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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4920号】教区議長コラム ♦ 奥羽教区 ♦ 村岡 博史 温故知新による刷新へ

2020年2月15日

 青森・岩手・秋田の北東北3県からなる奥羽教区では、9期18年間にわたり、邑原宗男教師が教区総会議長を担われてきました。その邑原教師が、東日本大震災による教区内被災教会の復興に目途がついた今年度をもって、隠退されることになりました。そこで昨年の教区総会で副議長が新議長に選ばれ、常置委員会も含めて体制が新たになりました。

 奥羽教区は、創立当初から「教区の教会性」を謳い、教区は「一つなる教会」であると認め、常置委員会による積極的な各個教会への問安に努めてきました。毎回原則として、常置委員会は、「問安報告」と「問安計画」を議題とします。教区内の信徒や教師の動向に関心を払う伝統があります。常置委員会が、各個教会と共に喜び、共に考え、祈る働きを続けることにより、各個教会の宣教に仕える伝統は大切にしたいです。

 奥羽教区の諸教会・伝道所は、他の地方教区と共に、信徒の高齢化と信徒数の減少と教会財政の困難化という課題に直面しています。また、複数の教会で一人の牧師を支えることが増えると想定されます。教区内の関係施設へのサポート体制の充実も求められています。その中で喫緊の課題は、宣教協力体制を維持・発展すること、一方、費用節減を図ることです。そのためにも教区機構を改革し、宣教部(伝道・教育・社会・協力員)・教師部・財務部の3部に集約しました。道半ばであり、今後の充実が待たれます。

 北海・奥羽・東北教区は北日本3教区の合同プログラムを毎年持っています。今後も交わりを深めることが期待されます。奥羽教区内には、札幌と仙台に相当する大都市と大教会が無いため、奥羽独自の宣教協力方法も検討する必要があります。今後の奥羽教区を覚えてお祈りください。(奥羽教区議長)

藤村直子氏(隠退教師)
 19年12月27日逝去、74歳。大阪府生まれ。82年東京神学大学大学院卒業。同年より鹿島栄光、山都教会を牧会し、衣笠病院に務め、江差伝道所を経て聖光学院に務め、鶴岡教会を経て17年隠退。

 遺族は娘・藤村幸さん。

 

北澤良夫氏(隠退教師)
 20年1月7日逝去、87歳。東京都生まれ。59年東京神学大学大学院卒業。同年より麻布南部坂、北上、広島、名古屋中村、麻布南部坂教会を牧会し01年隠退。

 遺族は妻・北澤豊子さん。

 

二宮幸雄氏(常陸大宮伝道所担任教師)
 20年1月8日逝去、79歳。神奈川県生まれ。77年東京神学大学大学院卒業。同年より阿佐ヶ谷、勝田教会、常陸大宮伝道所を牧会。

 遺族は妻・二宮めぐみさん。

真の校長は愛の神さま

松井 弘子

(恵泉女学園史料室運営委員)

「恵泉女学園の真の校長は愛の神さまです」と言い続けた河井道(1877-1953)の精神は今も恵泉女学園中学・高等学校、恵泉女学園大学・大学院の教育の中にしっかりと生きている。

 「河井道は生涯、教会を大切にし、学生・生徒、教師・職員、保護者、また世界の友への熱い祈りと一身を捧げて人々を愛した。女性の自立、自主、神の前に立つ人格存在としての自覚を促す教育者であった」と、河井道の教えを受け家族同然として暮らし、現在恵泉女学園特別顧問の一色義子は語る。

 恵泉女学園は海外の宣教団体の支援を受けて設立されたミッション・スクールではなく、日本人キリスト者河井道が、信仰に基づいて設立したクリスチャン・スクールである。

 伊勢神宮の神職の家に生まれた河井道は、明治維新の改革で父が職を失い、幼い日に北海道へ移住した。函館で宣教師サラ・スミスと出会い、札幌に同行し、スミス女学校(後の北星女学校)で学んだ。札幌でのスミスの薫陶、新渡戸稲造の指導が河井道の生涯を方向づけたといえる。津田梅子の推薦もあり奨学金を得て新渡戸稲造夫妻と共に渡米したのは彼女が21歳の時であった。ブリンマー大学を卒業し帰国した1904年秋、河井道は津田梅子が創立した女子英学塾(後の津田塾大学)の教壇に立つと同時に日本YWCA設立委員となった。日本YWCAの日本人初の総幹事に就任したのが35歳の時。総幹事としての14年間、日本国内ばかりでなく欧米、アジアへ会議や視察、講演に飛び回り、関東大震災後の復興支援やYWCA修養会・全国大会の実施に多忙を極めた。

 河井道が日本YWCAを辞し、学校教育に使命を見出した時、渡辺百合(後の一色百合)、森久保壽等、河井道の女子英学塾の教え子たち(卒業生)は、祈りつつ募金活動をし河井道を支援した。「小さき弟子の群れ」と名付けられたこのグループはやがて維持会となり、現在の恵泉フェロシップの働きにつながっている。

