昨年9月、台湾基督長老教会と教団の交流を通し、信徒伝道者として来日した。4年前に台湾ユースミッションに参加して、来日を考え始めた。日本アニメが大好き。アニメを通して日本語に親しみ、大学でも日本語を専攻した。卒業後に来日の道が開け、教団学生・青年センター「学生キリスト教友愛会(SCF)」のスタッフとなって半年が過ぎようとしている。
流暢な日本語には、ごく自然かつ頻繁に若者言葉が混じる。SCFスタッフとして担う務めを「私は、誰かがSCFに来た時、そこに必ずいる人」と明確に述べた。
SCFへの訪問者の半数は、未受洗者だという。人とのふれあいと、受け入れられる安心を求めて、青年たちが集う。ふらりと立ち寄った時に、必ず迎えてくれるのが胡さんの笑顔だ。訪れた青年を受け入れ、話に耳を傾け、共通の話題で一緒に盛り上がる −居場所を求める青年たちに寄り添って、胡さんは自らも楽しみつつ、気負いなく主に仕えている。
SCFではカフェタイムや聖書を読む会等の他に、胡さんが企画し、自身の愛称「草草(ソウソウ)」を冠した「草草食堂」を毎月開いている。得意の台湾料理を準備して、青年たちと食卓を囲む。食事をしながらの和やかな団欒が、お腹も心も暖かく満たしてくれる。
4代目のクリスチャン。19歳で信仰告白をした。当初は礼拝が堅苦しく思えて、教会よりも教会主催のキャンプに惹かれた。今は主の御前に静まる礼拝がしっくりするが、キャンプ好きは変わらない。それも、サポートに徹するのが好きと目を輝かせた。「裏で支えるのが、私。信徒伝道者が人や企画を支えて働くのも、宣教のひとつの形」と、日台の架け橋は、まだあどけなさの残る笑顔で語った。
台湾・台南市から来日、SCFスタッフ、東京台湾教会に礼拝出席
1月半ば、秋田楢山教会(村尾政治伝道師、村尾いづみ伝道師)の会員であった方の葬儀に参列した。その方は仙台の教会で洗礼を受け、戦後結婚のために秋田市に転居され、秋田楢山教会で奏楽奉仕をされた。また、ご自宅でピアノ教室をもたれ、多くの生徒を指導された。
ところが結婚して20年にもならない時、愛するご夫君が病気で亡くなられるという試練に遭ったのである。その時、その方の信仰は揺らぎ、教会に行くのをやめたいと故土合竹次郎牧師に話したところ、土合牧師は、「神様は貴方がこの苦しみに耐えられる人だと思って試練を与えて下さったのです。そうして奏楽奉仕という恵みを頂いているのですからそれを皆の役にたてるようになって頂けないでしょうか」と話されたとのことである(『広報ならやま』教会創立130周年記念誌より)。
この牧師の言葉に魂を揺さぶられ、これまでたくさん頂いた神の恵みと、多くの方々からのご恩にお返しをしなければと気がつき、彼女は信仰の歩みを続け、以後96歳で召されるまで、オルガンでの奏楽奉仕をされたとのことである。
全国各地でこのような忠実な主の僕が教会を支えていること、そして、そのようにして教会の明かりが消えることなく灯され続けていることを、あらためて深く心に刻んだことであった。
(教団総会書記 雲然俊美)
On Sunday, Nov. 24, Pope Francis of the Roman Catholic Church held a “Gathering for Peace” at Hiroshima Peace Memorial Park, and on Monday, Nov. 25, officiated at the “Papal Mass” at Tokyo Dome. Those of us from Protestant churches and representatives from other Japanese religions were invited to these gatherings and given the opportunity to hear the Pope’s message and to participate in the corporate prayer. At the meeting in Hiroshima, Kyodan Moderator Ishibashi Hideo also sat on the platform and received greetings from Pope Francis and shook hands with him. In Tokyo, in the mass that included the corporate prayers of believers from various Asian countries, liturgical scripture readings, and ceremonial greetings, there were many Kyodan-related persons who were invited and attended.
The message of Pope Francis at Hiroshima, on the one hand, was that “the victims who experienced the atomic bomb can appeal to all the world together against the threat and inhumanity of atomic weapons beyond all human difference and religion.” I heard that he also pointed out the irrationality and criminal nature of those who acquiesce in the preparation for the use of atomic weapons while mouthing peace, urging Japan to awaken from seeking a peaceful life under the nuclear umbrella of the United States. I was impressed by the stance of Pope Francis, who greeted the A-bomb victims at the beginning of the meeting, taking their hands while listening to the each one’s remarks.
