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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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マルコによる福音書3・31~35

2013年4月22日

3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

2013年4月21日

11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

2013年4月20日

「仙台エマオ」シニア世代のボランティアを

昨年、神学校の卒業期に、被災者支援センター、「仙台エマオ」の教団派遣専従者の口が掛かった。「小さな教会の牧師になろうと思っていたので、悩みに悩んだ」そうだが、夫人から、「神様が呼んでくれている」と励まされて決断した。
以来、主日は担任教師として教会で、平日は仙台エマオで、ボランティアのコーディネーター、ニューズ・レター、メール・マガジンの作成、教会・大学回り、ドライバー役と、八面六ぴの活躍をしている。
大震災後最初の1年は、担当者が次々と交代し、佐藤さんが初の教団派遣専従者となった。
「もう農業を諦めていたが、泥まみれになって働く若者を見て、もう1度農業をする気になった」と話すお年寄りが何人も現れたそうだし、七郷・笹屋敷地区では、佐藤さんが、町内会に出席を求められるようになった。仙台エマオの活動が、地域の人たちに欠かせない存在になったことを示している。
ボランティアの登録者は3500人。2年目の1年間に1200人が奉仕した。仙台エマオでは、1日60人から70人、夏場には最大100人が、幾つかの教会に分宿し、夏には会堂の長椅子も利用する。
ボランティアも3年目に入り、作業の質も変わりつつある。「仙台では、力仕事が少しずつ減って、食事づくり、独居老人の話相手が足りない。シニア世代のボランティアを」と佐藤さん。
「教会とは無縁で、祈ろうともしなかった若者が、みな輪になって頭を垂れてくれる」と、佐藤さんもボランティアの世話をしていて祈りの重要さを改めて学んだ。
ボランティアから受洗者が生まれ、献身者も誕生した。
「仮設住宅で、身体不自由者、貧困者が取り残されて行く。こうした人たちにどう寄り添うことが出来るのか。どうか教会での祈りに覚えて下さい」と佐藤さんは願っている。

