by Umesaki Koji, moderator Kyushu District
As the 2016 Christmas season draws near, I would like to share with you some of the unprecedented events I experienced in our district during this year, and about the “light in the darkness” that I saw with my own eyes.
On April 14, at 9:26 pm, the Kumamoto region was stuck by a tremendous earthquake, measuring 7.0 on the intensity scale and 6.5 in magnitude (richter scale). The violent quake came with no warning, and people spent that terrible night in fear and confusion. When the full extent of destruction was finally revealed in the first light of day, we naturally felt bewildered. But somewhere in our hearts we were already thinking about what must be done first, or what needed to be cleaned up first. In other words, everyone was thinking, “The earthquake is over.” “There might be some aftershocks, but they will gradually end.”
We live in an earthquake-prone country, but no one anticipated that the sudden violent earthquake, which caused such devastation, might be followed by another, even greater, tremor. Yet this is exactly what happened 28 hours after the first quake, at 1:25 am on April 16. The second earthquake measured 7.0 in intensity and 7.3 in magnitude. Furniture and utensils that had just been painstakingly picked up and returned to their places exploded across rooms once more. Many homes that had thankfully withstood the first shock suffered heavy damage or collapse in the second.
This immediately made people aware that the situation was truly unpredictable. All of our trusted, experience-based earthquake rules were suddenly swept aside. Also swept aside were the fruits of our initial recovery efforts, which were achieved by rousing ourselves with great effort. “Every effort is useless.” Many people felt dispirited, losing their will to fight like a boxer matched against a far superior opponent.
Churches, members, and pastors were all tossed about and impacted by this giant force, just like every other building and people. But the work that was done by pastors in the earthquake region in the first days after the two powerful tremors was truly remarkable. Even though they were themselves victims of the disaster, they set aside the needs of their own families to search out church members, offer them comfort and encouragement, and try to meet their needs. They also provided crucial life supplies to the many people who came to disaster shelters or opened their own doors to welcome, serve, and comfort displaced neighbors. These efforts surpassed all bounds of expectation.
One of these pastors was particularly worried about a church member, an elderly woman, who lived alone. He was able to confirm her safety after the first big tremor, but could not reach her after the second. He drove toward her place through streets still rippling from aftershocks and reached her high-rise building, only to find the elevators stopped. He raced up to her apartment on the 10th floor, came back down with her on his back, then carried her to his house. This pastor was already in a state of psychological and physical exhaustion, but he could not help but run into a dangerous building to assist someone else.
In another case two church members, a husband and wife, became trapped in a room that somehow had escaped collapse while the rest of the house crumbled. Their home was in the most heavily affected part of town, which was quite far from their church. Roads were badly damaged and people assumed their neighborhood could not be reached. But their pastor packed food and water onto a motorbike and, by weaving through debris and finding alternate routes, found his way to their home. After this, he returned to them many times to offer encouragement. The supplies he took them were the very same things that he needed at his house, where water service had stopped and food was in short supply.
When I recall the many actions of these pastors, who “while suffering themselves, reached out to the suffering,” I feel strongly that these were all the works of “those who know the One who came.” It is precisely because they receive life from the One who could not abandon suffering people, and who came to be wounded and abandoned while ultimately bringing people to forgiveness, that they had no choice but to “while suffering themselves, reach out to the suffering.” The gift of Christmas was revealed through them, in all its pain and beauty.
The destruction from the earthquakes is still very serious, and the impact will continue to be felt for a long time. There is no light visible yet at the end of the tunnel of sorrow and pain, so the darkness is still deep. But there are people who have been given life by the Light who came into the darkness. These people, like the pastors above, inherit the beautiful commission and continue the work. (Tr. DM)
「闇の中の光」
九州教区総会議長 梅崎浩二
2016年のクリスマスを迎えようとするこの時に当り、私は、
4月14日21時26分、熊本地方は震度7、マグニチュード6.
