1月19日~20日、四国・松山教会を会場に、5教区合同のカルト問題対策研修会が行なわれた。参加者は関東、東京、西東京、神奈川、四国の各教区から計13名。
この企画は、今年度、四国教区にカルト問題対策委員会が設立されたばかりであり、委員に相談未経験者もいたため、対応の基礎的な知識とカルト宗教に関する最新情報を共有することを目的として立てられた。
初日は、2名の発題により、カルトからの脱会カウンセリングにあたっての基礎的な学びを行った。教団はこれまで「現地主義」を原則として、相談者に最も近い教会が、相談にあたることとされていた。しかし、カルトに関する知識や、この問題に対する姿勢に差があったように思われる。時間も労力も要する事柄であるが、一人で問題を背負うのではなく、協力体制を作り、情報交換、連携をとりながら取り組んでいくこと、また、脱会させるのは相談を受けた者ではなく、その家族にかかっていることが教えられた。そして、脱会がゴールではなく、本人や周囲は傷ついているため、その癒しも考えていかなければならないことを示された。
2日目は、現在勢いを増している「新天地(新天地イエス教証しの幕屋聖殿)」についての情報を共有した。この団体は、既存の教会に熱心な信徒を装った若者を送り込み、その信徒がやがて役員となり、従来の役員を入れ替えたり、牧師を追い出したりして、教会ごと新天地の教会に変えてしまういわゆる「乗っ取りタイプ」のカルトである。この団体は、時間をかけてでも計画的に教会の信徒や財産を奪っていくものであり、注意が必要である。
諸教会においてはカルト問題を単なる社会問題として扱うのではなく、自分の教会にもいつ入り込んでくるかわからない、教会の信仰の問題でもあることを覚えて対策を考えて欲しい。
長年カルト問題に中心的に関わっている方々を迎え、貴重な体験談も交え、四国教区として大変有意義な研修会となった。
(四国教区社会部報)
澄田健一郎氏(隠退教師)
14年10月5日逝去、95歳。島根県に生まれる。45年に日本東部神学校を卒業、47年より石見益田、蒲生、洛陽教会を経て、09年に隠退。
遺族は妻・澄田輝子さん。
鷲見昌太郎氏(隠退教師)
14年11月6日逝去、91歳。岡山県に生まれる。68年に受允、同年より富士見町、十文字平和教会に赴任し、72年に受按。八丈島中之郷教会を経て、07年に隠退。
遺族は妻・鷲見セツ子さん。
片山義明氏(隠退教師)
14年12月13日逝去、90歳。岡山県に生まれる。61年に日本聖書神学校を卒業、同年より用瀬、軽井沢、八雲、原町、飯能教会を経て、86年に隠退。
中路治代氏(隠退教師)
14年12月30日逝去、69歳。京都府に生まれる。79年に受允、84年に受按。79年より竹見台善隣館(現千里聖愛)、夜久野教会を経て12年に隠退。
遺族は弟・中島淑厚さん。
志村信夫氏(隠退教師)
15年1月10日逝去、84歳。東京都に生まれる。54年に日本基督教神学専門学校を卒業、同年より須崎、上富坂、高松、金城、松阪教会を経て、98年に隠退。
遺族は妻・志村澄江さん。
村上五男氏(隠退教師)
15年1月13日逝去、95歳。大阪府に生まれる。42年に関西学院神学部を卒業、49年より若狭野、川内教会を経て86年に隠退。
遺族は娘・村上恵子さん。
鴻池雅夫氏(隠退教師)
15年1月21日逝去、83歳。大阪府に生まれる。54年に日本聖書神学校を卒業、同年より八丈島、南住吉、鶴岡教会を経て87年に隠退。
遺族は妻・鴻池睦子さん。
千木良勝己氏(隠退教師)
15年1月17日逝去、71歳。群馬県に生まれる。73年に東京聖書学校を卒業、同年より泉町、丸の内、津山城西、都農教会を経て12年に隠退。
遺族は妻・千木良弘子さん。
「街で出会う少女たちの多くは大変魅力的に見え、わたくしは彼女たちと話し合えるようになりたいと切に願っております。わたくしは、当地にありますことに、またこの小暗い国に福音の光を与えるために何かをなし得ようという望みの故に、深い感謝を捧げるものでございます」(1873年4月12日附タルカット書簡第313号)。
