「かけがえのない人生を生きる」
聖書個所:「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラントン、ある者には二タラントン、ある者には一タラントンを与えて、旅に出た。 五タラントンを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 二タラントンの者も同様にして、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 すると五タラントンを渡された者が進み出て、ほかの五タラントンをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントンをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントンをもうけました』。 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。二タラントンの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントンをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントンをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。一タラントンを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 さあ、そのタラントンをこの者から取りあげて、十タラントンを持っている者にやりなさい。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。」
マタイによる福音書 25章14~30節
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日本基督教団高知教会
牧師 黒田若雄
高知教会牧師の黒田若雄です。
少し以前になりますが、教会と直接関わりにない方からお電話をいただきました。ご自分の今の大変な状況をお伝えになられ、最後にこう言われました。「自分は人に比べて損な人生を生きている」と。その方の思いは、痛いほど分かります。私も、神様に真の意味で出会うまで、いつも人と比較して、自分のことを考えていたように思うからです。そんな私に、神様は聖書を通して、新しい人生の姿をお示しくださいました。今日は、私が改めて新しく自分の人生の姿を受け取ることになった、イエス様の示された一つのたとえについて、お話ししてみたいと思います。
たとえは、こんな言葉から始まります。「ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた。」と。ここでの「タラントン」とは、何を指しているでしょうか。「1タラントン」とは、人が一生働いてようやく手にできるような、莫大な金額です。そうしますと、この「タラントン」とは、その人の人生そのものを指していると言ってよいと思います。ですから、このたとえは、神様から託された人生を、私たちが何を大切にして生きていくのかが示されているたとえなのです。
さて、主人にタラントンを預けられた僕たちはどうしたでしょうか。5タラントンと2タラントンを託された僕は商売をして、それぞれ倍にしました。一方で、1タラントンを託された僕は、土に埋めておきました。大分時がたって、主人が帰ってきました。そして、僕たちと精算が始まったのです。5タラントンと2タラントンを託された僕は、それぞれ倍になったタラントンを差し出しました。主人非常に喜んだのです。それに対して1タラントンを託された僕は、土に埋めておいたタラントンを差し出しました。減らすことなく管理できたと僕は思ったのですが、主人は、大変怒ったのです。主人は、増やすことができなかった結果を怒ったのでしょうか。
1タラントンを託された僕は、なぜ土に埋めておいたのでしょうか。彼は、主人は酷な人で失敗を決して許さないと思ったのです。そして、託されたタラントンを減らしてしまったら大変と思い、その恐れの中で、当時は最も安全な管理の仕方の一つであった土に埋めたのです。それが、1タラントンを託された僕の思いでした。しかし、タラントンを託した主人の思いは、全く違っていたのです。主人は、ただ結果が全てと思っておられたのではありませんでした。
タラントンを僕に託した主人の心がよく伝わってくる言葉があります。最初にある「それぞれの力に応じて」という言葉です。主人は、僕たちの姿をずっと見てきました。そして、この僕なら5タラントンちゃんと用いていくことができる、この僕は2タラントン用いることができる、この僕は1タラントン用いることができる、その思いからそれぞれのタラントンを委ねたのです。つまり、主人は査定するような思いで僕の歩みの結果を見ようとしているのではなく、このタラントンで一体何をするだろうか、きっとこの僕ならこのタラントンを用いていくことができる、大きな期待を思って見つめているのです。1タラントンを託された僕は、期待を持って自分にタラントンを託した主人の心に、気がついていなかったのです。
私たちの人生は、このタラントンにたとえられています。私たち一人一人は、それぞれにかけがえのないタラントンである人生を、神様から託されています。けれども、思わされるのです。みんな同じものが託されているならば、よいと思います。しかし、当然ながら、私たちの人生の姿は、それぞれに違いがあります。たとえで僕に託されているタラントンが違うようにです。自分よりもはるかに恵まれた人生を歩んでいるように思える人がいる。それに対して、自分に与えられた人生は、なぜこのような姿であるかと思うこともあるのではないかと思います。その時に、私の人生はとてもちっぽけなものに見えてくるのです。あの人のような人生を歩むことができればどんなに良いか。神様は不公平ではないかと。
しかし、イエス様はこのたとえを通して示されているのです。神様は本当に不公平なのか、と。「私」に託された「私」の人生は、私たちのことを本当によく知ってくださっている主人である神様が、「力に応じて」、つまり、私に最も相応しい人生として託してくださったものだからです。そうして、私たちのことをよく知っておられる方ですから、神様としての見通しがあるのです。必ず歩んでいける、と。勿論、自分の人生を生きることには、さまざまな困難や課題があります。けれども、その困難や課題を担うからこそ知ることが出来る恵みがあるのです。託された「私」の人生を歩んでしか得られない喜びが必ずあるのです。神様は、そういう期待を持って、私たちにそれぞれの人生を託してくださったのです。人生の姿の違いは、私たちに対する神様の大きな期待なのです。
関わりのある教会の方に、このような歩みをされた方がおられます。その方は、小学校の時に、お母さんが病気で亡くなられ、とてもつらい思いの中を歩まれたそうです。そして、ずっと孤独だという思いを抱えながら学生時代を過ごされていました。今でいう大学生の時、たまたま出会った友人が、クリスチャンだったこともあり、教会の礼拝に出席されるようになりました。そして、神様に出会い、生涯神様と共に歩まれることになりました。その方は今、高齢となっておられますが、自分の人生を振り返って、辛いこと悲しいことがいっぱいあったけれども、神様に出会うことが出来た、そういう感謝な人生だったと、おっしゃっておられます。
神様は、それぞれに違った人生を託されました。そして、その人生を歩んでいくことを通して、あなたはきっと素晴らしいものを受け取っていくはずだ、神様はそう思っておられるのです。
失敗したら大変と縮こまるのでもなく、人と比較することでもなく、神様が与えてくださった自分の人生を、精一杯生きさせていただくのです。そこに、かけがえのない人生を、あなたに託してくださった神様の心からの願いがあるからです。