宣教師への医療費などの支援を検討
2月10日、第3回世界宣教委員会並びに国際関係委員会を教団事務局で開いた。
アジア、北米、南米、ヨーロッパへ派遣されている宣教師報告をもとに、それぞれの活動状況を確認した。宣教師たちは、異なった文化や言語、地域性、そして政治状況の中で奮闘しているため、当委員会としても出来る限り柔軟に対応できるように支援したい。
今委員会では特に、ピラポ自由メソジスト酒井兄姉記念教会パラグアイの江原有輝子宣教師を迎え、詳細な報告を受けた。1960年代の日本人入植から現在に至るまでの歴史、現状、宣教活動は、私たちの教団が海外に宣教師を派遣する意義を再認識させるものであった。ピラポ教会会員手作りの手鞠をお土産としていただき、当委員会からはヒムプレーヤーを贈呈した。
また、各宣教師への医療、緊急、語学研修費について検討し、新たに派遣される宣教師については人間ドックの費用を補助することとなった。限られた予算の範囲内ではあるが、少しでも具体的な支援となり、宣教の活力となるものと期待している。
総務部への人事異動のため、当委員会担当職員が1名減となった。これからの委員会運営に支障が生じたり、各宣教師への必要な支援や、各国のキリスト教関係諸団体との交流が滞ったりすることが決して無いように知恵を絞りたい。教団全体の経済的な厳しい現実はあるにしても、世界へ開かれた教団であり続けることの重要性について、少しでも多くの方々に理解してもらいたいと願っている。(近藤 誠報)
特殊な歴史的事情、再按手はさけるべき
第4回信仰職制委員会が、2月18・19日に全委員と秋山徹総幹事、道家紀一担当幹事、担当職員の出席のもと教団会議室にて開催された。
当委員会が常議員会に求めていた阿部洋治教師の按手について、第6回常議員会にて「常議員会として何らかの判断をすること」が適当でないという結論が出された。それを受け、協議の結果、次の通り答申することを承認した。
《諮問》
関東教区常置委員会、および関東教区総会議長東野尚志より
1.教規124条①に「正教師とは、正教師検定試験に合格し、教区総会の議決を経て、按手礼を領したものとする」と規定されています。そこで改めて確認したいのは、このたびの阿部教師の正教師検定試験合格とは、上記教規124条①に言う「正教師とは、正教師検定試験に合格し」までの状態を満たしたものとして解してよろしいでしょうか。
2.上記の理解が正しいとすると、阿部教師を正教師として登録するためには、教規124条の「教区総会の議決を経て按手礼を領する」ことが必要となりますが、その場合の「教区総会の議決」とは、同教師が1979年5月29日に福音主義教会連合で受けた「按手」を関東教区総会が正式な按手として認めるという議決でも可能なのでしょうか。
それとも、教団信仰職制委員会「教憲教規の解釈に関する答申集」76(1983年9月1日12日付けの答申「『福音主義教会連合』の按手礼は、教憲教規による正規の手続を経てなされたものではない」)に従い、たとえ関東教区総会が当該「按手」を認めたとしてもそれは上記答申76の答申に反したものとして無効でしょうか。
《答申》
1.について
満たしています。
2.について
可能です。
ただし「教憲教規の解釈に関する答申集」76で指摘されている通り、福音主義教会連合の教師検定試験は教規による正規の手続きを経たものではなく、福音主義教会連合が按手礼を執行したことは教規違反にあたります。しかし、当時の教団の教師検定試験は、「さまざまな立場の切り捨てがおこらないような方法で」という基準を含むいわゆる二重基準によって行われており、「教団信仰告白」が基準であることが明確にされておらず、このことは教憲違反に問われる可能性があります。なお、2002年に「信仰告白を基準として教師検定試験を行う」との常議員会決議がなされたことに伴い、この状態は解消されていますが、この間に福音主義教会連合によって行われた教師検定試験、按手礼は、このような教規違反、教憲違反が混在する特殊な歴史的事情のもとでなされたものであることを認識すべきです。
阿部教師は、2018年秋季正教師検定試験を受験し合格して、教団の正教師検定合格者として第41回教団総会においてすでに承認されているので、正規の手続きを経ていると認められます。ゆえに、当該教区で教区総会の議決を経て按手礼を領することができます。しかし、按手は聖礼典ではありませんが、聖霊のご支配による聖なる出来事として重んじられるべきであり、再按手はさけるべきと理解します。