1873年3月31日、2人の女性が神戸の地に降り立ったMiss Eliza Talcottと Miss Julia E1izabeth Dudley、この2人がのちに神戸女学院を創立する。2人は、アメリカのボストンに本部のある海外伝道団体 American Board of Commissioners for Foreign Missions(通称アメリカンボード)から派遣された初の独身婦人宣教師であった。
冒頭の手紙はタルカットが日本から初めて本部へ出した報告書簡の一節である。彼女たちは日本女性へのキリスト教宣教の使命を胸にこの地にやってきたのである。2人はこの年秋に、早くも私塾を開く。日本人たちが「外国語だけで聖書を読めるようになることを願って」(1874年5月16日附タルカット書簡第315号)、小さな私塾を運営する傍ら、2人は各地に伝道のため赴いている。タルカットは播州へ。ダッドレーは三田へ。
「必ずやこの国は、まもなく、たくさんの子女を『主の道』における指導者や教師として擁することになりましょう。わたくしが三田から戻りましたとき、2、3の母親がわたくしに申しました『自分たちの娘たちをあなたに連れて行ってもらいたい、そして自分たちにできるよりもよく、娘たちを教え導いてほしい』と。また、該地滞在中、日に2度会っておりました少女たちは泣いて、わたくしについて来ようとさえいたしました」(1874年6月20日附ダッドレー書簡第71号)。
ダッドレーの三田伝道の成功が、神戸に女子のための寄宿学校を正式に開校するための後押しとなった。1875年10月12日、「少女たちが一層直接的な感化に与れますようなホーム」(同上)、「女学校」が誕生する。「単に宗教教育のみではなく、彼女たちが他の人々の教師となってやってゆけますような、世俗の訓練をも受けられる学校として」(タルカット書簡第315号)。
学校は順調に発展する。しかしタルカットもダッドレーも学校だけにこもっていたわけではない。積極的に家庭訪問や伝道を行なった。
「わたくしは学校の重要性を無視するつもりはございませんが、しかしながら、全く学校に参りませんでも、わたくしの時間を全て費やして余りあるほどの仕事を見い出し得るのでございます。時には本当に、家庭の婦人たちの間での活動が有望なものですから、わたくしがより広い視野に立ち、わたくし共の仕事は将来どれほど多くこの少女たちのお蔭を蒙ることになりますかを実感いたしませんと、学校での仕事にはほとんど満足を感じさせられなくなります」(1874年12月1日附タルカット書簡第316号)。
創立から5年後、遂に創立者たちは学校を後任に譲って、市井の伝道に専念する決意を固める。1880年、タルカットは岡山伝道区に移り、以後、休暇帰米をはさんで、鳥取、京都など日本各地で宣教活動を続ける。岡山では石井十次の岡山孤児院設立に影響を与え、 京都では京都看病婦学校において宗教教育を受け持ち、濃尾大地震の際には被災地救援の ボランティア活動に従事、広島では病院訪問伝道を行ない、「日本のナイチンゲール」と 称された。
晩年は元同僚のダッドレーが開校した神戸女子神学校を拠点に宣教に尽力した。人々の求めに応じて救援に向かう姿を他の宣教師たちは「Emergency Evangelist of the Mission」と呼んだという。
もう一人の創立者ダッドレーは、女子伝道者養成の必要性を強く感じていた。
「わたくし共が、わたくし共の手に余ることをしてくれる婦人たちを養成するクラスの必要を感じております旨、アッキンソン氏が御報告申し上げました。婦人たちのために働いてまいりました。わたくし共はこれまで、各人にこの活動に対する自分たち自身の責任を感じてもらおうと努力いたしましたし、婦人たちは立派にやってまいりました。けれどもこういうやり方では応じきれないほど大きな需要がございます」(1880年8月30日附ダッドレー書簡第77号)。
そこで女子聖書学校(のちの神戸女子神学校)を1880年に創立し、宣教師を引退、帰米するまで後進の指導に努めた。2人が最後に拠点としていた神戸女子神学校は優秀な女子伝道者を世に送り、日本のキリスト教伝道に貢献した。
一方、2人の去った女学校は発展を続け、日本における女子高等教育の実現をめざして神戸女学院(Kobe College)になっていく。
