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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4649・50号】メッセージ マタイによる福音書28章16~20節

2008年5月2日

疑う者たちに注がれている主イエスの力 古屋治雄

・世の終わりまでいつも

私たちは、すでにイースターを祝い、復活の主の力強い導きの下に、四月からの新年度の歩みを始めています。そして私たちは復活された主が、四十日間弟子たちと共におられた後、天に昇られ、約束してくださった聖霊が注がれるペンテコステを迎えようとしています。
わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
マタイによる福音書末部にあるこの御言葉は、主イエスが復活された直後に、弟子たちに向かって語られた言葉です。しかしこの主イエスの呼びかけは、復活直後に限定されず、むしろ今日に至るまで、どんな時代の中にあっても、主を信じる群れに呼びかけられている御言葉です。
この御言葉が語られた、復活の主と弟子たちの出会いの場面をみると、ルカによる福音書などが伝えている出会いの出来事と違っています。ルカでは、初めのうちは不安ながらもやがて大きな喜びにつつまれ、劇的な出会いの場面が伝えられています。そこで弟子たちは力づけられて復活の証人となり遣わされて行きました。
これに比べてマタイによる福音書では、復活の主と弟子たちとの出会いの出来事は28章17節で簡潔に伝えられています。
「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」。
マタイの場合も、復活の主に会うことができた弟子たちが後にきっと喜び、その後使徒として力強い働きを担ったであろう、と想像することができます。しかし直接そのようには伝えられず、復活の主の約束と派遣の言葉で終わっています。

・彼らの中に重い闇となって

そしてここで見過ごしにできないのが、この場面で弟子たちの中に「疑う者」がいたことです。ヨハネ福音書に登場するトマスのような特定の一人ではなく、細かくみると、複数の弟子たちがそうだったというのです。
聖書の復活の出来事に接する人は誰でも、荒唐無稽で一笑に付す出来事とは思わないにしても、疑いを抱かない人はないでしょう。
しかし、ここで十一弟子たちが復活の主に会っていても、なお疑いをもっているのは、主イエスが逮捕され、十字架にかけられたとき、主を捨てて逃げてしまったことが彼らの中に重い闇となって支配しているからと思われます。
ここでの復活の主イエスの最後の呼びかけは弟子たちへの派遣命令と言われます。確かにそうです。しかしこれは単にその役割を自覚させ、確認するための言葉ではありません。復活の主は、疑いを払拭できない弟子たちのところに、ご自分から「近寄って来て」、言われました。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」
すでに弟子たちは「イエスに会い、ひれ伏し」て出会っているのですが、ここで、主の宣言とも言える言葉をはっきり聞いたのです。同じように宣言しておられる言葉が最後にも語られています。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
そして、この二つの宣言の言葉に、主イエスの派遣の言葉が、包まれているのです。
弟子たちは、この主イエスの二つの宣言の言葉をどう受けとめたのでしょうか。
私は確信します。「主は自分たちの犯した罪を赦してくださった」と弟子たちが信じることができた、と。復活の主の権能は、主ご自身のうちに留まっている力ではなく、弟子たちに、赦しと、新しい使命に向かう力として働いたのです。

・赦しと、新しく生きる力を

私たちも主の復活の知らせを伝え聞き、その主を信じ、初めの弟子たちから始まった教会の歴史を担いながら礼拝をささげています。
しかし復活の主の前に招かれたあの弟子たちが、礼拝をしながら疑いを秘めていたように、私たちにも、時に主に対する「疑い」がわき上がってきます。
私たちは、新しい二○○八年度を歩み始め、それぞれの教会でも新たな指針を掲げ、希望をもって進みたいと願っています。その私たちの中には、主に対する力強い信頼だけがあるのでなく、「疑い」や「不信」に陥る現実を抱えています。
主イエスは、そのような私たちにもこの最後の言葉によって、赦しと、新しく生きる力を確約してくださいました。
主イエスは、この二つの宣言に囲まれる中に派遣の言葉として、行って、すべての民を弟子とすること、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること、そして命じておいたことをすべて守るように教えることの三つをお命じになりました。
復活の主イエスが弟子たちに出会ってくださったのはガリラヤでした。この地はそもそも主イエスが伝道を開始された地であり、ここから弟子たちを呼び出されました。「異邦人のガリラヤ」とも呼ばれ、「死の陰の地」とも言われているところへと私たちは出て行くように、復活の主から命じられています。
「すべての民をわたしの弟子に」するということは、孤立している人に、あなたを主が弟子に呼んでくださっています、と伝えることです。弟子として終わってしまったあの十一弟子は復活の主によって新たに弟子=使徒とされました。
主は、もともと弟子になれる者ではなかった者こそ、弟子にしてくださり、決して離さない方であることを私たちは人々に告げるのです。
私たちは、新しく主に招かれた人を洗礼へと導き、そのことのために祈るように勧められています。教会の働きは実際多岐に亘っていますが、どの働きも、洗礼へと導いてくださる主が同じように教会のなすべき働きに導いて下さっています。
三つ目に、教えることが命じられています。教えといっても古い律法を守るのではありません。「あなたがたの教師はキリスト一人だけである(23章10節)」この主イエスから私たちが弟子として教えを受け、その私たちが新たに教える者とされるのです。
復活の主が私たちに命じておられるこれらの命令は、私たち自身の力や能力によってなしうることではありません。一番初めの弟子たちに確かに働いたように、派遣命令を受けるすべての者に、復活の主の権能が先んじて働いてくださっているのです。
どんなに疑いに包まれても主が救いの歴史を完成し貫徹してくださることを信じて私たち一人ひとりが弟子とされていることを感謝し、またその使命を担っていく者となりたいと思います。
(福岡中部教会牧師)

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