アウトレイジな世界に抗して
――ひとりの人の死を悼み、ひとつの生命を大切にする第一歩を踏み出す――
21さて、ヘロデが自分の誕生日に、自分の高官たち、千人隊長たち、およびガリラヤの指導者たちのために宴を催したときに、絶好の機会が訪れた。22すなわち、彼の娘であるヘロディアが入って来て、踊りを披露したときに、彼女はヘロデと〔宴席に〕一緒に横たわっている者たちとを喜ばせたのだった。そこで、王は少女に「欲しいものがあれば、余に願ってみよ。さすれば余がそなたに与えよう」と言った。23さらに、彼は彼女に「そなたが余に願うものであれば何でも、たとえそれが余の王国の半分であったとしても、余はそなたに与えよう」と[過剰なことを]誓った。24すると、彼女は出て行って、自分の母に「何をお願いしましょうか」と言った。すると、彼女〔=母〕は「洗礼者ヨハネの首を」と言った。25そこで、彼女〔=娘〕はすぐに入って来て、王のもとに急ぎ、「わたしが欲しいのは、洗礼者ヨハネの首をお盆の上に乗せて、直ちにわたしにお与えくださることです」と願って言った。26すると、王は深い悲しみを覚えたが、先の誓いと〔宴席に〕一緒に横たわっている者たちの手前、彼女〔の願い〕を拒絶したくなかった。27そこで、すぐに王は衛兵を遣わし、彼〔=ヨハネ〕の首を持って来るよう命じた。すると、彼〔=衛兵〕は立ち去り、獄中で彼〔=ヨハネ〕の首を斬り落とし、28彼の首を盆の上に載せて持って来て、それを少女に与えた。そして、少女はそれを自分の母に与えた。29さて、彼〔=ヨハネ〕の弟子たちは〔このことを〕聞き、行って、彼の斃体を受け取り、それを墓に横たえた。
(マルコによる福音書6章21−29節[私訳])
マルコ福音書6章21−29節は洗礼者ヨハネの斬首を伝える物語です。洗礼者ヨハネの死の物語の全体は6章14−29節が記していますので、上に引用したのはヨハネの斬首を伝える残忍な後半部分の物語に相当します。このテクストを翻訳しながら感じたのは、マルコがヨハネの斬首という残忍な行為を実に淡々とした筆致で描いているということです。しかし、このような淡々とした物語の叙述が却ってヨハネの斬首の残忍さを浮き彫りにしています。なぜなら、これほどの残忍な事件を淡々と伝えることができたのは、マルコが生きていた古代世界では権力者の非道な振る舞いがあまりに日常茶飯事であり、驚くようなことではなかったことの証左でもあるからです。
その意味では、マルコ――およびマルコに基づくマタイ――のテクストから創作されたオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』(1891年、1893年)の方が、預言者ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)をめぐる愛憎劇やヨカナーンの斬首を回避しようとするヘロデ王(領主ヘロデ・アンティパス)の逡巡する様子が繰り返し描かれており、これらの権力者たちもひとりの弱い人間にすぎないことが感じられ、まだ救いがあるように思えます。
確かに、マルコが伝える本来の洗礼者ヨハネの斬首の物語にも、ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)の戸惑いが僅かながら描かれてはいますが、王(領主)としての威厳と体面のゆえに、その戸惑いもすぐに霧のように消えてしまいます。ヨハネというひとりの人間の生命は、ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)、ヘロディア(サロメ?)、そしてその母(ヘロディア)という領主たちによって、弄ばれるようにして簡単に奪われてしまうのです。そして、このような権力者たちの非道さがマルコの淡々とした筆致からひしひしと伝わってきます。
担当者が今月の聖書の言葉としてマルコ福音書6章21−29節を選んだのは、トランプ大統領銃撃未遂事件およびこの事件めぐる高市首相の発言を背景としています。すなわち、アメリカ大統領という最高権力者であるトランプが戦争を引き起こし、多くの生命を奪っていることを等閑に付したまま、そのトランプの生命を脅かす行為のみがテロや暴力として断罪される現実を批判しているということです。そして、担当者の批判は、トランプ銃撃未遂事件を受け、高市首相が「トランプ大統領が、恐ろしい銃撃の後、ご無事だとの報に接し、安心しました。暴力は、世界のいかなる場所でも、決して容認できません」と逸早くX(旧ツイッター)で反応したことにも向けられています。もっとも、高市首相の発言に対しては、ネットでもトランプ大統領が命じた米軍のイラン侵略、ハメネイ師暗殺、イランの小学校爆撃といった殺戮と破壊という戦争行為はテロや暴力ではないのかという批判として、そのダブスタ(ダブルスタンダード)が批判に曝されています。
このような現代世界の状況下で洗礼者ヨハネの斬首の物語を再読するとき、わたしたちの視座がどこに置かれているのか、そしてわたしたちがどのように生きるのかが問われているように思えます。ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)、ヘロディア(サロメ?)、そしてその母(ヘロディア)がヨハネを斬首し、その首を盆に載せて運ぶという残忍な行為をすることができたのは、これらの権力者にとっては市民の生命など取るに足らないものでしかないからです。それは現代世界でも同様であり、為政者・権力者にとっては、市民の生(生命・人生・生活)などどうでもいいのです。
その意味では、マルコが伝える洗礼者ヨハネの斬首という残忍な物語は、北野武監督の三部作の映画『アウトレイジ』(2010年、2012年、2017年)に通じるものがあるように思えます。「アウトレイジ(outrage)とは「非道、蹂躙、暴虐」などを意味しますが、この一連の映画のキャッチコピーは「全員悪人」です。ヨハネの斬首に登場するヘロデ(ヘロデ・アンティパス)、ヘロディア(サロメ?)、その母(ヘロディア)の三人も「全員悪人」であり、その振る舞いはまさに「アウトレイジ」だからです。そして、それは現代世界の為政者・権力者の多くにも当てはまると言えるのです。
もっとも、現代の民主主義社会において、多くの場合は為政者・権力者を選んだのはわたしたちであり、しかも戦争の多くがキリスト教の国々によって引き起こされてきた事実も忘れることはできません。したがって、わたしたちは自らを為政者・権力者の対極にいる「善人・聖人・義人」だなどと思い上がることはできないのです。自らの胸に手を当ててみれば、わたしたちもまた本当にひとりの死を悼み、ひとつの生命を大切にできているなどとは軽々しく言えないからです。わたしたちもまた「全員悪人」――キリスト教的に言えば「わたしたちはみな罪人」――であり、わたしたちの振る舞いも常に「アウトレイジ」とは無縁ではないからです。しかし、それゆえにこそ、わたしたちは誰かに犠牲を強いる為政者・権力者に否を突きつけ、もがきながらアウトレイジな世界に抗して、ひとりの人の死を悼み、ひとつの生命を大切する第一歩を踏み出したいのです。
(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)
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