The Kyodan sent General Secretary Nagasaki Tetsuo and Executive Secretary for Ecumenical Ministries Kato Makoto on official visits to churches in North America that previously had related to the Kyodan through the former Japan-North American Commission on Cooperative Mission (JNAC). This opportunity was precipitated by the invitation of Xiaoling Zhu, area executive for East Asia/Pacific of the Common Global Ministries Board of the Christian Church (Disciples of Christ) and the United Church of Christ, to attend the Asia Pacific Forum, Jan. 29-30, in New York. Even though the Kyodan has concluded cooperative mission agreements with the Reformed Church in America and the Presbyterian Church (USA), communications with churches in North America following the 2004 dissolution of JNAC had weakened considerably, so this was a good opportunity to improve that situation. Likewise, it was also an opportunity both to express our thankfulness for their contributions to the relief effort following the East Japan Disaster as well as to request the various boards to send educational missionaries to Christian schools in Japan.
The Kyodan executives first called on the headquarters of the United Church of Canada in Toronto. General Secretary Kim Byung Ho of the Presbyterian Church of Canada and Heo Bae Kki, secretary of the Korean Christian Church in Japan, joined us for our visit, and we shared with each other the issues facing the respective churches.
As our arrival in New York, our next destination, was delayed one day because of heavy snow, we regretfully had to cancel our planned visits to the Anglican Church and some other appointments on the day before the Forum, but we were able to participate in the Forum as scheduled. The conclusion we reached was that it would be very helpful for the Kyodan to participate actively in the Asia Pacific Forum as it is a structure that can help replace the defunct JNAC. The common and urgent issue felt by all was how to nurture the next generation of leadership. As a step towards that goal, a large-scale youth conference (for 14 to 18 year-olds) is scheduled to be held, beginning July 26, 2016 in the United States, and we were requested to send ten youth from the Kyodan.
On Sunday Feb. 1, we attended the Union Japanese Church of Westchester’s worship service and had a time of fellowship with missionary Nishikawa Akimitsu, who started his new assignment at the end of last year, and with members of the church.
