東京教区・西東京教区教会幼稚園連合会は、旧東京教区時代から、年2回、研修会を行ってきた。
ここ数年は、夏に教師向けの研修会、秋ないし冬に園長・設置者向けの研修会を行っている。もともとは年2回、教師向けの研修会を行ってきたが、昨今の幼稚園を取り巻く状況の変化(具体的には子ども・子育て支援新制度)から必要に迫られ、園長・設置者、また教会役員などを対象にした研修を行うようになった。
去る1月13日、キリスト教会館会議室にて行われた園長・設置者研修会は、他教区からの幼稚園を含む25の教会幼稚園から38名の参加を得て、開催された。
講師は深井智朗氏(金城学院大学教授)、また、発題を久下彰氏(代田教会員・代田幼稚園園長補佐)が担当した。
深井氏は、金城学院大学の草創期を支えたエラ・ヒューストン宣教師の経験を通して、マシューズの教育論に触れつつ、「識別し、見分け、決断する知恵と題して講演した。教会幼稚園がどこに立って教育をなし、どこに視点を見定めて今を歩むかを示唆した。
一方、久下氏の発題は、認定子ども園にならないという決断をした代田教会、また幼稚園が、どのような経緯でその決断をしたかを語った。その中で、地域的な事情など外的要因よりも、園の教育方針を確認したときに、現在の設置形態を堅持することが、教会また幼稚園のあり方であるとの結論に至ったとした。
講演・発題後もフロアから質疑を含め、活発な発言があり、課題を共有した。
新制度をめぐる各教会、幼稚園の判断について、連合会が何かの方向性を示す立場ではない。
しかし、教会幼稚園が、今まで培ってきた働きを確認し、それぞれの召しに進むために必要な情報は共有し、主のご委託に、共に応え続けていけるように祈り合っていきたいと思っている。
(岸憲秀報)
泉 隆氏(隠退教師)
13年1月7日逝去、87歳。東京都に生まれる。51年日本基督教神学専門学校卒業、同年九十九里教会に赴任、木更津教会、大貫教会、明治学院高校を経て、87年より96年まで明治学院大学に務め、08年隠退した。
遺族は、妻・泉千代子さん。
田中保夫氏(隠退教師)
13年12月8日逝去、84歳。福島県に生まれる。59年日本聖書神学校を卒業、同年猪苗代教会に赴任、70年より10年まで清和伝道所を牧会し、隠退した。
遺族は、妻・田中偕恵さん。
1861年11月、神奈川に上陸した宣教師ジェームズ・H・バラは、7年間の横浜生活をする中で、女性の教育が充分になされていない現実や、日本女性と外国人との間に生まれた子どもたちが、周囲から軽蔑され疎外され、物乞いや放浪している哀れな姿を見た。そこでJ・バラは米国のキリスト教関係の団体に、子どもたちの救済と女子教育を強く訴えて、女性宣教師の日本派遣を熱心に要請した。
その要請に応じたのがWUMS(The Woman’s Union Missionary Society of America for Heathen Lands 米国婦人一致外国伝道協会・女性のための女性のミッション)であり、3人の女性宣教師がその要請に応えたのだった。プラインは「キリストが私を呼んでいる(召命=calling)」、ピアソンは「我、もし死ぬべくば、死ぬべし」(エステル記4章16節)、クロスビーは「全身全霊を注いで、主が命じられた仕事(使命=mission)につくため」との思いであったという。
横浜に到着した3人は、とりあえず山手のホテルで準備をすることにした。3人は家探しをしていたが、気に入った家はなく、バラの持ち家である山手の四八番館を借り、1871年8月28日、「アメリカン・ミッション・ホーム」が正式に開設された。
リーダーのプラインは51歳、総理として、経営と塾舎の取り締まりをする。ピアソン39歳、校長兼教授。クロスビーは38歳、会計事務兼教授を担当する。このように事務分担が定まり、3人は心を合わせてよいホームを作ろうと努力した。
しかし、開設してもしばらくの間は日本の少女はほとんど来なかったが、どうして来ないのかわからなかった。1871年当時、日本では全国至る所の高札所に「切支丹宗門堅く禁制の事」という制札が掲げられていたので、日本の子どもたちが来るはずはなかった。
1871年10月、当時の漢学者・文学博士として有名な中村正直(敬宇)が、ミッション・ホームに宿泊した。
正直は、ホームの3人の米国女性が日本人には見られないしっかりとした躾をし、愛情を注いで幼児の世話をしているのを直接に見た。また、3人から話を聞いて非常に感動して、我が国最初の「生徒募集・入学案内」の一文を書いて、ミッション・ホームを社会に紹介した。
『この教授所は米国婦人伝道会社が作ったもので、3人の米国人女教師が、日本人、外国人の差別なく子どもを預かって養育してくれる。通学でも寄宿でもどちらでもよい。3歳以下の子どもは引き受けないことになっているが、母親のいない子は引き受ける。寮費と授業料は月10ドルから15ドル、通学生は月4ドル。女教師はみな親切で、大変子どもを愛してくれるから、家で育てるよりもよい。』
1872年、生徒数が増加したため、プラインたちは広い建物と敷地を探した。山手212番の建物と敷地であった。横浜の最も魅力的な角地の広い土地、裏側にあたる北東にはS・R・ブラウンの邸宅があった。西側は崖で、その先は日本人が住んでいた。3人の女性宣教師は将来を見通し、勝れた先見性と決断力でこの土地を得たのである。現在横浜共立学園が建っている土地である。3人の女性宣教師は、広い敷地に次々と校舎を新築した。
