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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

ダブルスタンダードな家父長制への気づきを
――「姦通告発の罠」の物語を読む――

2026年6月1日

753そして、人々はそれぞれ自分の家に帰って行った。81さて、イエスはオリーヴ山に行った。2だが、夜が明けると、再び彼は神殿に行った。すると、全ての民が彼のもとに来た。そこで、彼は座って、彼らを〔いつものように〕教えた。3だが、律法学者たちとファリサイ派の者たちが姦通の現場で取り押さえられたひとりの女を連れて来て、彼女を真中に立たせ、 4彼らは彼に言う、「先生,この女は姦通をしているときに現行犯で取り押さえられました。5さて、律法ではわたしたちにモーセはこのような女たちは石打ちにするよう命じました。では、あなたでしたら、何とおっしゃいますか」。6だが、このことを彼らが言ったのは、彼を告発することができるよう、彼を罠にはめるためだったのである。だが、イエスは屈んで指で地面に落書きをしていた。7さて、彼らは彼に問い続けた。彼は顔を上げて、彼らに言った、「あなたたちのなかで罪のない者が真っ先にこの女の人に石を投げたらいいよ」。8そして、再び彼は屈んで地面に書き始めた。9だが。〔このやり取りを〕聞いていた者たちは、ひとり、またひとりと、年長の者たちから始めて、〔次々と〕立ち去って行った。すると、彼だけが残され、そして真中にその女も〔残されて〕いた。10そこで、イエスは顔を上げて彼女に言った、「女よ、あの人たちはどこにいるのですか。あなたを断罪する人は誰もいないのですか」。11そこで、その女は言った、「誰もいないのです、主よ」。すると、イエスは言った、「わたしだってあなたを断罪なんてしませんよ。行っていいですよ。[そして]今からはもう二度と罪を犯してはいけませんよ」。

(ヨハネによる福音書7章53節−8章11節[私訳])

 ヨハネ福音書7章53−8章11節は元々はヨハネ福音書には含まれてはいませんでした。後代の写本を通してヨハネ福音書に入れられるようになったものです。みなさんの読んでいる聖書(口語訳、新共同訳、新改訳2017、協会共同訳など)がこの箇所を〔 〕括弧に入れているのはそのためです。この物語が聖書正典には含まれていなかったにもかかわらず、〔 〕括弧つきであるとはいえ、ヨハネ福音書のこの場所に置かれてきたのは、この物語の内容が教会でとても好まれてきたからです。つまり、罪の女がイエスに赦され、もう二度と罪を犯してはならないと命じたイエスの言葉に従って生きるようになった改心(悔い改め)の物語として重宝されてきたということです。
 しかし、さすがにこの物語が改心(悔い改め)を主題にしているとするのには無理があります。というのは、6節で「だが、このことを彼らが言ったのは、彼を告発することができるよう、彼を罠にはめるためだったのである」とわざわざ注釈が入れられていることからも明らかなように、この物語は権力者たちがイエスを罠にはめるために仕組んだものとして描かれているからです。したがって、この物語を「罪の赦し」や「改心」(悔い改め)の物語として理解したりすることは適切ではありませんし、この物語に「姦通の女」(共同訳,新共同訳)や「姦淫の女とイエス」(協会共同訳)といった表題をつけるのも誤りです。このテクストに表題をつけるとするならば、「姦通告発の罠」の物語とでもするのが相応しいからです。
 この「姦通告発の罠」の物語において、イエスは権力者たちのあまりのやり方の汚さに嫌気が差しつつも、自分を陥れる策略のために、この女性をこんな目に遭わせてしまって申し訳ないと思いながらこの女性を助けます。ここで言う権力者たちのやり口のあまりの汚さとは、とりわけこの女性がひとりだけ捕まえられているところに露わになっています。というのは、3節の「姦通の現場で」と4節の「姦通しているときに現行犯で」と繰り返されているように、この女性は姦通の真最中に取り押さえられていますので、当然のことながら相手となる男性も現行犯で一緒に取り押さえられていたはずなのです。しかしながら、ここに相手の男はいません。一緒に連れて来られてはいないのです。また、それと同様の権力者たちの手口の汚さが露呈しているのは、5節の「さて、律法ではわたしたちにモーセはこのような女たちは石打ちにするよう命じました」という聖書引用の仕方です。なぜなら、権力者たちが引き合いに出すモーセ律法はレビ記20章10節と申命記22章22−27節であり、双方のテクストは姦通をした男性と女性の双方を一緒に死刑にするよう命じていますので、女性のみを断罪の対象としているかのような聖書の引用と解説はご都合主義の誹りを免れません。
 この物語に登場する権力者たちのご都合主義と狡猾さは、クィア神学者のロバート・E・ゴスによって、「この物語はセクシュアリティ〔=性に関することや性行動など〕を非難の対象とする態度、そして女を処罰の標的にしているにもかかわらず、男性の側の当事者を処罰の標的にしないダブルスタンダードな家父長制文化に関する強烈な告発を提供する」と批判されています。
 このゴスの意見に示唆を受けて考えると、7節の「あなたたちのなかで罪のない者が真っ先にこの女の人に石を投げたらいいよ」(7節)というイエスの言葉は、この女性に罪があるか否かについてその場にいる人たちに問うているのではなく、女性の側にだけ一方的に罪を押しつけ、男性の側の問題は等閑に付すダブルスタンダードな家父長制が抱えるご都合主義とそのズルさを暴いていると言えるのではないでしょうか。
 わたしたちが生きる社会もまた、同様のダブルスタンダードな家父長制がはびこっています。それは日本基督教団でも同様であり、ダブルスタンダードな家父長制が跋扈していると言えるのではないでしょうか。それが顕在化することもありますが、意識的・自覚的と無意識的・無自覚的とを問わず、多くの場合は不可視なものとして、あるいは気づきたくもないものとして、社会や教会のそこかしこに隠されているのです。ダブルスタンダードな家父長制は女性嫌悪(ミソジニー)と表裏一体ですので、問題や課題が表立つと、それがいかに非道なことであったとしても、「姦通告発の罠」の物語のように、女性が人身御供にされることがさも当然でもあるかのように身過ごしにされてしまうのです。歴代の教会において、そして現代の教会において、「姦通告発の罠」の物語が「罪の赦し」や「改心」(悔い改め)の物語として理解されてきたことが、そしてこの物語が「姦通の女」や「姦淫の女とイエス」といった表題をつけられてきたことがその証左とは言えないでしょうか。今一度、自分自身で「姦通告発の罠」の物語を再読することを通して、自分自身の聖書の読み方を省察し、社会や教会に隠されているダブルスタンダードな家父長制とそのズルさへの気づきを得る機会を持っていただきたいと願っています。
(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)

※今回はわたしの時間的な制約もあり,同時期に執筆していた論文の聖書テクストを取り上げるという配慮をしていただきました。同論文は「姦通告発の罠――ジェンダー・セクシュアリティの視点によるヨハネ7:53−8:11の読解」(『酪農学園大学紀要 人文』社会科学編』51巻1号、2026年10月)として発行される予定です。発行されましたら、大学等のサイトから無料でダウンロードできますので、併せてお読みいただければ幸いです。

 
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