On Monday we visited the headquarters of the Christian Church (Disciples of Christ) in Indianapolis, Indiana, where we were hosted by Area Secretary Zhu. Surprisingly, the staff in the room next to the pension bureau specializes in investment, and it seems they are able to enjoy a profit equivalent to ten percent annual interest. We next visited the UCC headquarters in Cleveland, Ohio on Wednesday and then PC(USA) headquarters in Louisville, Kentucky on Thursday. The UCC headquarters is in a building directly connected to a hotel, which the church operates. However, the church intends to sell the building, including the hotel, within two years and move to a building that can be operated at less expense. The strategy is to use the money gained from the sale to promote mission work actively. (Tr. KY)
—Kato Makoto, executive secretary
北米諸教会訪問記
2015年1月25日(日)~2月7日(土)まで教団は長崎哲 夫総幹事と加藤誠世界宣教幹事を旧JNAC(日北米宣教協力 会)に関係していた北米諸教会の公 式訪問のため派遣した。きっ かけは共同世界宣教局東アジア担当幹事シャオリン・ズー牧師から
最初の訪問先はトロントにあるUCC(米国合同教会)の本部で あった。カナダ長老教会と在日大韓基督教会(Korean Christian Church in Japan)から金柄鎬(Kim Byung Ho)総幹事と許伯基(Heo Bae Kki)書記が加わり、お互いの 教会の紹介と課題を共有した。
ニューヨークは大雪のため予定より一日遅れて到着した為、
2月1日の聖日はニューヨーク北 部にあるユニオン日本語教会(Union Japanese Church of Westchester)の礼拝に参加し、昨年末に 赴任された西川晃充(Nishikawa Akimitsu)宣教師と教会員の方々との 交わりの時を持った。
翌月曜日はインディアナポリスIndianapolisにあるデ
1:38 祭司ツァドク、預言者ナタン、ヨヤダの子ベナヤはクレタ人とペレティ人と共に下って行った。彼らはソロモンをダビデ王のらばに乗せ、ギホンに連れて行った。
1:39 祭司ツァドクは天幕から油の入った角を持って出て、ソロモンに油を注いだ。彼らが角笛を吹くと、民は皆、「ソロモン王、万歳」と叫んだ。
1:40 民は皆、彼の後に従って上り、笛を吹き、大いに喜び祝い、その声で地は裂けた。
1:41 アドニヤと、彼と共にいたすべての客は、その声を聞いた。彼らは食事を終えたばかりであった。ヨアブは角笛の音を聞いて、「どうして町に騒がしい声がするのだろうか」と言った。
1:42 こう話しているうちに、祭司アビアタルの子ヨナタンが来た。アドニヤは、「近くに来るがよい。お前は勇敢な男だ。良い知らせがあるにちがいない」と言ったが、
1:43 ヨナタンはアドニヤに答えた。「いいえ、我らの主君、ダビデ王はソロモンを王とされました。
1:44 王は、ソロモンと共に祭司ツァドク、預言者ナタン、ヨヤダの子ベナヤ、クレタ人とペレティ人を遣わし、彼らはソロモンを王のらばに乗せました。
1:45 祭司ツァドクと預言者ナタンはギホンでソロモンに油を注いで王とし、彼らがそこから喜び祝いながら上って来たので、町は騒いでいるのです。あなたがたに聞こえたのはその声で、
1:46 ソロモンは既に国王の座についておられます。
1:47 王の家臣も次々と来て、我らの主君、ダビデ王に祝いの言葉を述べています。『あなたの神がソロモンの名をあなたの名よりも優れたものに、ソロモンの王座をあなたの王座よりも大いなるものにしてくださいますように』と。王は寝床の上でひれ伏し、
1:48 こう言われました。『イスラエルの神、主はたたえられますように。主は今日わたしの王座につく者を与えてくださり、わたしはそれをこの目で見ている。』」
1:49 アドニヤに招かれた客は皆、震えながら立ち上がり、それぞれ帰途についた。
1:50 アドニヤもソロモンを恐れ、立って行き、祭壇の角をつかんだ。
1:51 この知らせがソロモンに伝えられた。「アドニヤはソロモン王を恐れ、祭壇の角をつかんで言っています。『この僕を剣にかけて殺すことはないと今日ソロモン王に誓っていただきたい』と。」