当該教師は1979年に福音主義教会連合で按手を受けており、その按手礼は教団信仰告白のもとで行われたこと、教団教憲教規に従う誓約がなされたことについては、当委員会でも確認しました。ただし、これをもって教団の正式な按手とするには、「教規違反、教憲違反が混在する特殊な歴史的事情」を直視し、悔い改め、二度とそのような混乱状態を生じさせないという強い決意が必要です。(田村 博報)
落ち穂拾い
関東教区議長 福島 純雄
教区活動とは直接関係のない話になるが、今私はルツ記の説教をしている。飢饉を避けてモアブへと避難したナオミではあるが、そこで夫も亡くし二人の息子にも先立たれて、「自分は神様によってうつろにされた」と嘆く。そんなナオミが、全く血のつながりなどない息子の妻ルツとの絆を起点として、空っぽではなくなっていくというのがこの物語であるが、その大切な契機になっているのはルツが落ち穂拾いをすることである。人様がもはや拾いもしない落ち穂を集めて生きていこうとする。それがすべてのスタートなのだ。
私はこの物語を通して、私たちにも落ち穂拾いをするフィールドはどこにでもあるのだと教えられた。それは世の人々が見向きもしない何かを拾う畑である。十字架につけられたイエス・キリストは、家作りが捨ててしまった不要な石であるが、私たちはこの方を要石として拾う者である。イエス様こそ私たちにとっての落ち穂かもしれない。
こうしてキリストという落ち穂を拾う者たちが集まった教会は、今度はまた誰かに落ち穂を拾わせることのできるフィールドになっていけるのではあるまいか。ひとりが落とす穂では余りにも小さいが、ある人数の者が集まる教会の落とす落ち穂は、誰かを助け得るものとなる。
レビ記19・9に「穀物を収穫するときには、畑の隅まで刈り尽くしてはならない」とあるが、教会も教区・教団も刈り尽くしてしまう「畑」になってしまってはいないだろうか。
過日の宣教方策会議において、教団がどういう教会になりたいのか、そのビジョンがほしいとの声が幾つもあがった。落ち穂を拾う者であるからこそ、また誰かにも落ち穂を拾わせてあげられるような、そんな教会でありたい。
逝去
森分直樹氏(隠退教師)
20年2月11日逝去、78歳。福岡県生まれ。71年関西学院大学大学院卒業。68年より関西学院、八幡浜、別府教会を牧会し、16年隠退。
遺族は妻・森分美和子さん。
原 忠和氏(隠退教師)
20年2月15日逝去、86歳。台湾・台北市生まれ。58年同志社大学大学院卒業。同年より浪花、今治、伊予小松、大津、京都、南大阪、大阪生野教会を牧会し、09年隠退。
遺族は妻・原善子さん。
伊藤盛一氏(隠退教師)
20年2月24日逝去、82歳。石川県生まれ。64年東京聖書学校卒業。同年より桜ヶ丘、如鷲、小松川、男鹿、恵泉教会を牧会し、02年隠退。
遺族は妻・伊藤ミサヲさん。
木原葉子氏(カナダ合同教会在外教師)
20年2月20日逝去、55歳。福岡県生まれ。96年日本聖書神学校卒業。97年より大泉、深川教会、カナダのフレーザーバレー日系人教会、カナダ合同教会ギルモアパーク合同教会を牧会。
遺族は夫・三田旅人さん。
髙橋 治氏(隠退教師)
20年3月4日逝去、89歳。関東州・旅順市生まれ。57年東京神学大学大学院卒業。同年より名古屋、新津、小石川明星、八王子めじろ台、米沢明星、飯坂教会を牧会し、03年隠退。
遺族は娘・村山めぐみさん。
自治独立の力で開かれた女子教育の新たな道
安田 行秀(梅花学園資料室)
梅花学園の歴史は、山口県から神戸に出てきた一人の青年が、アメリカンボードのD.C.グリーン宣教師と出会ったことから始まります。その青年の名は澤山馬之進といい、1852年(江戸時代)に長州(山口県)吉敷の下級武士の家に生まれ、郷校「憲章館」で中国の古典や武道を学びました。
1866年、澤山が14歳の時に、長州戦争があり澤山は吉敷隊の鼓手として出陣し、その時に近代的装備を持つ長州軍が圧倒的な勝利を収めるのを目の当たりにしました。その時に澤山は洋学を学ぼうと決意します。明治維新が起こった2年後の1870年に、澤山は洋学を学ぶために、兵庫県副知事の内海忠勝(元吉敷隊隊長)を頼って神戸に出てきました。欧米を視察していた内海忠勝は、洋学を修めるためには英語の習得が必要として、神戸で宣教活動をしていたグリーン宣教師を紹介します。澤山がグリーン宣教師の自宅兼教会に通ううちに、グリーン宣教師は彼の非凡な素質と恵まれた精神力を見出し、アメリカでさらに勉学を深めることができるように澤山を説得します。イリノイ州エバンストンに住むグリーン宣教師の兄サミュエル・グリーンに澤山を紹介し、兄の家からノースウエスタン工科大学予科で勉強できるように手配し、澤山は1872年に渡米します。
