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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4673・74号】宣教師からの声

2009年4月25日

赦しと正義
マーチー・デイヴィッド
(CGMBからの派遣宣教師)

人を赦した話ほど、キリスト者の心を暖めるものはない。コリー・テン・ブームは赦しについて聴衆に語る真っ只中で、腰を抜かす程驚いた。聴衆の中に、まさに自分たち家族が収容されていたナチ強制収容所、ラヴェンスブリュックの元看守がいたのだ。このエピソードを聞いて、その時コリーが陥ったジレンマを想像できない人はいないだろう。コリーが聴衆に向かって、赦しの大切さを雄弁に語った直後、ラヴェンスブリュックの元看守、今や洗礼を受けたばかりの元看守が近づいて来て、収容所での虐待を赦して欲しいと嘆願したのである。
コリーは立ちすくんだ―無防備な自分たちに残酷な仕打ちをした男を本当に赦せるのか―コリーは主イエスに従って生きると決心して久しいが、今「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と主イエスのように祈ることができるだろうか?
結論から言って、結局コリーは神の御力により元看守を赦すことができた。そればかりか赦す過程で、アガぺー(愛)をもたらす赦しの驚くべき力を体験したのだった。
旧約聖書のヨセフも、自分をねたんで奴隷に売りとばした兄たちにエジプトで再会したとき同じようなジレンマに直面した。ヨセフは赦すことを選び取る中、弟を裏切った呵責から永らく砂漠同然であった家庭に旱天の慈雨が降り注ぐような癒しを目の当たりにしたのだ。
実践的な意味で、赦しは新約聖書の説く愛の中核をなしている。赦しこそが愛を、キリスト者特有のものとしている。愛してくれる人を愛し返すのは簡単だ。しかしキリスト者は自分を憎む人をも愛せよとの使命を帯びている。ありのままの感情が憎悪や仕返しを求めたとしても愛せよ、と命令されているのだ。このような愛(アガペー)を実践することは難しい。しかし人を癒し壊れた関係を劇的に修復する愛の威力を一旦知れば、従わざるを得なくなる。
コリーは、元看守の手を握って赦しを伝えた時ほど神の愛を強く感じたことはなかった、と話した。ヨセフの場合でも、赦しを示すことで家族全員の再会が果たされることになる。
以上は心温まる喜ばしい話である。しかし社会倫理問題に特に強い関心を持つキリスト者は、少し戸惑いを感じるかもしれない。赦しがたとえ心からのものであったとしても法的・倫理的な責任はそう簡単に解決できない、との疑問が湧いて来よう。これが愛の勝利、赦しの勝利なのだろうか?犠牲者への償い、罪人への懲罰は要求されないのか?
この点ではヨセフ物語が教訓となろう。兄たちは実のところ、弟を裏切った後、罪悪感と羞恥心に苛まれて長年に亘り辛酸を嘗めて来た。その上、兄たちは弟ヨセフに起こったことを父ヤコブに隠し通した。父に隠蔽し続ける罪悪感は並大抵でなく、父ヤコブの死後にも尾を引き、弟を恐れ続けることになった。兄たちは刑法に従って懲罰を受けた訳ではない。しかし脳裏に棲み付き悔い改めを求める良心の罰は殊更手厳しいものだった。
人間関係を一変させ軋轢を和解に変える赦しの力は、懲罰を伴う正義があって初めて機能する。エピソードの示す通り、罪人を救う神のご計画には、正義と愛(赦し)の両方が含まれる。一方では赦し(愛)が無ければ、正義を実行してもこの家族に癒しはもたらされなかっただろう。他方で正義(説明責任)が伴わねば、ヨセフの赦しによって心が暖まったとしても、人生を変える潜在力は限定されたであろう。愛のない正義は律法主義に陥り、正義の無い愛は感傷に留まるにすぎない。
私たちが恨みにしがみつき、傷つけた相手を赦すことができないがために、悪意がその構成員の間に募り、崩壊した人間関係を修復できないときは、学校・教会・教会組織・宣教師団体さえも、同じように苦しんでしまう。相手を不当に扱ったり、相手に不当に扱われたりした時、真摯な赦しや悔い改めによって、どれだけ多くのキリスト者間の問題が素早く解決できるだろうか。私たちの愛は、赦しという個人的な行為を通して初めて、内実を伴うものとなるのだ。

教団新報
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