突然に起こり、激しい被害をもたらした大きな揺れに次いで、
人々は、最早、
教会堂も、教会員も、そして牧師達も、
或る牧師は、
他の事例である。全損家屋の、
数多く現わされた“傷ついておりながら、傷ついた者へと向う”
震災の被害は今も深刻であり、これからもその影響は長く続く。
2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
2:15 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。
4:4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
4:8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
4:9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
7:10 主は更にアハズに向かって言われた。
7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
7:12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
7:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。《ルカによる福音書 2章1〜20節》
暗い夜の時代
クリスマスは夜の出来事です。それはただ時間的に夜であったというのではなく、暗く重たい闇の力が自分たちを支配している中での出来事であったと聖書は物語っています。誰でも知っている暗闇です。そこに光が訪れる。その喜びを、ルカによる福音書は羊飼いに起こった出来事を通して伝えています。
ここに登場する羊飼いは夜の暗闇の中にいます。その暗闇がどれ程深いものであったかが、その前の1節以下で語られています。彼らが暗闇の中にいた頃とは、皇帝の勅令という国家権力の力が忍び寄ってきた時代です。いったい何が始まったのか。住民登録です。それは税金を集めるためです。その目的の一つは戦争の準備でした。クリスマスとは、国家権力によるきな臭い時代の始まりを感じさせる暗い時でありました。今日で言うと、マイナンバー制度でしょうか。
ヨセフとマリアも住民登録をしなければならなかったので、ベツレヘムに向かいました。マリアとヨセフは行きたくなかったと思います。なぜならば、マリアは身重だったからです。ナザレからベツレヘムまで、直線距離にすると約百キロです。それは東京から富士山を越えた山梨ほどの距離です。当時は道路も舗装されていません。山あり谷あり砂漠ありの道を身重の女性が旅をしなければならなかったのです。マリアとヨセフは絶対にこの旅をしたくなかったはずです。けれども、身重の女性であっても免除してもらえることがなかったのです。暗い時代です。何でこんな時に、よりにもよって何故この時に、嫌なことが重なって起こるのだろうか。そういう時です。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。赤ちゃんがお腹にいたのでゆっくり行かざるを得なかったのでしょう。着いた頃にはもう泊まるところが埋まっていた。ここに、競争社会の中で競争に負けた家族がいる。しかも誰も助けてくれる人がいなかった。もしかすると、ヨセフと同じ血筋にある親戚もどこかにいたかもしれない。けれども、自分たちを受け入れてくれる家族はいなかった。主イエスを身ごもるとは、彼らにとってそういう出来事だった。どこにも自分の居場所がないのです。暗い夜の時代です。
暗闇に横たわる者たちに
その頃、その地方で夜通し羊の群れの番をしている羊飼いたちが登場した。羊飼いたちが登場するのは、ここでなければならなかった。
ところで、何故羊飼いたちは夜通し羊の群れの番をしていたのだろうか。何故彼らは住民登録に行かないのだろうか。身重の女性であっても免除されなかった住民登録に、何故彼らは行かないのだろうか。
考えられることは一つだけです。彼らは住民登録をする必要がなかった人間だったのです。もっとはっきり言えば、彼らは住民登録をする権利を持っていなかったのです。あなたはそこにいます、と数えられていない人間がそこで夜通し働いていた。ここに、生きている内に数えられていない人間がいた。いくら頑張っても、自分の手の働きの確かさを数えることのできない人間がここにいた。けれども、生きていくために働かざるを得なくて、昨日と同じ虚しい働きを今日もしなくてはならない人間が、暗闇の中に横たわっていた。その意味で、本当に暗い夜を過ごしている人間がここにいた。
状況は違えども、この暗闇を知っている者は多いのではないか。子どもも大人も年を重ねた者も皆知っている暗さではないか。私という人間がここにいるのに、必要とされていない。まるで空気のように扱われている。嫌でも思わされる。自分などいてもいなくてもどっちでもいい存在なのではないか。いやむしろ、自分なんかいないほうが、社会にとっても、家族にとっても、都合が良いのではないだろうか。「私なんか、僕なんか…」。誰でもが知っている暗さです。
聖書は、神がご自分の御子の誕生の喜びを一番最初にお伝えになりたかったのは、この羊飼いたちだったと語っているのです。子どもが生まれたら誰に一番最初に伝えるでしょう。きっと大事な存在に伝えるでしょう。神は、ご自分の御子がお生まれになった時、誰に一番最初にお伝えになりたかったのかというと、「私なんて、僕なんて」と自分の存在意義を見出すことができず暗闇で横たわるしかなかった者に、この喜びを一番最初に伝えたかったと語っているのです。
「恐れるな」。あなたを救うお方が生まれた。あなたを無に帰さない方がお生まれになった。だから、もう恐れる必要はない。この人を見よ。
この知らせを聴いた羊飼いたちは立ち上がりました。それまでは立ち上がれなかったと思う。心伏していた。けれども、この言葉を聞いて、立ち上がったのです。立ち直ったのです。そして叫んだのです。「さあ、ベツレヘムへ行こう」。
現代のベツレヘム、御子がおられる場
現代のベツレヘム、それはどこにあるのでしょう。もちろん、ベツレヘムという地名は今もありますが、そうではなくて現代のベツレヘム、御子イエス・キリストがおられるところはどこにあるのでしょう。現代のベツレヘム、それは教会です。羊飼いたちは、「さあ、教会へ行こう」と叫んだのです。仕事が一段落してから向かったのではありません。仕事の最中に立ち上がったのです。朝になってから向かったのではありません。夜の内に出かけたのです。闇の中で向かったのです。
教会は時間ができたら行くものと考える方がいらっしゃるかもしれません。問題が解決して、疲れがとれたら行こうと思うかもしれません。しかし、羊飼いはそうしなかった。仕事中に立ちあがった。問題が解決しない中で、暗い内に出かけた。暗闇と義務に勝って、そこへと向かわせるものがあったのです。それは、自分を救うお方の存在です。自分を救う神が来て下さった。そのお方を見たかったのです。ここに仕事に勝るものがあります。疲れや睡眠に勝るものがあります。彼らは「主が知らせて下さったその出来事を見」たかったのです。
教会、それは御子キリストがおられる場所です。神は世界中どこにでもおられますが、その神が私たちを救うお方としてご自身を明らかにされる場所。御言葉が語られる場所。そこに教会があります。ここに来れば、キリストが私たちを救うために来られたことがあなたにも分かります。この出来事を証しするすべての教会の説教者の上に神の祝福を祈ります。(青山学院大学宗教主任)
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