当時外国人の多い港町横浜の人口は6万人余に増え、活気に満ちていた。積極性のある横浜商人が多く、女子にも英語を勉強させよう、学問させよう、という気持ちが強かった。3人の女性宣教師の来日の目的である日本女子教育は時宜に適したものであった。ホームの入学希望者が多くなってきた。
プラインらは、英語教育を通して伝道し、日本の女性たちに新しい文明、新しい教育の光をあてようとした。 入学した生徒たちは今まで知らなかった自由な明るい雰囲気、規則正しい生活、西洋流の礼儀作法、キリスト教からくる高い道徳を、先生がたから身をもって教えられた。自立の精神が知らず知らずのうちに養われた。
ミッション・ホームの日本の正式な名称は「日本婦女英学校」であったが、1875年ごろ「共立女学校」と改称した。「共立」はUNIONの日本語訳であり、超教派のキリスト教学校として現在に至っている。英語と音楽の盛んなことはその当時からどの学校より数段勝れていたと言われている。
日本におけるバイブルウーマンの養成機関の草分けの一つはWUMSによって、1881年にミッション・ホームのある横浜山手212番地内に開設された偕成伝道女学校、後の共立女子神学校である。ピアソンは伝道の働きに専心するため共立女学校校長を辞任したい旨を申し出ていたが、適任者がいないためにしばらく両校兼務ということになった。ピアソンの人柄、伝道への熱い思いが、偕成伝道女学校を作らせ、伝道基地の設置へと伝道の働きを推し進めていったことは確かである。
ピアソンは、1891(明治24)年に共立女学校をブルックハート(Harriet.I.Bruckhart)に委ねて偕成伝道女学校に専念する。彼女はそれまで以上にバイブルウーマンの養成と直接伝道に力を注ぎ、偕成伝道女学校の働きも充実していった。
その後1907年に偕成伝道女学校を共立女子神学校と改称し、さらに1943年共立女子神学校は日本女子神学校へ合同し、多くの女性牧師を排出することとなった。戦後再開された共立女子神学校は、現在の東京基督教学園に継続されている。
(教団ニュースレターより)
飯田さつきさんは、両親の血筋から、それぞれ大きなものを継承している。
母方の曾祖父、丹羽源一郎牧師は、開拓伝道で能代教会を立ち上げ、祖母は、伝道師として牧師を助け、「いのちの電話」の創設に関わった。祖母の2人の弟、1人の姪が牧師となった。母は教会のオルガニストを務めている。当然のように、さつきさんは、物心つかないうちから、母に連れられて、阿佐谷東教会のCSで育ち、「神様によって変えられた同世代の子に出会って」恵泉女学園の高2の冬、受洗した。大学生になって以来、CS教師を務めている。
父方の祖父はベーシスト、父はジャズスクールの学院長で、父方の血筋で言えば、さつきさんは、ジャズ家系3代目に当たる。さつきさんは3歳から、ピアノ教師の母によりクラシック・ピアノを学んだが、音楽的には、父方のジャズに心を揺さぶられるようになった。14歳から本格的に、ジャズ・ヴォーカルを学び始め、大学生時代から都内のLIVEハウスに出演を始めた。
07年、新人ジャズ・コンテストでグランプリを受賞。09年には渡米して短期間だったが、ボストンのバークリー・カレッジで学び、ハーレムのLIVEにも出演。翌10年、日本ジャズヴォーカル賞の新人賞を受賞した。初アルバムを11年にリリースしたが、後に11年度ディスク・グランプリ35作品の1つに選ばれ、韓国公演も行った。
教会には、クラシックで活躍する人材は多数いるが、ジャズ界では珍しく、ジャズのスタンダードを歌うCS教師のジャズ界の新星ということが、少しずつ知られるようになって、一昨年、熊本YMCAの市民クリスマスコンサートに呼ばれ、本年1月、北海教区年頭修養会で子どもプログラムの講師を務めた。CS教師を務めながら、歌手としてLIVE出演、ジャズ・スクールの教師と、多忙な日々を送っている。
東京生まれ。恵泉女学園、東海大学社会福祉学科卒。阿佐谷東教会員。
伝道キャラバンで用瀬教会を訪問した。「わたしたちは週4日教会に来ています。女性信徒がお昼を作ってくれて牧師館の台所で食事をしています」と話して下さり、牧師館を案内してくださった。
牧師館に上がるように言われて戸惑った。この教会の牧師は葉以潔先生で、中国出身の女性牧師だからだ。お昼に皆で食事をする台所のみならず、居間や寝室兼書斎まで案内されて驚いた。見事に整理されている。葉牧師が着任後、平屋の家付きの土地150坪を購入、この家が新牧師館として信徒たちの力で見事にリフォームがなされた。
葉牧師は中国上海の家の教会の出身だ。祖母は100歳で召された。伝道熱心で、葉牧師のために祈り続けられたが、天に召された。尊敬する祖母の教えは「清貧」。この教えを固く守る葉牧師の生き方に教会員のみならず地域社会でも感動と尊敬を集めていると聞かされた。「葉牧師が全てを献げて教会に仕えている。だから自分たちも財と奉仕を惜しまない」と、週4日教会に来て奉仕し、主の恵みを受けて熱く信仰生活をする信徒の群れだ。葉牧師から日曜日から土曜日まで毎日朝、御言葉が配信され、その御言葉を聞いて信徒の一日の生活が始まるという。
葉牧師が赴任して4年間に17名が受洗、教会の土地は300坪に広がり、納骨堂も建てた。人口4300人の山に囲まれた用瀬町に御言葉の力で教会が成長している姿を見て感動した。
(教団総会議長 石橋秀雄)
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