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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

キリスト教の小部屋

無関心から共感へ
――「笛吹けど踊らず」の諺に寄せて――


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では、わたしはこの時代を何に似ていると言おうか。それは広場に座ってほかの者たちに呼びかけている子どもたちに似ている。17彼ら〔=子どもたち〕は言う、
君たちのために笛を吹いたのに、
君たちは踊ってくれなかったね。
弔いの歌を歌ったのに、
君たちは胸を叩いてくれなかったね。
マタイによる福音書11章16−17節[私訳])

 冒頭に引用したのは「笛吹けど踊らず」と呼ばれる諺として知られるイエスの言葉です。この諺はマタイ福音書11章16−17節とその並行記事であるルカ福音書7章31−32節に由来するのですが、聖書の言葉とは知らずに使っている人も多いのではないでしょうか。もっとも、厳密に言えば、この諺の初出は福音書のイエスの言葉ではありません。新約聖書より古い時代のギリシャ・ローマの古典文献が伝える「笛を吹く漁師」の寓話に「笛吹けど踊らず」の原型となる言葉が現れますので(ヘロドトス『歴史』1:141、アイソーポス[=イソップ]『イソップ寓話集(ペリー版)』11)、世上に知られていた諺を用いてイエスがこの言葉を語ったということになります。

 「笛を吹く漁師」の寓話は以下のような内容です。笛の名手であるひとりの漁師が笛と網を携えて漁をするために海に行き、海中の魚を見て唐突に笛を吹き始めます。というのは、その笛の音に導かれるようにして魚が海中から踊り出るように勝手に釣り上がってくると思っていたからです。ところが、一匹も獲れなかったので、漁師は笛を吹くのを止めて投網をしたところ、大量の魚を浜辺に曳き揚げることができたのです。そこで、その漁師は浜辺で跳ね回っている魚たちに向かって「俺様が笛を吹いたときには踊らなかったくせに、笛を吹いていないときには踊りやがる」と言い、この寓話が状況に適した振る舞いをしない者たちに当てはまる教訓であるとの言葉で物語は締め括られます。

 「笛を吹く漁師」の寓話の文献上の初出は前430年頃の著作であるヘロドトス『歴史』であり、現在わたしたちに伝えられている『イソップ寓話集』の原型は前4〜3世紀に――アテナイ南西の港町――パレロンのデメトリオスが編纂した寓話集だと考えられますので、この諺の原型が「笛を吹く漁師」であることは確かです。とはいえ、「笛吹けど踊らず」の諺が世界中に知られるようになったのは、内容の面から考えても、やはりマタイとルカの両福音書を通してであることも間違いないと言えます(中務哲郎)。

 この諺はマタイの文脈では洗礼者ヨハネとイエス自身を受け入れなかった時代に対する批判として語られていますが(マタイ福音書11章18−19節)、元来は独立したロギオン(イエスの言葉伝承)としてQ資料(イエスの語録資料)を通して伝承されてきたと考えられます。ここではマタイの文脈を離れて、独立した伝承としての「笛吹けど踊らず」の諺について考えてみます。

 この諺はおそらく子どもたちの間で流行っていた「ごっこ遊び」を背景にして語り直されています。17節の前半の「君たちのために笛を吹いたのに、君たちは踊ってくれなかったね」は「婚礼ごっこ」の場面として理解され、後半の「弔いの歌を歌ったのに、君たちは胸を叩いてくれなかったね」は「葬式ごっこ」の描写だと言われています。「弔いの歌を歌った」や「胸を叩いて」(悲嘆に暮れる仕草)という表現から、後半が「葬式ごっこ」であることを疑う余地はありません。しかし、前半が「婚礼ごっこ」だというのは異性愛規範に囚われすぎかもしれませんので、前半は婚礼に限らず、祭りや祝いごとにまつわる「ごっこ遊び」かもしれません。

 ここでマタイが伝える「広場に座って・・・いる子どもたち」はたまたま「ごっこ遊び」をしているときに、その場にいた「ほかの者たち=ほかの子どもたち」にも一緒に「ごっこ遊び」をして欲しかったという願望を述べているようです。ですから、「広場に座って・・・いる子どもたち」は何らかのグループを形成してわけでもなく、「ほかの者たち=ほかの子どもたち」もまた何らかのグループに属しているのではなく、不特定多数の子どもたちだと考えられます。

 もっとも、ルカの場合には状況は異なります。というのは、マタイが「ほかの者たち」としている部分がルカ福音書7章32節では「互いに」になっているからです。したがって、ルカの場合には「広場に座って・・・いる子どもたち」と「ほかの者たち=ほかの子どもたち」は相反するふたつグループを形成しており、「互いに」批判し合っている状況になっているのです。

 このようなマタイとルカの違いをも念頭に置いて考えると、マタイ版の「笛吹けど踊らず」がこの諺の意味として現代に至るまで受け継がれてきたことが再確認できます。つまり、ルカのように互いが互いを批判し合うというグループや派閥の対立関係の意味としてではなく、目の前で起きている出来事や他者に対する無関心さに悲嘆し、目の前で嬉しいことがあったら一緒に喜び、目の前で悲しいことがあったら一緒に泣くという他者に対する共感がいかに大切であるのかを率直に伝えているのがわたしたちの受け取ってきた「笛吹けど踊らず」の諺だからです。

 そもそも「笛を吹く漁師」の寓話の段階では、「笛吹けど踊らず」の諺は利己的な要求でしかありませんでした。それに対してイエスの言葉伝承の段階では、「笛吹けど踊らず」の諺は利他的な要求に変えられているのです。すなわち、他者の不在や他者に対する無関心な振る舞いとしてではなく、嬉しいことがあったら一緒に喜び、悲しいことがあったら一緒に泣くという他者に共感する振る舞いの大切さとして語られているということです。しかも、それを子どもたちの「ごっこ遊び」の場面を通して語っているところが、いかにもイエスらしくて痛快です。

 翻って自らを省みるとき、自分の意見や主張を通すために、都合良く「笛吹けど踊らず」と言ってしまっていることに気づかされます。しかし、それは「笛を吹く漁師」の利己的な振る舞いに舞い戻ってしまうことを意味します。今わたしたちに必要なのは、「広場に座って・・・いる子どもたち」の「ごっこ遊び」に促され、現実の出来事や他者に対する無関心な振る舞いに別れを告げ、嬉しいことがあったら一緒に喜び、悲しいことがあったら一緒に泣き、理不尽なことがあったら一緒に怒るという現実の出来事や他者に対する共感を振る舞いとして示し続けていくことではないでしょうか。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)


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