入することである」と述べている(「バプテスマ」第一項、翻訳の二七頁)。
他方、聖餐については、「聖餐は、キリストが、御自身の死と復活の想起(アナムネーシス)として、また小羊の婚宴(黙示録19・9)の先取りとして、弟子たちにあたえられた新しい過越の食事、新しい契約の食事にほかならない」と述べられている(「聖餐」第一項、翻訳の四八頁)。
これらの文言から明らかなように、『リマ文書』は「新しい契約」の概念によって洗礼と聖餐とを結合している。従って、聖餐において新しい契約の食事に与ることの前提に、洗礼を通しての、この契約関係への加入があるのは明白である。
この前提があるからこそ、「バプテスマを受けてキリストのからだの肢とされているひとりびとりは、キリストの約束にしたがって、この聖餐において罪の赦しの保障を受け(マタイ26・28)、永遠の生命を約束するしるし(ヨハネ6・51〜58)を受けるのである」(「聖餐」第二項、翻訳の四九頁)という言葉も出てくるのである。ここに未受洗者の陪餐が入り込む余地はない。
疑問に思えてならないのは、氏が、この最も基本的な点(『リマ文書』からの先の二つの引用が洗礼と聖餐について、それぞれ最初の項で語られていることに注意して頂きたい)をどうして無視しているのかというところである。何か理由が、あるいは、氏のような読み方を裏づける典拠が存在するのであろうか。
従って、『リマ文書』に対する応答の中で、陪餐資格の問題に言及するものがあるというのは事実であるにしても、そこで直ちに未受洗者の陪餐の問題を同列の問題として挙げるということにもまた無理があると言わなければならなくなる。
氏は、その関連で「開かれた聖餐」という言葉を使う。しかし、「開かれた」(オープンな)聖餐ということの意味には、いくつかの次元が存在する。
その元来の、従って最も中心的な意味において、「開かれた聖餐」とは他教派の信徒に対して開かれていることを言う。そうである以上は、世界の諸教会で語られている「開かれた聖餐」が直ちに未受洗者の陪餐の意味であると理解するのは大きな過ちを犯すことになる。
裏返して言えば、この問題について論じるには、ただ「開かれた聖餐」という言い方では不充分かつ不正確なのであって、「未受洗者の陪餐」と明確に述べる必要がある。また、「開かれた聖餐」に未受洗者も含まれるべきだと考えるのであれば、そのことをきちんと論証する責任が生じてくるのである。
以上の理由から、「教団新報」四六四四号における後宮氏の発言には、まず、その前提とされている『リマ文書』についての大きな誤解が存在し、それゆえに、その議論全体が成り立たないことは明らかである。さらに、「開かれた陪餐」に未受洗者の陪餐を含めてよいと考えている理由も明らかにされていない。
聖餐という教会の信仰や一致の中心問題(だからこそ、『リマ文書』は大きな労苦を経てまとめられたのである)に関して、論拠や議論に不正確さを持ち込むのは、議論を不毛にし、教会の生命を、そしてまた信仰者の救いを脅かすこと以外の何ものでもない。
(東京神学大学教授)