2代目校長となったMiss Virginia A1zade C1arksonは神戸の女学校の方向性の舵を、宗教学校から教育機関へと切った。そして、3代目校長・院長Miss Emily Maria Brownと4代目院長Miss Susan Annette Searleは女学校を、女子高等教育機関へと育て上げ、5代目院長Miss Charlotte Burgis DeForestが完成させ た。
今、神戸女学院には婦人宣教師はいないが、これら歴代婦人宣教師の志が今日に引き継がれている。(Kyodan Newsletterより)
1975年、大学卒業後千葉YMCAに就職し、現在までYMCA一筋である。
大学3年の終わりに、YMCAの活動に参加していた後輩が学内の掲示板に張った張り紙を見た同級生に誘われて、初めてYMCAの活動に参加した。翌年の夏にはYMCAへの就職を決断した。体育教師を目指し学んでいたはずが、YMCAでの活動により魅力を感じるようになり、電光石火の決断であったと振り返る。
就職一年目に、当時の総主事に誘われて、初めて教会の門をくぐった。日曜日に仕事があることも多く、すぐに教会に定着とはいかなかったが、ある牧師とある女性との出会いによって本格的に教会生活が始まり、3年後に迷うことなく受洗した。YMCAで働く者が洗礼を受けることはごくごく当たり前、そんな思いだった。
ひと夏に5~6回YMCA主催のキャンプに参加するということもあったほど、教会の活動よりもまだまだYMCAの活動の比重が大きいという時期もあったが、教会歴が長くなっていくにつれ、生活における教会の比重が大きくなっていく。教会育ちの伴侶を得、教会付属の幼稚園へ子どもを入園させ、教会学校教師や、教会役員等の奉仕を担うようになっていく。気づくと、キリスト者としてYMCAの活動を担っているという自覚が与えられていた。
現在、東京YMCAの正職員のクリスチャンの割合は約半数と、他の地域のYMCAのそれよりは恵まれている数字かもしれないが、これでもまだまだ足らないと考えており、自分が先輩たちから言われていた、日曜日の教会での礼拝には積極的に出席すること、そのことを職員にはこれからもしっかりアピールしたいと考えている。
そのためにも教会との具体的な連携が不可欠であり、そのことによって、教会も、YMCAも更に元気になるはず、そう信じている。
1952年埼玉県出身。滝野川教会員。東京YMCA総主事。
2014年11月30日カトリック教会・日本聖公会・日本福音ルーテル教会合同礼拝に招待された。
2000年の教会の歴史の中で、20世紀は「エキュメニカルの世紀」と呼ばれ、カトリックにおいては1964年に「エキュメニカルに関する教令」が出された。その教令には「相手を理解するより『断罪』しようとする姿勢が先行した過去の失敗を反省し、キリストの福音に忠実な教会形成に向かって踏み出す決意を示し、ローマ・カトリック教会として、その方針を詳述する」と記されている。このエキュメニズム教令50周年を記念して「カトリック教会・日本聖公会・日本福音ルーテル教会合同礼拝」が東京カテドラル関口教会・聖マリア大聖堂で献げられた。
3つの教会は粘り強く対話を重ねて来た。合同礼拝に先立ってシンポジウムが開催されたが、パネラーから「違いを指摘しあったら対話は一日で終わる。しかし、どこが同じかということを確認しあって議論したから今日まで対話をなし続けることができた」と述べ、その結果が報告された。ニケア・コンスタンチノーブル信条を確認し、洗礼の相互承認がなされた。
カトリックが中心の合同礼拝は感動した。なお大きな違いがあったとしても一つ思いになって礼拝を献げることができる。この礼拝から一致の道が開かれていく。礼拝の最後の所で「ニケア・コンスタンチノーブル信条」(カトリック口語版)を告白した時、感動し心が熱くなった。(教団総会議長 石橋秀雄)
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2025
The United Church of Christ in Japan






