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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【2023年10月】今月のメッセージ「神さまにおまかせ」

2023年10月1日

「神さまにおまかせ」

聖書個所:「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マルコによる福音書2章17節
※動画はこちらから

日本基督教団
総幹事 網中彰子

 

 4月より日本基督教団の総幹事に着任した網中彰子です。
 先日、母校の東洋英和女学院で小学生の皆さんに、卒業生として想い出や、なぜ洗礼を受けたか、どうして牧師になったか、総幹事の仕事についてなどを講演するよう頼まれて行ってきました。
 牧師はともかく、総幹事という仕事をどう小学生に説明するか。
 校長先生との打ち合わせで「私は、教団の1650の教会が安心して礼拝を捧げることが出来るよう祈り、お支えするのが総幹事の仕事です。とお話しします」と伝えると、校長先生は「では先生のご紹介の前までに私も考えてみます」とおっしゃいました。いざ本番で「網中先生は日本基督教団の牧師先生全員を束ねていらっしゃいます」と紹介されて(いや束ねてはいないんだな~)と思いました。
 個性豊かな牧師たちを束ねることなどとてもとても誰にもできませんし、私自身を含めて神さまに束ねられているということです。
 毎日教会のことを考えていられるのは幸せなことで、多くの祈りに支えられて歩んでいます。
『空の青さを見つめていると私に帰るところがあるような気がする』
 中学の教科書に載っていた谷川俊太郎さんの詩の一部です。
 当時15歳の私は命とは何かなど思春期らしく漠然と考えていました。(自分の命が帰るところはどこだろう?)と教室の窓から晴れ渡る青空を見て考えました。
 命は神さまから来て、それぞれの使命を終えるとまた神さまのもとへ帰る。初めと終わりは神さまという同じ場所。だから命の造り主である神さまを信じる。
 こうして中学3年のクリスマスに洗礼を受けました。これからもし、苦しいことや大変なことが起きたら、神さま一緒にいて守ってください。というちょっとした保険の要素も期待する思いでした。
 洗礼を受ける準備をしてあと二日後に洗礼式がある。そんな時、急に(こんな私が洗礼を受けていいのか?清くも正しくもないのに)とビビッてしまいました。
 それを牧師先生に相談した時、与えられたのが「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」というイエスさまの言葉です。
 そもそも私たちは神さまのもとから離れた時点で、皆病人で罪人なのだというのです。そんな私たちをこそ、招いてくださる神さまの愛があります。
 清くも正しくもないから、洗礼を受けて救われるのだと安心しました。
 聖書に出てくる罪は英語でSinと言って誰にでもある自己中心というか自分勝手な思いです。犯罪のCrimeとは違いますが、犯罪は他人のことを配慮しないことによって起きることを思えば、罪Sinから始まるとも言えます。
 なぜ全員に罪Sinがあるのか。神さまに造られて命を与えられて愛されて守られていたのに「神のようになれる」と悪にそそのかされて、神さまを中心とせずに自分を中心としたからです。
 皆、初めから神さまを信じている訳ではありません。
 分かる・分からないは人の領域。信じる・信じない、信仰は神さまが与えるものなので神さまの領域です。誰も強制されることはありません。
 信仰があろうとなかろうと自力で解決できることはしていきます。
 勉強も仕事も自分でしなければならないことはたくさんあります。
 ただ、命のことに関しては、私は生まれた、という表現が英語でI was born. と言うように受け身です。
 生まれさせられたとでも言いますか、始まりから受け身です。
 誰も自分から生まれますと宣言して生まれた人はいません。だから、造った神さまにお任せするのです。
 神さまは欲しいものではなく、必要なものを与えてくださいます。
 自分のしたいことと神さまが私たちに望むことは違うかもしれません。なすべきことはある日突然やってきて、戸惑うこともありますが、それをする力も一緒に与えられます。できないことはさせない、できることしかさせない、ような神さまの力を感じます。
 神さまがいるのになぜいまだに悪があるのか。それは悪にそそのかされた人が、初めの愛に立ち帰るのを、神さまご自身が忍耐強く待っているからです。
 人は変わらないとも言えますし、変わるかもしれません。
 洗礼を受けても人を傷つけてしまうこともありますし、失敗もします。でも常に神さまが一緒にいます。だから解決方法が変わります。例えば、どんなに言葉や態度を尽くして謝っても、傷つけた相手にゆるしてもらえない時、相手の苦しみや痛みを本当に癒すのは私ではなく「罪人を招くため」に来たイエスさまによる他ありません。
 自分も相手も抱え込まずに手放す存在があることは救いとなります。
 聖書は教会に来る来ないにかかわらず、すべての人に向けて語られています。
 一人で聖書を読むのもいいですが、教会の礼拝で聖書の言葉を聴くのもいいです。もっと気楽に、ふと気が向いたら、十字架のついている教会の礼拝にチラ見しに行ってみるのもよいと思います。
 十字架がついている、と言いましたが、十字架は死刑道具です。アクセサリーにもなっていますが、死刑道具を好んで身に着ける人はあまりいないと思います。
 十字架を気軽に見ることが出来るのはイエスさまが十字架で死んで復活したからです。復活を信じていなくても、十字架はイエスさまによって生きる希望となりました。
 自己中心の罪は、自分で自分を律するとか修行するとか、そんな程度ではどうにもなりません。神の子が身代わりになって死んで滅ぼすという方法でしか解決しませんでした。
 罪を帳消しにされた私たちは、復活して今も生きるイエスさまと共にいることでビビることなく安心していられます。
 自分の正義を主張して互いが戦うような現実の中で、弱く、愚かで、情けない罪人だと自覚することから始まる、新しく本当に強い生き方があります。
 お互いを赦すことは難しいことですが、イエスさまが間に入って両方を招いてくださったことを素直に受けて、神さまの愛の中で平和に歩んでいきたいと願っています。

今月のメッセージ
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