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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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使徒言行録17・22~34

2013年6月2日

17:22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
17:23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
17:24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
17:25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
17:26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
17:27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
17:28 皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。
17:29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
17:30 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
17:31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
17:32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
17:33 それで、パウロはその場を立ち去った。
17:34 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

2013年6月1日

4月2~4日、放射能汚染問題の現状を知るため、福島県内の教会等を見て回りました。
原町教会・原町聖愛保育園(南相馬市)では、教団が購入を支援した食品放射能測定器の利用状況を確認しました。空間放射線量の問題もさることながら、人が直接体内に摂り入れる食品(特に自家栽培や露地栽培の野菜など)の放射線量の不安が大きいこと、建物や土壌を除染しても、また違った場所で数値が高くなってしまっているなど、「除染」ではなく「移染」となっている現状等を知らされました。
また、会津放射能情報センター(会津若松市)では、原発事故のために避難して来ている方たちの生活の問題、家庭内や近所付き合い、また学校などの地域社会で、放射能汚染問題の受けとめ方の違いで、人と人との関わりにおいてきわめて複雑な思いが交錯している現状なども知らされました。放射能汚染の問題は「どれだけの健康被害があったのか?」ということ以前に、人々の故郷と生活、そして人間関係が損なわれてしまっている点にあると言えます。
震災で会堂を取り壊さざるを得なかった福島教会の祈祷会において、会員の方が「祈りの家を建てさせてください」と祈られました。その町に住む人々の間に、不安や恐れ、疑心暗鬼などさまざまな複雑で微妙な思いが行き交う中で、誰もが自分の思いを神さまに打ち明け、嘆き悲しむことのできる「祈りの家」である教会が建てられるようにと共に祈りを合わせました。
(教団総会書記 雲然俊美)

豊川さんは若い頃、クリスチャンの母親に勧められても、またキリスト教大学に入学しても、キリスト教に興味をもてなかった。しかしクリスチャンの女性、朋子さんとの出会いが転機となった。彼女の気を引く気持ちもあって越谷教会の礼拝に出席するようになり、その後めでたく二人は結婚した。
教会に通い出した当初は聖書の御言葉が全く理解できなかったが、石橋秀雄牧師による聖書の学びを通し、1987年ペンテコステに洗礼に導かれた。「私たちの人生は神によって創られ、どんな時もキリストが共にいてくださる。苦しみや悲しみの中にあってもそれで終わらない神が保証してくださる人生を知った」という。
同時に、教会に招いてくださったのは神ご自身であると気づかされ、伝道の大切さを知らされた。「私たちの出来る伝道とは、まず礼拝に出て喜びに満たされた生活をおくること。その姿こそ、人々を教会へ向かわせる動機になるのではないか。神さまに繋がっている喜びを一人でも多くの方に伝えられることを切に願っている」と語る。
そのことが豊川さんの奉仕の姿勢に現れている。教会では伝道委員長やインターネット委員会の委員長を務め、また埼玉地区では『地区月報』編集を担当、その発送は朋子さんが奉仕している。この『地区月報』企画を提案したのは豊川さん自身である。さらに地区ホームページも開設し、「血が通う地区」を願っている。実際、地区ホームページの教会紹介を通して、ある青年が受洗に導かれた時は大きな喜びであったと語る。
以前のIT企業勤務の経験により、人々に様々な情報を伝える働きが、奇しくも今は、教会に繋がる喜びを伝える働きとして主に用いられている。
豊川さんは「神さまがすべての人を神の国へ招くため、この小さき者を教会へ招き、用いてくださっていることを痛切に感じる」と語る。

東京生まれ、越谷教会員、 埼玉地区委員。

北陸初の女学校を創ったメリー・ヘッセルと最古の幼稚園を設けたフランシナ・ポーター
梅染 信夫(北陸学院史料室長)

