高橋定男氏(無任所教師)
14年5月2日逝去、88歳。54年関西学院大学大学院を卒業、同年大阪津田伝道所に赴任。大阪大道、前原教会を牧会。
高橋幸一氏(隠退教師)
15年9月6日逝去、76歳。東京都生まれ。72年東京聖書学校卒業。同年より泉町、下総旭町、下田、野田教会を牧会し、96年に隠退。
遺族は妻・高橋久世さん。
木村勝則氏(幕張教会主任担任教師)
15年9月17日逝去、61歳。茨城県生まれ。79年農村伝道神学校卒業。同年より小平学園、付知、日野原記念上尾栄光、幕張教会を牧会。
遺族は妻・木村清子さん。
鎮西学院は、1881年(明治14年)10月、長崎の東山手に北米メソジスト教団の宣教師C・S・ロング夫妻によって創設されたカブリー・セミナリーを前身としている。日本語では、『加伯利英和学校』と表記された。ロング宣教師は、当時、長崎で発行されていた『西海新聞』や『鎮西日報』に盛んに生徒募集の広告を出している。英語速習の方法を教授するというものである。
外国人2名、助教1名と日本人教師をスタッフとしており、週5日の夜学も開講している。夜学の謝金は、毎夜2銭だった。昼間部は、英語のほかにも漢文も教授しており、8時30分~12時、 午後は、1時~3時 が授業時間となっており、謝金は、3ヶ月で1円であった。寄宿舎もあり、1ヶ月食費3円50銭とある。
多くはカブリ学校シー・エス・ロングの名前で広告が出されたが、中にはカブリフ学校シー・エス・ロングの名前でも広告が書かれており、明治時代の香りが漂う。
このような広告が功を奏したのか、明治16年に書かれたロング宣教師の日記には、開学の時に18名の学生が集まったと書かれている(鮫島盛隆「シー・エス・ロング日本宣教記」1974年刊)。
ここで、校名にもなったカブリーとは、いったい誰なのか。ロング宣教師の1881年11月29日の日記には、「この学校は、…親愛し尊敬する旧師の追憶の祈念塔として建てられた」(鮫島前掲書P35)と記している。
実は、ロング宣教師夫妻が日本に派遣される直前に母校テネシー・ウエスレヤン大学で送別会が催され、その席上、敬愛して止まなかった故・恩師ネルソン・E・カブリー博士(英語表記では、コブレイの方が正しいと思われるが、ロング宣教師は、あえて日本人にとって発音のしやすいカブリーと表現したのであろう)の夫人モーリー・V・カブリーが日本の青年たちのためにと2ドルの献金を捧げた。それが契機となって多くの人々から献金が集まり、それを基金にロング宣教師は、長崎で男子校を設立したのだった。すでに2年前に同じ北米メソジスト教団のラッセル宣教師が、長崎・東山手に活水女学校を始めていた。
ロング宣教師は、まさに敬愛して止まなかった恩師の名前を学校名にしたのだ。そのネルソン・カブリー博士については、若干の史料が残っている。
ネルソン・E・カブリー博士は、1814年にテネシー州に生まれ、長じてテネシー・ウエスレヤン大学を1843年最優秀の成績で卒業、9年間をニューイングランドで牧師として活躍。その後、夫人の健康のために、イリノイ州のMckendreeカレッジの教授となった。後年、同カレッジで学長となった。1863年には、Zion’s Herald誌の編集長も兼務していた。1863年には、彼自身の健康のため南部へ移りアセンズのテネシー・ウエスレヤン大学の学長となった。
1872年 には、ジョージア州アトランタのMethodist Advocateの編集長となった。ネルソン・カブリー博士のテネシー・ウエスレヤン大学の在任は、1863年~1871年ということになる。まさに、同博士の在任中の教え子が、ロング宣教師なのだ。大いに薫陶を受け、ロング宣教師の人生の指針となったのが、同博士だった。
牧師としてのカブリー博士は、説教の名手であり、編集者・書き手としての同博士は、名文家としても有名であったと伝えられる。1864年・1868年・1872年 のメソジストの総会のメンバーでもあった。1874年にジョージア州アトランタで没。
モーリー夫人の詳細については分かっていない。ただ、鎮西学院は、モーリー夫人の2ドルの献金の精神を今も受け継ぎ、長崎ウエスレヤン大学では、短期大学の開学時代以来、大学祭を2ドル祭と名付けている。
因みにカブリ英和学校から鎮西学館へと校名変更したのは、1889年(明治22年)、 現在の鎮西学院となったのは、1906年(明治39年) のことであった。鎮西学院は、2度の火災に遭い長崎市東山手から長崎市竹ノ久保へ移転したが、1945年原爆に被災。1947年に長崎市近郊の諫早市 へ移転して65年を経過した。
モーリー夫人の2ドルの精神を受け継ぎ、長崎ウエスレヤン大学では、世界で貧困や病に喘ぐ青少年のためにボランティア活動を展開しているが、何れの日にか彼等のために何事かを為したいと考えている。(Kyodan Newsletterより)