澤山はサミュエル・グリーンの家族と生活を共にして、教会に通ううちにキリスト教への信仰を深め、エバンストン第一教会でパッカード牧師により、受洗しています。
1875年に日本で宣教していたH.H.レビット宣教師が帰米して、澤山に出会い日本へのキリスト教布教を強く勧めます。澤山は日本伝道を決意し、残り1年の留学期間を聖書の学習にあて、名前を使徒パウロにちなんで「保羅」と改めました。1876年の夏に帰国し、大阪の松村診療所で通訳として働き始めます。
松村診療所は、梅本町教会の宣教医アダムズが、梅本町教会の信者の日本人医師や薬剤師と共に心斎橋筋高麗橋通り角に開き、医療と伝道の場としました。梅本町教会(現大阪教会)は、大阪で最初に創立された会衆派教会です。その1年後に松村診療所の日本人スタッフや信者が中心となり独立自給の浪花教会を設立し、この教会で澤山は新島襄から按手礼を受けて初代牧師となります。
1877年10月に梅本町教会と浪花教会の信者の間で女学校設立の話が持ち上がりました。1878年1月に梅花女学校(梅本町公会の梅と、浪花教会の花から名前をとった)が大阪府の許可を受け開校しました。特筆すべきは浪花教会と同じく日本人信者による自治独立の力で女学校が設立されたことです。成瀬仁蔵と小泉敦の2名の日本人教師、レビット宣教師とスティーブン女史の2名のアメリカ人教師、15名の生徒で発足しました。
澤山はキリスト教主義を建学の精神に掲げ、女学校の理事的立場でリーダーシップを発揮しました。発足の翌年(1879年)にコルビー宣教師を専任宣教師として迎えることにより、教育内容を飛躍的に向上することができました。コルビー宣教師はマウントホリヨークを卒業し教員生活を経て、アメリカンボードの宣教師募集に応募したのです。梅花女学校の学科課程はマウントホリヨークを範とし、リベラルアーツの全人教育を実践しました。コルビー宣教師の指導により、独立、倹約、忍耐、奉仕などマウントホリヨークの精神が女学校に生かされました。教師も生徒も一生懸命に勉強し、多くの人々の献身的な努力により梅花女学校は発展していくことができました。
梅花女学校創立に関わった成瀬仁蔵は、澤山保羅と同郷で、「憲章館」の6年年下の後輩でした。憲章館を卒業して山口県教員養成所へ進み、その後に小学校の教員をしていましたが、自己の信念に基づく新しい教育をしたいという夢を持っていました。1877年夏に郷里に戻っていた澤山と運命的な出会いをします。
成瀬は、澤山から大阪で女学校を作るという構想があるということや、アメリカに留学した話を聞き感動します。澤山を追いかけて大阪に出て、キリスト教にもすぐに共感して洗礼を受けています。梅花女学校の設立が決定すると、すぐに校舎に使用する借家を探し出し、開校に必要な校則、諸規則を作成しました。専任の教師としてだけではなく、教材の準備や学校のすべての事務を引き受け、校舎の管理まで一人で行っていました。このような成瀬の奮闘のおかげで、1年後には専用の校舎を取得することができ、生徒も順調に集まるようになりました。ただ校舎を取得しても、改修が必要であり、多額の負債が残りました。
その負債を解消するために、奈良の富豪から寄付を受けたのですが、自給自立精神を貫こうとしていた成瀬はそれを許すことができず女学校を辞職して、キリスト教の布教に専念することになります。新潟に布教に向かった時に、かの地で女学校の設立に関わることになるのですが、やはり大阪とは事情が違い大変な苦労をすることになります。
自分の力の限界を感じた成瀬は、1890年に新しい教育の姿を求めて渡米します。アメリカではアンドーヴァー神学校・クラーク大学で学び、各地の大学・カレッジ・師範学校を訪問し、同時に教会、社会施設、工場の女子労働などを視察して見聞を広めました。1894年に帰国し、その後すぐに梅花女学校で校長として復帰します。成瀬は留学で得たアメリカ流の教育を梅花女学校に取り入れ、さらに発展させることができました。
成瀬は女学校での成功をもとにさらなる高等教育機関である女子大学の設立をめざそうとしました。しかし創立以来20年を経た女学校の体質を変えることは容易なことではありません。梅花女学校での女子大学設立を諦めた成瀬は1896年に女学校を辞し大学設立に奔走します。1901年に成瀬は政財界の有力者や多くの人々の援助を得て、女子総合大学の先駆け「日本女子大学校(現日本女子大学)」を東京で開校します。澤山から成瀬に受け継がれた篤い思いが社会を動かし、女子教育の新たな道が開かれたのです。
(Kyodan Newsletterより)
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