日本の本州中央部、日本海側に位置する富山県、石川県、福井県が北陸地方である。
明治初期、この北陸3県のプロテスタント・キリスト教に最も大きな影響を与えたのは米国長老教会(The Northern Presbyterian Church in the U.S.A.)から派遣されて金沢に来た宣教師のトマス・C・ウィン(Thomas C. Winn)とその妻、婦人宣教師のイライザ・C・ウィン(Eliza C. Winn)である。
メリー・ヘッセル
トマスは開拓伝道に従事するかたわら、私立男子中学校を開設して教えた。またイライザは孤児院を開いたりしたが、この地方初の女学校の開設を発想した。
この2人が長老教会のミッション・ボードに申請して金沢にやって来たのが婦人宣教師のメリー・ヘッセル(Mary K. Hesser、ドイツ語風にこう呼ばれた)である。
メリーは1853年、ペンシルベニア州エリー(Erie, Pennsylvania)に生まれた。父母はドイツ系移民のカトリックで、彼女はカトリックの教区学校とフリー・スクール(free school)で学んだ後、ドレス・メーキングをしていたが、25歳のときに、ウエスタン女子セミナリー(Western Female Seminary)に入学、82年に卒業し、校長の勧めによって婦人宣教師となって来日し、金沢に来た。
彼女が創設した金沢女学校は1885年4月に開校し、最初は先進的な教育を受けさせたいと願う親の子女が20数名集まったが、徐々に一般に知られるようになり、校舎の増改築を余儀なくされるほどに発展した。
しかしメリー・ヘッセルの学校経営は苦難の連続であった。すなわち、その頃から進められた教育の国家統制の強まり、これによる聖書の使用禁止、また良い教師が得られないこと、さらに一般の人々の無理解ややっかみがあった。
しかし彼女はカトリックからプロテスタントに転向した「信仰の人・祈りの人」であった。
彼女は「主を畏れることは知恵の初め」(詩編111・10)という聖句を学校標語に掲げ、新しい時代に働く女性の育成に力を尽くした。彼女は母校のセミナリーから2人の後輩を送ってもらい、教育課程を改定したり、校名や制度を改定するなどして教育の充実を図った。
このようにしてメリー・ヘッセルは北陸学院の創立者となり、その基礎を築いたが、その体は激務に耐え得ず、1894年カリフォルニアで天に召された。41歳の若さであった。
フランシナ・ポーター
上記のメリー・ヘッセルの金沢女学校の創設に触発されて、北陸地方初の幼稚園と私立小学校を創設したのがフランシナ・ポーター(Francina C. Porter)である。
フランシナは1859年、テネシー州のライスヴィル(Riceville)に生まれ、テネシー州メリーヴィル・カレッジ(Merriville College, Tennessee)で英語学を専攻し、1882年に卒業して米国長老教会婦人宣教師となり、同じ教会の宣教師として1年前に来日し金沢に来ていた兄が校長をしていた学校で英語を教えた。
彼女は最初、幼稚園と小学校を含む「子供の学校」(Children’s School)の開設を目指した。
当時、北陸には幼稚園も私立の小学校もなかった。彼女はトマス・ウィンの紹介で東京の桜
井女学校にマリア・ツルー(Maria True)を訪ね、協力を頼んだ。ツルーは帰米し、幼児教育の専門家エリザベス・ミリケン(Elizabeth P. Milliken)を見出した。ミリケンは来日し、桜井女学校幼稚保育科の科長となった。
フランシナは名古屋の吉田エツという女性に会い、1年間幼稚保育科で学ばせ、英和幼稚園の保母主任とし、1886年に英和幼稚園が発足した。
小学校の方は、金沢教会に小学校の教師がいたことから、彼を中心にして、同じ年に英和小学校が発足した。
当時、日本における幼児教育理論は未成熟であり、適当な教科書がなく、キリスト者の教師が得られず、校舎が増改築を要するなど、困難が重なった。その上、幼稚園、小学校ともに、「キリスト教教育の危機という嵐」の只中におかれていた。
フランシナはその強固な意志と努力によって、全国でも類例の少ない幼児教育という難事業に取り組んだが、国家統制の力の前に、英和小学校は1903年廃校の止むなきに至った。
カリフォルニアで病気療養中であったフランシナはこれを聞いて一晩中泣き明かしたと伝えられる。
英和幼稚園の方はフランシナや彼女の後継者たちの知恵と尽力とによって今日まで存続し、現存するわが国最古のキリスト教幼稚園として先進的幼稚園教育を進めている。
病気癒えたフランシナ・ポーターは再来日し、京都に新しい幼稚園を開設するなど日本の幼児教育に尽くしたが、1939年カリフォルニアで天に召された。享年79であった。
-Kyodan Newsletterより-

中村德枝氏(隠退教師)
12年12年27日逝去、86歳。東京都に生まれる。’67年日本聖書神学校を卒業。同年小石川白山教会に赴任、溝ノ口教会、鈴鹿教会、豊橋東田教会、聖和教会を経て、成東伝道所を’93年まで牧会し、’96年に隠退した。遺族は姉・岡田福子さん。

矢島信一氏(無任所教師)
13年3年25日逝去、80歳。広島県に生まれる。’59年同志社大学大学院を修了。甲南教会に赴任、芦別教会、北海道クリスチャンセンター、北星学園女子中学・高等学校校長・聖書科講師を務め、手稲はこぶね教会、月寒教会を経て、札幌北部教会代務を03年まで務めた。遺族は妻・矢島満子さん。

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