 1929年9名の生徒で恵泉女学園は開校した。YWCA時代の友人フローレンス・ウェルズや、北海道時代の知人、末光績、本郷新等も教員に加わった。

 河井道が著した自叙伝(My Lantern 1939,日本語版『わたしのランターン』1968)から引用する。

 「わたしの学校!それはどういう種類であるべきだろう。規定されているカリキュラムとともに、実践的な宗教教育を与えるかたわら、国際の勉強をその具体的な教科目とする方法はないものかとわたしは考えた。わたしの生徒を通してわたしが国際友交のために貢献することはできないだろうか。戦争は、婦人が世界情勢に関心を持つまでは決してやまないであろう。それなら、若い人たちから−それも、少女たちから始めることである。少女たちはただの好奇心から出発して外国の人々や外国のよいところを理解するように導くことができる。キリスト教が第一に自己を尊重することを教えるとすれば、第二には、人種や階級に関わりなく他の人を尊敬することを教える。なぜならばすべての人類は神の子どもだからである。」

 河井道の英文著書“My Lantern” (1939)と“Sliding Doors”(1950)は欧米で広く読まれ、その売り上げは学園の教育資金として活用された。バーサ・ランバートやエスター・ニューエンドーファー等ブリンマー大学時代の友人たちは、河井道、一色百合の知人であるボナー・フェラーズやジョン・モット、エリザベス・ヴァイニングをメンバーに加えてMichi Kawai Christian Fellowshipを組織し、河井道没後も学園を支援し続けた。河井道が所属した富士見町教会牧師の植村正久、子女の教育を河井道に託した賀川豊彦等との交わりは生涯続き、一色百合の夫一色乕児は学園理事長として全力で河井道を支援した。日本国内にも世界各地にも、キリスト教の教派を超えた友人たちを河井道はなんと多く持っていたことか!

 マドラスにおける基督教世界会議(1931)に出席し、平和使節団(1941)メンバーとして訪米した河井道は、戦時中も、平和を祈り、世界の友のために祈り、毎朝の学園での礼拝を守り、英語を教え続けた。創立時から園芸を大切な科目としてきた恵泉女学園だが、1945年3月女子農芸専門学校設置の認可が下り、高等教育における園芸の歩みが始まった。現在も恵泉女学園中学・高等学校と恵泉女学園大学に必修科目として園芸の科目がおかれている。

 1946年河井道は教育刷新委員会委員となり、教育基本法制定に関わった。世界祈祷日英文祈祷文の執筆は1950年。日本短期大学協会代表として渡米した1951年には使命終了後、国際基督教大学の設立のための募金活動に奔走し、アメリカ各地で講演した。

 1953年2月、5ヶ月の入院生活ののち、75歳で召天。ベッドサイドには一色百合、一色義子がおり、病室内外を囲んだ恵泉関係者の祈りの中、天に召された。

 河井道没後60年以上を経た今も、河井道を「私の先生」と懐かしむ卒業生が多い。「『はい、いいえ、ありがとう、ごめんなさいが言える人におなりなさい』と教えていただいた」等々と。創立者の理念が今なお教育の中に継承されている学校、それが恵泉女学園である。

(Kyodan Newsletterより)

 幼少期、キリスト者である両親に連れられ、気が付いたら教会にいた。小学校に上がる前は、賛美歌を歌ったり紙芝居を観たり、楽しい思い出がいっぱい。しかし次第に足が遠のき、大学に入学した頃、教会から離れてしまった。その時は、自分は二度と教会に行くことは無いだろう、と思っていた。

 大学時代、イギリスに短期留学をした。そこで出会った日本人の友人が、キリスト者の学生サークルに誘ってくれた。そこで証を聞き、再び教会に足を向けるようになった。ただ、慣れない英語で説教を聴くことには苦労をした。必死に牧師の言葉に耳を傾けた。ある日の説教で「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6・63)という御言葉に出会った。この御言葉は自分の心の奥にあった疑問を消し去り、受洗したいとの思いが与えられた。

 留学から帰国する際に立ち寄ったマレーシアのジャングルで、日本で作られた機器が、その地の人たちの生活を支えていることに感心をした。帰国後、就職活動で、その機器を作る会社の募集が目に飛び込んで来た。申し込み、無事に就職することができた。紹介された遠州教会に導かれ、2007年のクリスマスに受洗。

 海外出張の多い部署で、戸惑うことも多い。その中で、自分は教会に帰ることができたことを幸いに思う。

 しかし自分と同じ様に、クリスチャンホームで幼少期を過ごしながら、教会に戻れないでいる同世代の人たちも多い。その人たちを憶えて祈りたい。教会から離れているその時をも「霊」なる神様は大切に用いて、導きを与えて下さる。そして必ずその人に相応しい教会に戻る時期を与えて下さる。そのことを確信している。

1984年生まれ。遠州教会員

3:15 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。

3:16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。

3:17 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。

3:18 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。

3:19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

3:20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

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