1:52 ソロモンは言った。「彼が潔くふるまえば髪の毛一筋さえ地に落ちることはない。しかし、彼に悪が見つかれば死なねばならない。」
1:53 ソロモン王は人を遣わしてアドニヤを祭壇から下ろさせた。アドニヤがソロモン王の前に出てひれ伏すと、ソロモン王は、「家に帰るがよい」と言った。
1:5 ハギトの子アドニヤは思い上がって、「わたしが王になる」と言い、戦車と馬と五十人の護衛兵をそろえた。
1:6 彼は父から、「なぜこのようなことをしたのか」ととがめられたことが、一度もなかった。彼の体格もまた堂々としており、アブサロムの次に生まれた子であった。
1:7 アドニヤはツェルヤの子ヨアブと祭司アビアタルに話をもちかけ、この二人の支持を得た。
1:8 しかし、祭司ツァドク、ヨヤダの子ベナヤ、預言者ナタン、シムイ、レイ、およびダビデの勇士たちはアドニヤにくみしなかった。
1:9 アドニヤは、エン・ロゲルの近くにあるゾヘレトの石のそばで、羊、牛、肥えた家畜を屠ってささげ、王子である自分の兄弟たち、王の家臣であるユダの人々を、ことごとくそこに招いた。
1:10 しかし、預言者ナタン、ベナヤ、ダビデの勇士たち、自分の兄弟ソロモンは招かなかった。
1:11 ナタンはソロモンの母バト・シェバに言った。「お聞きになってはいませんか。我らの主君、ダビデの知らないうちに、ハギトの子アドニヤが王となったということを。
1:12 あなたの命とあなたの子ソロモンの命が助かるように、わたしの言うことをすぐさま実行しなさい。
1:13 直ちにダビデ王のもとに行って、こう言いなさい。『わが主君、王よ、はしためにお誓いになったではありませんか。あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしの王座につくと。なぜ、アドニヤが王となったのでしょうか。』
1:14 あなたが王と話し合っている間に、わたしも続いて入り、あなたの言葉を確認します。」
1:15 バト・シェバが王をその部屋に訪ねると、非常に年老いた王は、シュネム生まれのアビシャグの世話を受けていた。
1:16 バト・シェバは王の前にひざまずいて礼をした。王が「どうしたのか」と尋ねたので、
1:17 彼女は言った。「わが主君、王よ、あなたの神、主にかけてあなたはこのはしためにお誓いになりました。『あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしの王座につく』と。
1:18 ところが今、アドニヤが王となりました。わが主君、王よ、あなたはそのことをご存じではありません。
1:19 アドニヤは雄牛や肥えた家畜や羊を数多く屠ってささげ、すべての王子、祭司アビアタル、軍の司令官ヨアブを招きました。しかし、あなたの僕ソロモンは招きませんでした。
1:20 わが主君、王よ、わが主君、王の跡を継いでだれが王座につくのか、お示しになることを、すべてのイスラエルは注目しています。
1:21 このままで、わが主君、王が先祖と共に眠りにおつきになれば、わたしとわが子ソロモンは反逆者になってしまいます。」
1:22 彼女が王と話し合っている間に、預言者ナタンが来たので、
1:23 「預言者ナタンが参りました」と王に告げられた。ナタンは王の前に進み出て、地にひれ伏し、
1:24 言った。「わが主君、王よ、あなたは、『アドニヤがわたしの跡を継いで王となり、王座につく』と言われたのでしょうか。
1:25 アドニヤは今日下って行って雄牛や肥えた家畜や羊を数多く屠り、すべての王子、将軍たち、祭司アビアタルを招きました。彼らはアドニヤの前で飲み食いしながら、『アドニヤ王、万歳』と叫びました。
1:26 しかし、あなたの僕であるこのわたしと、祭司ツァドク、ヨヤダの子ベナヤ、あなたの僕ソロモンは招かれませんでした。
1:27 このようなことになったのは、わが主君、王の御意向なのでしょうか。わが主君、王は、だれが御自分の跡を継いで王座につくのか、僕たちにお知らせになっていません。」
1:28 ダビデ王は答えて、「バト・シェバをここに呼びなさい」と命じた。彼女が進み出て、王の前に立つと、
1:29 王は誓った。「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。
1:30 あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしに代わって王座につく、とイスラエルの神、主にかけてあなたに立てた誓いをわたしは今日実行する。」
1:31 バト・シェバは顔を地に伏せ、王に礼をして、「わが主君、ダビデ王、あなたの命がとこしえに永らえますように」と言った。
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 《ヨハネによる福音書20:19〜29》
恐れの中にある弟子たち
イースターの朝、弟子たちはユダヤ人を恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。「自分たちも十字架に付けられて殺される」この思いが弟子たちを支配していた。「こんなはずではなかった」ユダヤ人の王として君臨するはずであった、自分たちの主であるイエス様が十字架に付けられて殺されてしまった。権力争いに敗れて、指導者を殺された群れ。それがイースターの朝の、復活のイエス様と出会う前までの弟子たちであった。