9月14〜17日の日程で行われた韓国基督教長老会(PROK)と大韓イエス教長老会(PCK)のそれぞれ記念すべき第100回総会に出席を許された。両教会の総会日程が重なっていたので、14〜15日はウォンジュ(原州)ヨングァン教会で行われたPROK総会に出席し、16日はチョンジュ(清州)のサンダン教会で行われたPCK総会に出席することとなった。第100回の記念総会であり、海外諸教会からのゲストもそれぞれの総会で60名から80名に上った。また両総会共にゲストのために特別なスケジュールを組み、次世代のリーダー育成、各地域での移民問題、和解と一致、等についてのワークショップを企画するなど工夫を凝らし、総会全体がこれまでの歴史を踏まえながら世界の教会の将来に向き合う内容となっていた。
また両総会の中心となる礼拝では海外諸教会からのゲストも様々な場面に用いられ、聖餐式の配餐や平和の挨拶などにもあたり、全員で形作る礼拝の姿がそこにあった。PCK総会の記念礼拝では総勢700人を越える聖歌隊が組まれ、オーケストラと合わせると約800人での賛美がなされた。また全国からの長老で組織された聖歌隊の歌声は素晴らしく、各老会旗の行進にも驚かされた。それぞれの記念礼拝は約3000人を収容する礼拝堂で行われたが、人が溢れ、他会場も用意されたようであった。両教会共に平和、和解、一致というテーマを持った総会であり、礼拝プログラムや礼拝説教にもその内容が豊かに盛られ、信仰の力に溢れた礼拝であった。
それぞれの総会で新しく選任された議長・副議長は、PROKがチェ・プオク議長、クォン・オリュン副議長、PCKがチェ・ヨンナム議長、イ・ソンヒ副議長であった。議事を取り扱う総会会場での傍聴もPROKで僅かの時間許されたが、活発な発言が続く中、神への信仰と互いの信頼を基盤として議事が展開されており、感銘を受けた。
それぞれの総会会場が離れており、移動に時間も要したが、総会期間中に文化に触れる場や農村部の教会訪問もあり、有意義な時となった。両教会に心から感謝し、主の祝福を祈るものである。
(佐々木美知夫報)
古谷道子さんは生まれも育ちも須崎で、結婚してからも須崎に住んでこられた須崎人。家も教会のほぼ向かいにある。ちなみに実家はおいしい干物屋とのこと。
教会学校の小学科がきっかけで教会に通い始めたが、「教会はいい人が行くイメージ」があってしばらく遠のいた時期もあった。30代の頃、「自分は何で生まれたのだろう」その意味を知りたいという思いを抱き、答えを求めていた。ある特伝でペトロの裏切りの話を聞き、人間本来の罪の姿を知らされ、「自分でも(教会に)来られる」という思いになった。ノンクリスチャンの夫の勧めで子どもを須崎教会附属の幼稚園に入園させたのを機会に、教会に戻ってきた。以来、教会では二番目くらいの古株になった。
須崎教会の歴代牧師、また夏期伝道実習で訪れる神学生は、古谷さんの家庭で育てられたという。家が近いこともあり、胃袋はもちろんのこと、夫妻との会話や日常生活の中で成長させられるそうだ。牧師を育てる信徒として、優しさだけでなく、時には厳しいことも言う。
古谷さんをはじめ、須崎教会の信徒は何が一番大切なのかを分かっているという。それは、礼拝が全てであるということ。だから、ここで礼拝を続けることが伝道だと考える。そして何事も聖書から聞こうとするので牧師も安心できるということだ。どんなに困難な状況でもそれがブレない。
高知県は人口流出率が全国的にも高い。特に須崎市はその傾向が顕著だ。地域や教会の周りの環境について考えれば明るい要素は無いけれども、悲壮感は全くない。開き直りではなく、御言葉にこそ力がある確信があるからだ。この確信があるからこそ「行け行けどんどん!」と進める。厳しい中でも教会は必要とされる限り立ち続けるのだから大丈夫。必要なものは備えられる、と神を信頼して歩み続ける。
須崎教会員。
この10月、1年前フロリダで逝去されたオールデン・エヴァルト・麻修須(マシュウズ)先生の遺骨を、ずっと遺言されていた通りデリス夫人が眠る境南教会墓地と青山墓地の宣教師墓所に、親しかった者たちが集まって埋葬することができた。
私が武蔵野の境南伝道所に招聘されたのは、今から47年前の1968年末だった。そこに東神大の熊沢義宣先生と教団幹事の麻修須御家族がおられて私は様々な局面で両先生から学び、励まされた。
麻修須先生はシカゴ大神学部から、当時UCBWM(今のUCC、米国組合教会と複数教派との合同教会)の宣教師で、戦前父君が伝道された中国・福州に戦後派遣された。しかし、間もなく文化大革命が起ころうというころ来日し、京都の同志社を経由し東京の日野台教会(室野玄一牧師)を拠点とした農村伝道神学校創設にストーン宣教師らと共働。同神学校の教壇にも立った。以降、IBC/JNAC・CoC及び教団幹事として卓越の人格、識見をもって奉仕した。この間、先生の生涯のハイライトは、いわば教団のスーパーバイザー、とは言われなかったが、その行動は全く忍者風、神出鬼没で、人に分からず知らせず其処此処の牧師・家族・教会役員から、CPE(臨床牧会教育者)として「聞き」に通い続けたことだ。だから先生と教会生活は常に一緒であったのに、周囲が先週の礼拝には見えなかった等と尋ねても知らぬ存ぜぬだった。今日、宣教委員会が考えている「牧会者と家族のための相談室」等の先駆けだった。(教団総幹事 長崎哲夫)
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