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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4948・49号】社会委員会 28団体に一件につき10万円を支援

2021年4月24日

第8回社会委員会は、3月18日にオンライン会議として開催した。前回(1月26日開催)において、コロナ禍で行政支援の行き届かない困難のある方々に対する支援活動をしている団体を教団として支援することを可決し、各教区に紹介してもらう期限を3月15日に定めたことにより、実務を進めるために短期間での委員会開催となった。

金子直子委員による開会礼拝の後、前回議事録を承認して協議に入った。まず、今般の支援に関して中部教区社会部より意見書が届いていることについて、これに対して社会委員会として返答するために秋山徹総幹事を交えて協議した。コロナ禍をひとつの災害として捉え支援を行う、というこれまでにない形を提示したことで充分に意図や枠組みが伝わっておらず、受けとめかたに相違があることから、その点の説明を含む文書を整え、返答することとした。

次に、10教区から紹介された支援活動団体28件について、その働きを確認・共有し、1件につき10万円の支援を決定し、各教区を通して届けることとした。

今期中にまだ開催していない社会委員長会議については次回委員会で検討することとし、5月10日に第9回委員会をオンライン会議で行う。また最後に、日本キリスト教社会事業同盟推薦委員が4月から交代するため、退任する伊藤信彦委員からのあいさつを受けた。(高橋真人報)

復活の証言を通して

この聖書箇所の最後の言葉「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」は、せっかくトマスが「わたしの主、わたしの神よ」と告白したことに対してあまりにも厳しすぎる言葉のように思います。そこまで高いレベルの信仰を求められるのかと尻込みしたくなります。

しかしながら、初期キリスト教会の宣教、さらに現代のわたしたちを考えるならば、むしろこの言葉はわたしたちを宣教へと誘う約束と励ましの言葉として聞くことができるのではないでしょうか。

この言葉を少し訳し変えるならば、「あなたは今わたしを見たので信じましたね。しかし、これからあなたたちはわたしを見せることなく復活を証言する宣教に赴かなければなりません。そのあなたがたの証言をもとにわたしを信じる人たちは幸いです」と言えるのではないでしょうか。

わたしたちもイエスを目の前に示して人々を信仰に導ければどれほどいいだろうかと考えます。しかし、わたしたちの証言を通してしか人々を信仰へと導くことができないわけです。それがまさに幸いなことであると語り、わたしたちの証言を、そしてその証言を通して得る信仰を祝福してくださっています。

わたしたちの説得力が幸いなのではなく、そこでわたしたちは聖霊の働きを経験するからです。この箇所の少し前に、弟子たちに「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われています。読み替えるならば、「証言しなさい。そうすれば信じる。証言しなければ、誰も信じない」という言葉になるのではないでしょうか。そして、この復活の証言こそ、単なる奇跡的出来事の証言ではなく、罪からの解放の福音の告知です。そして、わたしたちの拙い証言を通して人が信仰へと導かれるというところに、わたしたちは聖霊の働きを感じざるを得ません。

イエスの復活がわたしの物語に

トマスの物語は、世にも奇妙な奇跡的な出来事の証言ではなく、それが「わたしの主、わたしの神よ」という言葉に示されているようにイエスの復活が「わたしの物語」となったことを示しています。

トマスはいったいここでなにを経験したのでしょうか。トマスが特別に疑り深い人物であったというわけではありません。むしろ、「わたしたちも行って、(イエスと)一緒に死のうではないか」(ヨハネ11・16)とイエスと運命を共にすることを呼びかけるほどイエスに心酔していました。しかし、イエスの十字架の経験は、イエスへの信頼を揺るがせるものだったのでしょう。自分の熱情を傾ける対象を失ったトマスは、イエスに失望したのかも知れません。

そんなトマスを救ったのが、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」というイエスの言葉でした。実際にトマスが科学的に復活を確認し、「まさにイエスは復活しました」と証言したわけではありません。「信じる者になりなさい」は、トマスにだけ向けられた言葉ではなく、わたしたち自身に語られた言葉であると言えます。そして、トマスがそうしなかったように、わたしたちも科学的分析と証拠に基づいてイエスを信じるわけでもなければ、証するわけでもありません。

傷ついたイエスの手を見て、疑いと不安、失望に閉ざされていたトマスの心に復活のイエスがストンと腑に落ちた、自分の中にイエスが入ってこられたのではないでしょうか。それゆえに、トマスはイエスに向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができました。

