14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14:20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
14:22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
14:23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14:25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14:27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14:28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14:29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
14:30もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
14:31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
14:7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
14:8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
14:9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
14:10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
14:11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
14:12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
22:39イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
22:40いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
22:41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
22:42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔
22:43すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
22:44イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
22:45イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
22:46イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
22:47イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。
22:48イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
22:49イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。
22:50そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
22:51そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。
22:52それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。
22:53わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
揺り動かされるただ中で
木村太郎(宇都宮教会牧師)
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」《マルコによる福音書8章31〜33節》
東日本大震災から8年−揺り動かされた信仰
救い主イエス・キリストのご受難を覚える時を過ごしています。
キリストは、ご自身の受難と復活をはっきりと予告されました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに教えられたのです(マルコ8・31)。
このキリストの言葉は、ぺトロを動揺させ、信仰を大きく揺り動かしました。人間的な思いに支配されてしまったペトロは、キリストを「わきへお連れして、いさめ始めた」のでありました(8・32)。
この時のペトロは、キリストの受難と死の予告の言葉に圧倒され、キリストが復活の希望をも語ってくださったことに心を注ぐことができませんでした。
8年前の東日本大震災において、宇都宮教会の会堂は震度6強という地震によって激しく揺り動かされました。築50年を超える会堂の天井や壁の漆喰が剥がれ落ち、雷の落ちるような音が響き渡りました。
しかし、動かされたのは会堂だけではありませんでした。新会堂建築の決断を与えられ、具体的に計画を進めていく中で、教会全体が信仰的に大きく揺り動かされました。そのきっかけは、礼拝堂の中に十字架を掲げるか掲げないかの議論でした。
「礼拝堂に信仰の象徴である十字架はあって当然」という意見、「十字架は一つの偶像なのではないか」という意見、「礼拝堂に十字架がなければ伝道できない」という意見など、実に様々な意見がぶつかり合いました。
真剣な協議を積み重ねた結果、長老会ならびに建築委員会において、見えない御言葉、すなわち語られる御言葉である説教と、見える御言葉である聖餐を中心に礼拝をささげるために、十字架を掲げないことを決めました。見えるものとしては、説教壇と聖餐卓で十分であるということでした。そして、礼拝堂に十字架を掲げない新教会堂ができました。
しかし、その議論は献堂後も続いていくことになりました。新会堂が与えられた教会の中には、喜びと感謝の思いと共に、何とも言えない一種の緊張感が漂いました。このことを通して痛みを背負われた方々もおられました。私自身も深く悩み、悶々とした日々が続きました。
信仰の要の再発見
しかしある時、こうおっしゃった方がおられました。「先生、礼拝堂に十字架がないということは、イエスさまが死に勝利してくださったということですよね。毎週、礼拝堂の扉を開けて、そこに十字架がないということは、イエスさまが十字架の死で終わることなく、その死からよみがえられたという希望が、信じる私たちに確かに与えられているということですよね」。
私はこの言葉にハッとさせられました。そして、マルコによる福音書の御言葉を思い起こしました。婦人たちが、キリストの納められた墓の中に入った時のことです。白い長い衣を着た若者が言うのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(16・6)。
この御言葉において、ここに「おられない」、ここに「ない」ということが、失望ではなく希望を指し示しているのです。目の前に「ある」ということにではなく、「ない」という現実の中に真理が隠されているのです。
そうであるならば、礼拝堂に十字架がないということは、何か特異なことではなく、むしろ、キリストの復活を信じる信仰に堅く立つという教会の信仰の要を象徴するものであるのです。
震災は、教会の歴史の中で一番深刻な苦難の時でありました。しかし神は、その苦難とそこからの会堂再建を通して、キリストの復活の恵みに立つ群れになることへと導いてくださいました。まさに「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです(ローマ5・3〜4)。新しく教会を形成していく確固たる道筋が与えられました。
主の業に励む
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の中で、キリストの復活、そして死者の復活について次のように締めくくります。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15・58)。
パウロはここで、復活の「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを知っているはず」だと言います。「知りなさい」という勧告ではありません。パウロは、何か新しいことを伝えているのではなく、「あなたがたは知っているはずだ」と言い、繰り返し立ち帰るべき信仰の要を思い起こさせようとしているのです。
キリストの十字架の苦難と死に対する勝利にこそ、私たちが揺り動かされないように堅く立ち続けるための赦しの恵みの源があり、福音の恵みを宣べ伝えるという主の業に励むための希望があるのです。私たちはそのことを恵みとして知らされています。
キリストは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」とおっしゃいました。しかし同時に、「三日の後に復活することになっている」ともお語りくださったのです。
キリストのご受難を覚えるこの時、私たちは、その先に確かに備えられている復活という勝利の希望をも知らされています。
そのことを信じ続けることによって、どのようなことに直面しようとも、主の業に励む労苦が無駄になることは決してないのです。
第1回信仰職制委員会が、3月4日に担当幹事の同席のもと、教団会議室にて開催された。委員の構成は、武田真治(招集者)、岩田昌路、小池磨理子、小泉健、田村博、服部修、松井睦の計7名である。委員会では、最初に今期委員会の組織について協議され、委員長に武田真治、書記に田村博を選任した。
次に、信仰職制委員会の任務について秋山徹総幹事より説明があった。
続いて、前期委員会よりの申し送り事項(①「礼拝指針」について、②各教区における「准允」「按手」実施状況等について、③教規・諸規則の問題点、など)を確認した。
その後、次の2件の諮問について協議した。
第一は、東京教区総会議長・岸俊彦氏からの次の諮問である。「教規第129条の規定による教師退任申請についてお尋ねします。教団の信徒に戻ることを理由に教師退任は認められるべきでしょうか。認められる場合、補教師または正教師が退任して教団の教会に留まる場合の身分は信徒となるのでしょうか」。
これについての答申は、「教団の信徒に戻ることを理由には、教師退任は認められません。しかし、召命感の喪失が理由であれば、教師の退任は認められます。その場合の身分は『退任した教師』となります。」である。
第二は、関東教区常置委員会、および関東教区総会議長東野尚志氏からの諮問「阿部洋治教師の正教師登録について」であり、協議の結果、継続審議とした。(田村 博報)
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