The field and stands at Tokyo Dome were filled to capacity as Pope Francis appeared, riding in a car and circling the hall amidst the ovation of a crowd of 50,000 people. He had the car stop along the way when he saw children, took them up in his arms, and blessed them. Then he went up to the platform, where he presided over the worship service. In his sermon, he took scripture from the beginning of Genesis and the Lord Jesus’ Sermon on the Mount, first of all pointing out the importance of climbing the mountain with the Lord Jesus and from there looking back upon oneself and the world; then with thankfulness and joy accepting the world and the life that God has made, as it is, and accepting not only one’s own life but also accepting all the life that fills others and the world; then realizing that we are called to live together, being led by the prayer: “Oh Lord, in order to protect all life, in order to open the way for the best possible future, take hold of us by your power and light.” Pope Francis well understands the disregarded, devalued person’s pain and loneliness, which is spreading particularly among the youth of Japan, and speaks to their hearts, “Don’t worry. Seek God’s kingdom and righteousness”—words that make us feel his desire to deliver the light of the words of the Lord Jesus. His final appeal to Christians that the work of the church in today’s society is to become a “field hospital” to receive wounded persons made a strong impact on me. I rejoice that through the visit of Pope Francis to Japan, the Word has been spoken, has been heard, and has become an opportunity to bring life to the closed-hearted insensitivity to grace from above that is evident within present-day Japanese society and among Roman Catholics as well as Protestants. (Tr. RT)
—Akiyama Toru, general secretary
教皇フランシスコ日本訪問
秋 山 徹
ローマ教皇フランシスコが11月24日(日)に、広島平和記念公園で「平和のための集い」を行い、翌25日(月)は東京ドームで「教皇ミサ」を行った。これらの集会にわれわれプロテスタントの教会や日本の諸宗教の代表者も招かれ、教皇からのメッセージと共同の祈りに参加する機会が与えられた。広島の集会では石橋秀雄教団議長も壇上で教皇からのあいさつを受け、握手を交わした。東京ではアジア各国の信者の共同祈願や、み言葉の典礼、感謝の典礼を含むミサに教団関係者も多く招かれ参加した。
広島での教皇メッセージは、「原爆を経験した被爆者は、人種や宗教、あらゆる区別を超えて、共に核兵器の脅威と非道さを世界に訴えることができる」とする一方で、平和を口にしながら核の力を武器として備え用いることを容認する者の非倫理性・犯罪性を鋭く指摘し、米国の核の傘のもとに安住しようとする日本に覚醒を促すものだった。集会の初め、被爆者一人一人の言葉を聞きながら手を取って挨拶する姿が印象的だった。
東京ドームでのミサは、フィールドとスタンドを埋め尽くす5万人の大会衆の歓呼の中を車に乗って登場し、場内を一巡、途中で幼い子供たちを見ると車を止めさせて子どもを抱き上げ祝福したのち登壇、教皇フランススコ主司式による礼拝が始まった。説教では、創世記の初めと主イエスの山上の説教のみ言葉から、まず主イエスとともに山に登り、そこから自分と世界を顧みることの大切さが指摘された。そして、神が造られた世界と命をそのままに感謝と喜びをもって受け入れなければならないこと、自分の命のことだけでなく他者と世界に満ちるすべての命を受け入れて共に生きることに招かれていることに気づかせ、「おお、主よ、すべてのいのちを守るため、よりよい未来をひらくため、あなたの力と光でわたしたちをとらえてください」との祈りに導かれるものだった。教皇が日本の、特に若者の間に広がる、無視され無価値にされている人々の痛みや孤独をよく知って、彼らの心に「思い煩うな。神の国と神の義とを求めよ」との主イエスの言葉の光を届けたいと、願っていることを感じさせる言葉だった。最後に、今日の社会における教会の働きとして、傷ついた人々を受け入れる「野戦病院」となれ、とキリスト者に訴えられたのは衝撃だった。この教皇訪日により、上からの福音に心を閉ざし冷え込んでいる今日の日本の社会に対して、カトリック、プロテスタントを含めて、み言葉が語られ、聞かれ、生かされる機会となったことを喜びたい。
2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
2:2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、
2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
2:5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
2:6 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。
2:7 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。
2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
2:9 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。
2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。
2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。
2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。
1:12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
1:13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
1:14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
1:15 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
1:16 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。
1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。
1:18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。
1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
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