恐れに支配された弟子たちの中心に、復活されたイエス様が立たれる。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。当然の如く弟子たちは喜んだ。しかし、その後のトマスの言葉によって、弟子たちは再び恐れに陥り、復活をされたイエス様と出会っているのにも関わらず、戸に鍵をかけておびえていた。
イエス様は、どうやってこの弟子たちを復活の証人として導かれたのか? それは、ご自分の身体を用いてである。弟子たちが復活の証人となり得たのは、イエス様が釘で刺し貫かれた手を見せ、槍で刺し貫かれたわき腹を見せたことにより、弟子たちの恐れを打ち砕き、後のペンテコステに至るまでの間、祈りをもって聖霊を待ち続ける群れへと導かれたのである。
復活の信仰が血肉となる
わたしは、この場面の弟子たちの姿に、強い共感を覚える。それは、今までの信仰生活で、繰り返し神の出来事を見させて頂いているにも関わらず、明日を恐れて、戸に鍵をかけて出てこない、それが信仰者としての自分の姿であり、この場面の弟子たちの姿と自分の姿が重なり合うからである。
臆病で愚かなわたしは、洗礼を受けてから後も、復活の信仰を信じていなかった。信じていなかったと言うよりは、復活の信仰が、信仰者としてのわたしの血肉にはなっていなかったと言える。頭では理解し、受け入れているが、それが具体的にわたしの人生や信仰生活に迫ってくることはなかった。試練の度に恐れ、神の救いに与りながら喜び、そしてまた明日を恐れる、その繰り返しがわたしの信仰生活であった。
そんなわたしに対して、その命と身体を持って、復活の信仰をわたしの血肉としてくれた一人の青年がいた。わたしは彼を子ども時代から知っており、神学生として会堂守をしていたわたしの部屋に、時々遊びに来てくれた。貧乏学生であったわたしは、袋のラーメンを、なんの具も入れずに振る舞うのが、彼とわたしとの暗黙の了解となっていた。
彼は純粋な故に、大人たちの世界における不純さに耐えられなかった。多くの青年たちは、そんな場面と出会いながら、違和感を感じつつも、適当なところで折り合いをつけて大人になっていく。しかし、彼はその「折り合い」をつけることができなかった。その違和感、その怒りが暴力となった時もあれば、暴走族に入り暴れ回ったりすることにもなった。
彼は自分の人生を立て直していく中で、暴走族とも縁を切ろうとしたが、上手に自分の気持ちを伝えられずに彼らの怒りを買ってしまった。わたしの携帯電話に彼から「暴走族に囲まれて、バイト先のスーパーから出られなくなった。助けてくれ」と連絡があった。教会の教育主事をしていた先生と神学生のわたしとで助けに行く途中にも電話があり、「あいつらは刃物を持っているから来るな」とも連絡があった。とにかく現場のスーパーに駆けつけると30人くらいの暴走族がスーパーを囲んで、大騒ぎになっていた。
わたしは暴走族のリーダーと話を付けて、リーダーに丁寧に謝らせることで彼を助けた。どんな立場であっても、世話になった人間に対して不義理を犯すことは間違っている。そのことを彼に教える機会にもなった。
復活の勝利を信じて
その後、彼は、教会員から紹介してもらった仕事場で働き始め、軌道に乗り始めたその時に、交通事故に遭い、命を落とした。わたしは彼の前夜式式次第を作りながら、「なんであいつの前夜式のプログラムなんか作らなあかんねん」と号泣した。そして、前夜式の準備を整えてから、牧師先生と共に納棺をするために彼の家に向かった。
そこで考えられないようなアクシデントがあった。それは背の高かった彼が、棺に入らないのである。葬儀社のミスで、死後硬直をする前に膝を曲げておかなければならなかったのに、それを怠り、納棺できなくなっていた。牧師先生が「蒸しタオルを持ってきて下さい」と言われて、わたしと牧師先生とで、彼の膝裏を蒸しタオルで揉み続けた。カチンコチンに固まった彼の身体を揉み続けることで、受け入れられない彼の死を、強制的に突きつけられてしまった。
しかしその時、わたしの心の中に、トマスに向かってイエス様が語られたその言葉が浮かんだ。彼が死んだという受け入れがたい事実を、彼の身体を揉み続けることで示され、その時に、復活のイエス様の言葉が、わたしの心の中に初めて受肉したのである。わたしは固く信じている。死のとげを、復活の勝利によってのみ込まれたイエス様が、再び彼と出会う時を備えて下さっていることを。そして、私たちの愛するかけがえのない一人一人が、空しく消え失せたのではなく、イエス様にあって、復活の勝利を遂げ、再会の時が備えられていることを。
わたしは彼との出会いなしに、復活の信仰に至ることは出来なかった。今年の2月に父が天に帰っていったが、その遺体を見ながら、やがて新たに与えられる朽ちない身体にされることを示された。父の死を通して「肉親」という言葉の意味を示されている。今も身体の一部分がなくなってしまったような喪失感に苛まれている。そして、わたしもやがて、この肉体が滅びる時が必ず来ることを否応なく示されている。
信仰の弱さ、愚かさ、肉体の朽ちていくそのすべてから、わたしは朽ちていく自分自身を見いだし、それ故に、朽ちることのない復活の命に希望をおく。私たちのすべてを洗い清め、永遠の命へと繋げて下さるために、イエス様は十字架に架かり、復活の勝利を遂げられた。この福音を力強く語る新たな歩みを、イースターの時から踏み出していきたい。(愛知教会牧師)
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