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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

人間の自己家畜化
――「わたしは良い羊飼い」の譬に寄せて――

2026年10月1日

 11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊たちのためにその生命を棄てる。
(ヨハネによる福音書11章11節[私訳])

 

 「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ福音書10章11節)というイエスの言葉は広く知られている聖書の言葉です(14節でも繰り返されます)。イエスが弟子(教会)を導く「羊飼い」であり、弟子(教会)はイエスに導かれる「羊」であるという譬の背景には、「ヤハウェはわたしの羊飼い〔=飼い主〕。わたし〔に〕は欠けるものはない」(詩編23編1節[私訳])という旧約聖書の一節が示すように、羊飼いである神が羊である人間を養い導くという思想があります。
 この言葉を聞くと、学生時代に受けた牧会心理学の授業を思い出します。牧会心理学とは、牧師に必要な心理学やカウンセリングの基礎を学ぶものであり、担当者はアメリカで牧会心理学を修め、日本に広めた第一人者の先生でした。その先生は授業の冒頭で「わたしは良い羊飼いである」という言葉を引き合いに出し、「みなさんは将来牧師になるのだから、まさに良い羊飼いにならなくてはならないのです」と開口一番に語りました。その先生からすると、将来牧師になる学生を励ますためにそのように言ってくれたのですが、わたしたち生意気な学生はその発言に反発し、「牧師と信徒」を「羊飼いと羊」という主従関係、しかも「人間と家畜」として理解するのは傲慢であり、牧師と信徒も含めたあらゆる人間関係は対等なものであるとの批判を先生にぶつけたのです。
 その先生はまさか学生からこのような物言いをされるなどとは夢にも思っていなかったはずです。というのも、「牧師」を意味する英語のpastorはラテン語(pastor)に遡るのですが、その意味はまさに「牧者=羊飼い」であり、「牧会心理学」の「牧会」とは、「牧師」が「教会」の人たちに対して行う働きを意味するpastoral care(牧者の配慮)に由来しますので、その先生は牧師としての矜持を持ちつつ、キリスト教では常識とされている理解を述べたに過ぎなったからです。
 自分が教員になってみると、当時のわたしたち学生がいかに傲慢であったのかに気づかされ、申し訳なくも感じるのですが、やはりこの先生の考えに与することはできません。ヨハネ福音書が伝える「わたしは良い羊飼いである」という譬では、羊飼いと羊の関係は通常のものではなく、「良い羊飼いは羊のためにその生命を棄てる」と続いているからです。これはイエスが十字架刑によってその生命を落としたことを象徴的に言い表しています(15節をも参照)。したがって、ヨハネ福音書が羊飼いと羊の関係をイエスと弟子(教会)の関係に当てはめているのは、羊飼いが羊のためにその生命を棄てるという特別の前提があるからであり、それはイエスという稀有な存在との関係としては成り立つのかもしれませんが、それを教会の牧師と信徒の関係に敷衍して当てはめるのは危険ですし、ましてや信徒を家畜に喩えて牧師である羊飼いによって一方的に導かれる存在に仕立て上げるのは、教会の司牧性(職制/教職制)が抱える構造的差別にほかならないからです。
 このように神と人間、イエスと弟子(教会)、牧師と信徒の関係を羊飼いと羊の関係に喩える発想は、ドイツの人類学者エーゴン・フライヘア・フォン・アイクシュテット(1892−1965年)が提唱した「人間の自己家畜化」(Selbstdomestikation des Menschen)と通底するように思えます。アイクシュテットは「家畜とは人間が利用するために野生動物を遺伝的に改良したもの」との前提から、「人間は野生動物よりも、むしろ家畜と似たところがある」と考え、「家畜は人間が野生動物を人為交配することによってある目的のために改良したものだが、人間は無意識のうちに自己をある方向に『改良』、つまり『自己家畜化』した産物ではないだろうか」との興味深い説を唱えたのです。つまり、人間は他の動物を家畜化しただけではなく、自分自身をも家畜化してしまったとの大胆な仮説です。
 アイクシュテットの仮説は、産業革命に代表される近代化に伴い、衣食住や労働を含めた生活の総体が量産化されるようになった状況を背景に提唱されたと考えられますが、同種の指摘はフランスの社会人類学者クロード・レヴィ=ストロース(1908−2009年)によってもなされています。すなわち、レヴィ=ストロースは西洋の文明社会が発達させた「科学的思考」(la pensée scientifique)が、「栽培/耕作された思考」(la pensée cultivée)ないし「家畜化された思考/飼い慣らされた思考」(la pensée domestiquée)とでも呼びうるものだと言って批判を展開しているからです。この思考は、地球や宇宙をも含めた自然万物という外界を科学という名の体系内に「飼い慣らす/囲い込む」性質を持っており、レヴィ=ストロースはことにこの思考の特質が「効率を高めるため」のものであることを問題視します。確かに、効率化や合理化は現代社会がモットーとするものであり、特にこの状況は資本主義システムによって、全てを画一化しようとするグローバリズムとして、確実に世界を飲み込もうとしているからです。
 レヴィ=ストロースは「家畜化された思考」に支配されつつある世界に省察を促し、「家畜化された思考」の対立概念として、「神話的思考」(la pensée mythique)に代表される「野生の思考」(la pensée sauvage)を措定し、その特質として「ブリコラージュ(bricolage)」(器用仕事・日曜大工)という概念をあげています。ブリコラージュとは、創意工夫して手仕事で道具を編み出すことに表象される古来の人類の知の様相を表します。つまり、「家畜化された思考」が「効率を高めるため」に画一化した規格品を作るものだとすれば、「野生の思考」は創意工夫して臨機応変に必要な新たなものを自らが作り出していくことを表します。彼は西洋世界が非効率的・非合理的として切り棄ててしまった「未開社会」や古来の英知の大切さを再発見しようとしているのです。
 「人間の自己家畜化」は、宗教、軍隊、教育、会社などを含めた社会の全体を覆っているように感じられます。近年「社畜」という言葉を聞きますが、これは「自己家畜化」の現代版とでも言える現象ではないでしょうか。確かに、同じサプリメントを飲み、同じブランドの服を着て、一様に会社のために働き、その規格から外れるものに社会不適合の烙印を押し、スマホでAIからマニュアル的な回答を得て、自分で考えなくなってしまっているわたしたち現代人もまた「自己家畜化」してしまっていると言えるのかもしれません。この社会を覆う「自己家畜化」に抗うには、自ら創意工夫して考え行動するブリコラージュを求め、効率化や合理化によって切り棄てられてしまったものを取り戻す必要があるのではないでしょうか。
 そう言えば、イエスは道具や家屋を直したりするプロの大工職人でしたから、イエスを「ブリコルール(bricoleur)」(日曜大工)などと呼んだら叱られてしまいますが、その場の状況に応じて臨機応変に創意工夫するブリコラージュを大切にしていたことは確かではないでしょうか。

(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)

 
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