1980年埼玉県生まれ。農村伝道神学校卒。2012年4月、教団派遣専従者・いずみ愛泉教会担任。

遺愛は2011年1月に創基137周年を迎えた北海道で最も長い伝統をもつ女子中学高校である。
創基に関わったM・C・ハリス夫妻が米国メソジスト監督教会から伝道のために日本に派遣され、函館に到着したのが1874年1月26日であった。ハリス夫人はすぐに子女を集め『日々学校』を始め、英語や聖書、裁縫、作法などを教えた。最初の生徒は5人であったが、ハリス夫人にとってはこの5人の生徒を得たことは生涯忘れることのできない歓びの一つだった。
『日々学校』の生徒たちは、その後、M・C・ハリスの開いた私塾『愛育学校』で学んだ。ハリス夫人は平常教育は行っていたものの不十分と考え、寮つきの正式な女学校を作りたいと願い、祈り、アメリカメソジスト監督教会の婦人外国宣教協会(WFMS)の『Heathen Woman’s Friend』という機関誌に寄稿した。
その文章が当時、愛娘を病気で失い悲しみのなかにあったカロライン・ライト夫人の心を動かした。夫人はドイツ駐在アメリカ公使夫人としてドイツに住んでいたが、アメリカに残してきた子どもの1人が重病になり、危篤の知らせを受けた。驚いた夫人はせめて、1日でも看病したいと祈りつつ帰国した。病床にあった娘も、母に一目会いたいと祈っていた。この祈りがかなえられ数日看病することができ、母の手のなかで感謝しつつ召された。
ライト夫人は主の深い恩寵に応えるために、何か奉仕をしたいと考えていた時に、ハリス夫人の一文を読み、娘と同じ年齢で教育を受けられないでいる異国の少女のために尽くすことこそ、その使命であると考えた。それまで蓄えていた愛娘のための教育資金と編み物や刺繍をおこない教会バザーで販売した益金、信仰の友への呼びかけで集まった献金をあわせて1800ドルを、函館の女子教育のために献げた。
1878年10月教育宣教師としてプリーストが函館に派遣された。1879年12名の生徒で学校を開設するが、同年12月6日の大火で教会と校舎が焼失した。プリーストは自分の寝室で授業を継続したが、大火のショックが大きかったのだろうか、健康をそこない1880年春に帰国した。
しかしついに祈りがかなえられ、1882年2月1日に文部省認可の女学校「カロライン・ライト・メモリアルスクール」が設立された。初代の校長はウッズワースであった。最初の入学生は6名であったが、9月には寄宿生16名と数人の通学生を数えるようになった。
当初、学校名は『カロライン・ライト・メモリアル・スクール』だったが、当時は横文字が受け入れられにくく生徒が集まらないので開校3年目に、『遺愛女学校』と校名変更をした。
初代校長のウッズワースが結婚のために1年で日本を離れたため、代わりに第2代校長にハンプトンが就任した。ハンプトンは在校生にとっては優しく包み込む母親のような存在であったが、校長になった当時、学校の整備に生徒募集に相当苦労をした。函館の一般家庭を回ったり、弘前にも出かけていった。とても忙しく、助け手をアメリカに求めたところ、1883年にハミスファー宣教師(医師でもあった)が派遣された。ハミスファーは北海道で最初の女医であり、朝6時から函館の人々のために診療をし、合間に遺愛の生徒に教え、函館師範学校でも毎日1時間英語を教えた。1887年にはハンプトンの努力のかいもあり、生徒数は94名になった。この年、ヒューエットが第3代校長となり、ハンプトンは一時帰米するが、1888年に再来日し弘前遺愛女学校に赴任するが、また遺愛に復帰する。その後、第4代校長デカルソンを助けながら、現在のキャンパス、遺愛の校舎および元町幼稚園の整備に貢献し、34年間、遺愛の教育に身を捧げた。
遺愛の教育の基盤をつくり、奉仕の伝統をつくったのは第4代校長のオーガスタ・デカルソンと言っていいであろう。デカルソンは1890年(明治23年)に校長に就任し、1891年予備科、翌年に小学校をつくり、1895年に幼稚園を併設した。また弘前に姉妹校の「来徳女学校」ができ、出張し指導にあたっていた。遺愛では35年間校長職を務め、『信仰・犠牲・奉仕』を遺愛の校訓として位置づけたのはデカルソンであった。デカルソンは寮生を中心に王女会を組織し、教会の日曜学校を手助けするとともに、貧民救済、病人慰問、幼児教育のために生徒とともに奉仕をしていた。
1918年には、草花をもって病院訪問、編み物、袋物、刺繍細工などで得たお金をロシア革命の混乱のなかにあったシベリアの子供のために送金していた。1923年の関東大震災にあたっては、教職員・生徒の働きで衣類・肌着などを製作・寄贈し、献金を送り、また1925年には朝鮮半島の水害に衣類と附属品を送っていた。
デカルソンについては、函館盲学校・聾学校との関わりについて注目される。函館盲学校・聾学校の前身である訓盲院は1895年にメソジスト教会のシャーロッテ・ピンクニー・ドレーパーが設立したが、デカルソンは設立当初より財政的な支援、授業も担当し、訓盲院を支えた。一時期は遺愛がその経営母体になった時期があり、遺愛の卒業生が教師になっていた。
現在、卒業生を2万3591人輩出しているが、『信仰・犠牲・奉仕』を身をもって示した初期の宣教師達の精神が、今も確かに継承されている。
-Kyodan Newsletterより-


			

比嘉多恵子氏(隠退教師)
13年2月4日逝去、98歳。東京都に生まれる。’39年日本神学校を中退。’62年受允、’72年受按。’62年那覇中央教会に赴任、’84年まで牧会し、隠退した。遺族は義弟・比嘉盛二郎さん。

小国清子氏(休職教師)
13年2月13日逝去、90歳。香川県に生まれる。’54年日本聖書神学校を卒業。同年田園調布教会に赴任、香川豊島教会、香川直島伝道所を12年まで牧会し、休職した。遺族は甥・田中暉彦さん。

杉原 助氏(隠退教師)
13年2月26日逝去、85歳。岡山県に生まれる。’52年日本基督教神学専門学校を卒業。同年長府教会に赴任、岩国東教会、広島南部教会を経て安行教会を’97年まで牧会し、隠退した。遺族は娘・徳村葉子さん。

田島信之氏(無任所教師)
12年1年31日逝去、96歳。東京都に生まれる。’42年ユニオン神学校を卒業。’50年牛込払方町教会に赴任、青山学院を経て’75年より’80年まで弘前学院に勤めた。遺族は娘・小宮山喜枝子さん。

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