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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4779・80号】メッセージ わたしの中のキリスト

2013年8月17日

ガラテヤの信徒への手紙2章20節

生きること、食べること

8月16日には、五山の送り火が終わりました。下旬には地蔵盆があります。日本では、夏は生と死とが交差する時期です。この時に生と死について考えてみましょう。
生きるということは食べることです。人はパンのみでは生きていませんが、パンなしでも生きられません。その意味では、生きているということは他のいのちを奪うことです。そのことを描写した詩があります。
「くらし」
石垣りん
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかつた。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばつている
にんじんのしつぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。
『石垣りん詩集 表札など』
(2000年 童話屋)

ごはん、野菜は植物ですからあまり命を奪ったという気がしないかもしれませんが、肉は牛や豚で、鶏であり、魚なのです。生きていた命を殺して、私たちは食卓へと運ばせているのです。その意味では、生きるということは他のいのちを奪うことです。
そして、食べ物だけでも生きられないわたしたちは、「親を、きょうだいを、師を」食うことにもなるのです。もちろん、「肉を」食うように人を食べるのではありませんが、誰かを犠牲にしているということです。
「ふくれた腹をかかえ」て、少し人生の余裕を持つことが出来て詩人は来し方を振り返ってみるのです。すると「台所に散らばつている……父のはらわた」が見えたといいます。父の心や魂を乱暴に扱ってきた自分の前半生が詩人には見えたのです。父だけではありません。「親を、きょうだいを、師を」もです。申し訳ないと涙を流しますが、「食わずには生きてこれなかつた」のです。詩人は、「ごめんなさい、もうしません」とは言えないのです。これからも、おそらく食べ続けなくては生きられないからです。だから、涙を流すのです。しかし、人の涙でなく、「獣の涙」を流すのです。生きることの罪をみごとに描いた詩です。

イエス・キリストの十字架

このいのちの定めゆえに、イエス・キリストは十字架に架かってくださったのです。私たちへの愛の行為です。この時から、すべてのものの死は、愛の行為となったのです。
私たちは生きるために、親や多くの人々の犠牲を必要としています。その犠牲が私への愛でできているなら、どうでしょう。私たちは、親の犠牲に気付かずに成長してきました。両親も犠牲とも思わず、子どもたちへの愛ゆえに喜んでなしたことなのです。
私たちはこの親をその愛ごと食べたのです。それゆえに、「獣の涙」を超えててゆくのです。私たちは、ビタミンを含む食物を食べて、ビタミンを摂取し、たんぱく質を含む食物を食べて、たんぱく質を自らのものにします。それなら、愛を食べれば、愛を摂取したのです。その愛を自らの血肉となして生きているのかという問いが涙となって目に溢れれば、その涙は、その愛に相応しい生き方を求める祈りになって神に向います。
同じように、多くの牛豚、魚も、愛ゆえに死んでくれたのではないでしょうか。イエス・キリストの十字架は、これらのいのちの中にも立てられているのです。私たちは、神の愛の中にいのちを営むものです。
犠牲になってくださった愛に応えたいという祈りによって、私たちのいのちも愛になるのです。
そのとき、私たちのいのちと化した他のいのちはわたしを通してこの世に再びその姿を現わすのです。

神の右に座すイエス・キリスト

しかも、死が生にただ吸収されるだけではありません。地でイエス・キリストが私たちの内でいのちとなってくださっているのと同時に、天で神の右に座しておられるのです。それなら、私たちのために死んでくださったものも、また、天において永遠のいのちになっているでしょう。
それは歴史においてもいえるのです。数えきれないほどのいのちが失われた太平洋戦争がお盆に終戦を迎えたのは偶然の一致ではありません。この平和がたくさんの死者の上に樹立されたものであることを私たちが忘れないためです。私たちへの神の配慮です。
太平洋戦争では、日本兵は170万人以上、民間人も35万人以上亡くなりました。中国では1700万人、ベトナム、ビルマなどの東南アジアでも民間人と兵士を合わせて1千万人を超える人々が死にました。日本の平和はこの犠牲の上に成立したのです。
この人々に思いを寄せるのが8月15日です。戦争で亡くなられた方々の一人一人の死を、キリスト者である私たちは、イエス・キリストの十字架とともに受け止めなければなりません。彼ら一人一人の死は間違いなく、私たちへの愛なのです。

キリストが内に生きておられる

ガラテヤの信徒への手紙2章20節は私たちが福音によって与えられた生き方を示します。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。
私たちは、死んでいったものたちによって、生かされています。そのことを教えてくださるのがイエス・キリストです。
キリストがわが内にいのちとなってくださっているのです。このキリストのいのちに甦るために、今までの生き方を葬らねばなりません。自我を葬り去り、キリストの沈黙の声に耳傾けるのです。
まさに、私の中の本当の私であるキリストに生き生きと活動して頂くのです。それは、愛そのものとなって、この世に自らを解き放つことです。
その時あなたは、私たちのために死んだものたちと同じく、他者のために、死んでいくものとなるでしょう。十字架のイエス・キリストのようになるのです。そして、キリストと共に甦るのです。そのように、永遠のいのちの道を歩んでゆきましょう。
(向日町教会牧師)


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