インスタグラムアイコンツイッターアイコンyoutubeアイコンメールアイコン
日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

キリスト教の小部屋

混沌(カオス)の世界に生きる一年を
――光と闇/善と悪/秩序と混沌の二元論を超えて――

 

 1初めに神は天と地を創造した。2地は荒れ果てて何もなく、闇が地下の海の表面を覆い、神の霊風が水の表面に吹き荒れていた。3神は言った、「光あれ」。すると、光があった。4神は光を見て満足した。神は光と闇の間を分けた。5神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけた。夕になり、朝になった。第一の日である。(創世記1章1−5節[私訳])

 

 聖書(ヘブライ語聖書)の冒頭に置かれた天地創造の物語には古代世界の人たちが想像(創造)した世界観(宇宙観)が表されています。創世記の天地創造は古代西アジアの諸文明、とりわけメソポタミアやエジプトといった文明が生み出した天地創造の物語の影響を受けています。しかし、それは創世記の天地創造が単なる借り物や焼き直しであることを意味するわけではなく、そこには古代イスラエルの唯一神ヤハウェに対する信仰と生活に基づく独自の天地創造の壮大なパノラマが描き出されています(月本昭男)。

 冒頭に引用した創世記1章1−5節は天地創造の初めを描いています。1節は神による天地開闢(かいびゃく)が語られており、2節は天地創造時には地上は荒野のように荒れ果てて何もなく、地下は暴風が吹き荒れ、地上と地下の双方の世界が混沌(カオス)であった様が描かれています。そして、3−5節は創造の実際の第一日目に当たり、神が光を創造し、混沌とした闇の世界に光が挿し込み、光と闇の間に仕切りが設けられたことで、混沌(chaos)から秩序(ordo)へと地上の世界が一新したこと伝えています。

 2026年の新年を飾る聖書として、創世記1章1−5節が選ばれたのは、畏友でもある担当者がもうひとりの担当者に新年の聖書テクストを尋ねて決まったとのことですが、そこでは特に新共同訳聖書に基づいて、「混沌」に焦点を当てて欲しいとの要望が添えられていました。このように依頼されて困ったのが2節aの翻訳です。確かに、新共同訳では2節aは「地は混沌であって」と翻訳されています(協会共同訳も同様に「地は混沌として」と訳出)。しかし、聖書学では良く知られているのですが、2節aで「混沌」と訳されているのはתֹּהוּ וָבֹהוּ(トーフー・ワー・ボーフー)という表現であり、トーフーとボーフーというふたつの語から成っています(間のワーは「と/そして(英語のand)」を表す接続詞)。トーフーは荒野のように荒涼とした状態を、ボーフーは空虚や虚無の状態を表し、これら両語を重ね合わせることで、荒涼とした空虚な状態が強調されています(エレミヤ書4章23節、およびイザヤ書34章11節参照)。ですから、正確には口語訳の「地は形なく、むなしく」や新改訳2017の「地は茫漠として、何もなく」、あるいは私訳の「地は荒れ果てて何もなく」のように二語に分けて翻訳する必要があるのです。

 というわけで、新共同訳で慣れ親しんできた「混沌」の語は私訳では採用しなかったのですが、しかし実際には2節aだけでなく、続く2節bcを含めた2節の全体が天地創造の初めの――あるいは天地創造の前の――混沌の状態を表していることは確かです。さて、その2節bcですが、これは地上ではなく、地下の世界の描写です。まずは2節bの「闇が地下の海の表面を覆い」 についてですが、「闇」は二元論的世界観では「光」に対立する「悪」の表象です。そして、その闇に覆われているのが「地下の海」です。原語はヘブライ語のתְּהוֹם(テホーム)であり、古代西アジアにおいて太古から地下に存在したとされる神話的な海を表します。「原始の海」「深淵の海」「混沌の海」などと訳されますが、ここでは分かりやすいように「地下の海」という訳語にしました。もっとも、テホームは地下の海という表象を超えて、バビロニアの創造神話では悪魔的な「混沌の怪物」ないし「混沌の龍」としても現れます。

 次に2節cの「神の霊風が水の表面に吹き荒れていた」ですが、これは「闇」に覆われた「地下の海」の混沌とした様態を描いています。「神の霊風」の原語はרוּחַ אֱלֹהִים(ルーアハ・エローヒーム)であり、「神の霊」や「神の風」と直訳するか、あるいは「神」を強調の形容に解して「激しい風」(暴風)と訳すかに意見が分かれます。もっとも、エローヒームは直前の1節と直後の3節にも登場し、唯一神(エローヒームは複数形ではありますが)を表すとしか考えられませんので、2節も同じ唯一神と理解するのが素直です。そして、ルーアハですが、この語は「息」「風」「霊」などの目には見えない動きを表しますので、間を取って「霊風」と訳しました(関根正雄)。おそらく、嵐で荒れた海のイメージから創作された恐ろしい地下の海に吹き荒れている「暴風」が思い描かれているのでしょう。あるいは、地下の世界に堕とされたテホーム(混沌の怪物/混沌の龍)が神の霊によって封印されているというイメージが残されているのかもしれません。

 そして、上述したように3−5節は実際上の創造の第一日目に当たります。神の言葉による最初の被造物は「光」です。光が創造され、地上に光が挿し込み、この世界は光(昼)が支配する世界と闇(夜)が支配する世界に二分されます。「荒れ果てて何もな」い闇に覆われた「混沌」(chaos)の世界から光(昼)と闇(夜)が「順序」(ordo)良く訪れる「秩序」(ordo)の世界へと地上の世界が一新したのです。

 このように創世記1章1−5節には「光と闇/善と悪/秩序と混沌」といった二元論的な世界観や価値観が明瞭に表されています。一見すると、光の創造によって、地上から混沌の世界が消え、光(昼)と闇(夜)が織り成す秩序の世界が新たに現れたかのようにも思えます。しかし、創造された光が挿し込むのはあくまでも地上の世界であり、地下の世界には依然として光はなく、したがって闇に覆われた地下の混沌の世界は以前と変わらずに存在し続けているのです。そして、ある種それと似たような意味で、地上では光(昼)と闇(夜)が分かれはしましたが、光の創造によって闇が消滅したわけではないのです。

 とかく、キリスト教は「光と闇/善と悪/秩序と混沌」を二元論的に捉え、自らを「光/善/秩序」だと信じて疑わず、ためらうことなく「闇/悪/混沌」に裁きを下し、殲滅しようとさえします。キリスト教が最も多くの戦争をし続けてきた所以です。しかし、創世記の天地創造神話では「光/善/秩序」と「闇/悪/混沌」は対立しつつも共在しているのです。それと同様に、わたしたちが生きる現実世界でも昼と夜は二元論的に綺麗に分かれてなどいませんし、夕から夜に移り変わる「夕闇」(黄昏)や夜から朝に移り変わる「曙闇」(東雲)などは、光(昼)と闇(夜)が「混沌」(カオス)の状態でこの地上の世界に今も存在し続けていることを教えてくれているようにすら感じるのです。わたしたちは「混沌」(カオス)の世界に生きているのです。2026年は「光と闇/善と悪/秩序と混沌」の二元論を超えて、「光/善/秩序」といった正義を振りかざして「闇/悪/混沌」を根絶やしにしようとする「秩序」の世界に背を向け、「混沌」(カオス)の世界に生きてみるのもありではないでしょうか。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)


キリスト教の小部屋アーカイブはこちらから


もどる
PageTOP
日本基督教団 
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2026
The United Church of Christ in Japan