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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【2023年12月】今月のメッセージ「最高のヒーラー」

2023年12月1日

「最高のヒーラー」

聖書個所:「主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます。
あなたが救ってくださるなら わたしは救われます。
あなたをこそ、わたしはたたえます。

エレミヤ書17章14節
※動画はこちらから

蕃山町教会
牧師 服部 修

  

 ところでなんですけど、ドラゴンクエストってRPG あるじゃないですか?そう私が好きなやつです。
 ドラゴンクエストに限った話ではないんですけど、ああいうRPG やっているとダメージを受ける地形とか、ダメージを受ける床ってあるのご存知ですか?
 例えばドラゴンクエストだったら毒の沼ってのがあるし、あるいは溶岩とか。そういったものがあるんですよね。
 多分知っていると思うけど、毒の沼って、歩いていると主人公の体力が減っていくんですよね。沼の種類によって減り方が全然違ったりするし、でも減っていくんですよ。それでも毒の沼にどうしても入らなきゃいけない場合とかあるし、毒の沼の中に重要なアイテムが置かれていたりとかするので、避けられたらいいんだけれども、避けて通れないようなところに置かれていることあるんですよね。
 主人公が例えば回復魔法みたいなものを持っていたら、毒の沼を歩いて体力がどんどん減っても自分で回復魔法をかけて、力尽きないようにできますよね?
 あるいは回復アイテム。ドラゴンクエストだったら薬草とか。そういったのがありますけれど、そういったものをたくさん持っていって回復魔法がない時なんかは薬草をいくつも持ち歩いて、毒の沼を歩いて体力が減ってきたら薬草を飲むみたいな感じで冒険するわけですよ。
 そういう毒の沼を歩きながら体力が減っていくというゲームシステムをやりながら、私ふと思ったことあるんですよ。
 何かっていうと私たちの人生も、毒の沼を歩いているようなものじゃないかなっていうことなんですよ。
 実際、私たちが生きている時にはいろんなことに出会うじゃないですか。もちろん嬉しいこともあるし、そうでないこともあるし。いろんな形で、若いなら若いなりに、年を取ったら年を取ったなりにダメージ与えられることって結構あるじゃないですか。人それぞれですけれど。
 じゃあそのダメージをどうしても受けながら歩いているということを考えた時に、ああ、人間の人生って毒の沼歩いているようなもんだなっていうことを最近つくづくと感じるんですよね。
 最初に言ったように毒の沼歩く時に、回復魔法持ってれいばいいです。でも私たち回復魔法持っていないし、持っていない状態でもし冒険を始めたとすると、回復アイテム、ドラクエで言うと薬草ですよね、そういったものを持ち歩かないといけない。
 だから、私たちが人生の中で人生の毒の沼でダメージを受けた時に、どうやってそのダメージを回復するかということがやっぱり人生を送っていく上で、大事な点になるんじゃないかなっていうふうに思わされるんですよ。
 さっきも言ったように毒の沼にも宝箱があって、例えば毒の沼の中にも時々薬草なんかも落ちていて、ああ、助かったっていうようなことも時々はあったりして、なんとかなんとか毒の沼を切り抜けて冒険するみたいなのがあるんですよね。でも最終的にその回復アイテムが全くなくなってしまったら体力が 0 になるし、そこで力尽きてしまうわけですよ。
 ゲームだったら毒の沼っていうのは範囲が決まっているので、ある程度歩いて抜け出すことってできますけど、私たちの人生の毒沼って抜け出す場所ないんですよね。そうするとやっぱり私たちはどうやってダメージを受けた時に力尽きることなく生きていくことができるのか、みたいなことがやっぱり大事になってくると思うんですよね。
 つまりそこで、私たちが生きていく上で私が傷ついた時に回復してくれるもの、あるいは回復してくれる人ってのは大事になると思うんですよね。
 ドラクエの話に戻りますけど、ドラクエの11人で旅をして、 2 になるとパーティーシステムっていって複数の人と一緒にゲームの中で冒険ができるようになるんですよ。
 自分は回復魔法持ってないし、回復アイテムも持っていない、という状態で考えた時に、もし自分のパートナーが回復アイテムも回復魔法も持っているとしたら実際心強いじゃないですか。私これだなって思うんですよ。
 話は聖書の方に行きますけど、旧約の預言者の中でエレミヤって人がいるんですよね。有名な預言者ですけど、そのエレミヤっていう人がある預言の中でこういうこと言うんですよ。神様に向かってね。
 「あなたが癒してくださるなら私は癒されます」って。「主よ、あなたが癒してくださるなら私は癒されます」。これ明らかに自分では回復できないから、神様、私を癒してください。それこそ毒の沼、歩き続けてもう体力危ないです。いや、もしかしたら体力もうゼロです。神様私を癒してください。回復魔法をかけてください。そしたら癒されるっていう風に言ったんじゃないかなって私思うんですよ。

 私たちが何で神様を信じるとか、何でイエス様を信じるかと言ったらやっぱり私が人生で傷ついたり倒れたり、もう動けないって思ってしまうような時に、私を癒してくださる神様、私を癒してくださるイエス様がおられるから
 だから私たち毒の沼という人生を歩いて傷だらけになって、歩く度ごとに体力が減っていっても何とか癒されて生きていけるんじゃないかなっていう風に思うんですよね。
 体力が有り余っていたら、まだ毒の沼歩けるだろうとか、もう少しいけるだろう、 とかそんな感じで人生生きていけるんですけど。でも実際問題私たちの体力って限界があるし、自分で自分を癒すことはできないし、回復アイテム、ちょこっと見つけたかもしれないけど、でもそんなものはすぐになくなってしまうし。そう考えると無限に私のことを赦してくださる、癒してくださる、そういう人を人生のパートナーにするのが、実は毒の沼を歩いてダメージばかりを受けて生きる私たちにとって、一番実は大事なことなんじゃないかなって思うんですよね。

 「あなたが癒してくださるなら私は癒されます」。きっとそれは私たちがイエス様を信じた時に、あ、本当に私は赦されているんだ。私は神様の子どもとして愛されているんだ。どんなに人生の毒の沼でいろんなことに傷ついたり倒れたり、あるいは動けなくなってしまうことがあったとしても、「大丈夫。私がいるから」ってイエス様が言ってくださると思うんですよ。
 そう考えると私たちの人生って、最高のヒーラー、回復してくれる人をヒーラーと言うんだけど、私たちが人生のヒーラーであるイエス様を信じて生きていくということが、私たちにとって必要なことなんだなっていう風に思うんですよね。
 だから、イエス様を信じて生きていけば、どんな毒の沼の人生でも私たちは大丈夫。そのことをぜひ信じてもらいたいなと思うし、またそのことを信じて、いつでも「イエス様、癒してください。イエス様、助けてください」と呼びかけ、そうやって傷つきながらも癒され続けて生きていけたらいいな、とそういうふうに思っているんですよね。
 あなたもね、そういうふうに生きてもらえたらな。そう思っています。

 

愛猫 フクちゃん

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