トマスが出会ったのは、傷だらけのイエスでした。ここに復活の神秘があります。復活したからといって、イエスの体はきれいになり、傷跡もなくなった、すべての問題が解決したというわけではありません。トマスはその傷が残ったままのイエスに出会った。イエスの傷とトマスの傷、わたしたちの傷、復活の物語とわたしの物語が繋がるときに、「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができるのです。わたしたちも信仰を得て、完全なものになるわけではありません。わたしたちの傷、痛みも、人生の問題も罪も消えないものとして残っています。しかし、イエスの十字架と復活によって、それはわたしたちを死に至らしめるものではなくなり、癒され、神様に差し出し、人々に示すことができるものになりました。

福音の神秘を経験する幸い

過ぐる1年、わたしたちはこれまで経験したことのない無力感を感じたのではないでしょうか。コロナ禍の中で、「信仰を持てば大丈夫」、「礼拝では感染しません」、「聖餐式は感染から守られています」なんてことは言えなかったわけです。礼拝をやめたり、礼拝出席を自粛したり、讃美歌を歌わないことしかできませんでした。しかし、この中でわたしたちはイエスの復活の証人であろうとしました。多くの教会が、なんとかその証言の言葉を伝えよう、宣教の火を消してはならないと知恵を絞り、力を注いでがんばってきました。そして、今もがんばっています。

わたしたちの証言を通して復活のイエスを信じる人が生まれてくる。この福音の神秘を経験する人はいかに幸いなことでしょう。それは福音を伝えるわたしたちにとっても幸いなことです。そして、イエスはその幸いをわたしたちに約束し、その祝福へとわたしたちを送り出してくれています。

わたしたちは現在、予測しなかった事態に遭遇し、社会が大きく変わろうとしています。この不確実な時代の中で、変わることのない復活の物語をわたしたちの物語として持っていることはなんと幸いなことでしょうか。

(関西学院大学神学部長)

新年度が始まりました。新型コロナウイルスの世界的な感染の広がりは一向に終わる見込みはなく、勢いを強めさえしています。教団事務局の働きもこれによって大きく変わり、各委員会参加者の日程や宿泊、旅費などの調整や手配の仕事は、オンライン会議のための準備や日当の算定や書類の送付といった業務になっています。各教会の日常の働きも、事態の対応に即して懸命の工夫を重ねていることと思います。

このようなときに、思いがけない献金が教団に献げられました。東京の新生教会の会員であられた石井和子さんという方の遺産5千万円が教団の「将来のために」との志をもって献げられたのです。石井さんは昨年9月21日に90歳の生涯を終えて召されましたが、生前よりその意思を公正証書によって公にし、牧師に託しておられましたので、遺言を執行すべく牧師と親しかった遺された友人とが共に教団を訪れてくださいました。石井さんは生前TBS放送の第1期のアナウンサーとして、テレビ放送開始初期の時代に活躍された方とのことで、社会的な問題への関心も強く、不遇な状況におかれた人々や状況に対して社会の目を向ける働きをされたとのこと、その志を教団の将来に託されたということでしょう。この託されたタラントンを、どのように有効に用いるか、この課題が与えられています。

(教団総幹事 秋山 徹)

神を賛美する民の一員として

相原 孝至さん

小学校高学年の頃、満州から日本に引き揚げる際に多くの乳呑児が死んでいった厳しい状況を両親から知らされ、子どもながらに、当事者であった自分自身がその一人であったかもしれないと思い、初めて自らの死を自覚した。

両親は文房具店を営んでいた。それは偶然にも深町正勝牧師(当時)が牧する静岡教会の目の前であった。信仰への道は不思議な仕方で確かに備えられていた。

高校生になると自我に目覚め、人間とは何かと繰り返し問う日々となった。そこで静岡教会に飛び込んでみた。高校生会が盛んだったこともあり、すぐに教会に馴染んだ。大学進学で上京する前に、主イエスを救い主と信じ、洗礼を受けた。

大学卒業後、宇都宮市にある会社に就職。宇都宮教会に通い始めて、そこで青年会を通して出会った道子さんと結婚。二男一女に恵まれた。

航空機製造の品質管理や生産技術部門での勤務は激務であったが、教会から離れることはなく、約30年以上、会計役員としても奉仕して来た。

10年前の東日本大震災によって、教会は会堂建築を強いられる事態となった。そのことは、教会について、また礼拝について改めて考えさせられ、学びを深める機会となった。

愛唱聖句は詩編102編19節。「後の世代のために、このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」。

思春期を迎える時、自らの死を自覚し、その後、人間とは何かと自問する中で、信仰の道へと導かれた。礼拝における御言葉を通して、自らが主なる神を賛美するために創造された民の一員である喜びを噛み締めつつ、聖書を毎日愛読することを楽しみとし日々を歩んでいる。

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