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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4779・80号】教区活動連帯金検討委員会 規則に連帯金廃止明記を検討

2013年8月17日

第3回教区活動連帯金検討委員会は6月20日教団総幹事室において開かれた。
今回は、小林克哉伝道委員長に陪席を求め、関連事項を確認しながら協議した。
協議は多岐に亘って行われたが、中心は「伝道資金規則」の整備にあった。
一つ目は、「伝道資金規則案」の冒頭に、教区活動連帯金制度を廃止し、新たに「伝道資金」制度を設置する、と明記することについて詳細な検討、つまり、廃止に至る分かりやすい説明が必要であろうというもの。
二つ目は、新制度「伝道資金規則」の具体的執行に当たって、各教区、常議員会、予算決算委員会、伝道委員会等との関連についての協議である。
規則冒頭の「廃止」についてのポイントを挙げれば、「教区活動連帯金」が設置された当初の理念がその通りに受け継がれてこなかったことがある。更に名称が表明している「連帯」が自明のものでなくなったことなど、教団全体が抱える問題と接するものであった。
言葉を変えれば、教区活動連帯金は、機能しなくなったことを認めざるを得ないこと。拠って、教区活動連帯金を廃止し、新たな教団諸教会の形成を願い、「伝道資金規則」を制定しようとするものである。
二つ目の主題、新制度執行に際しての具体的な課題について、様々な角度から検討された。
その骨子としては、おおよそ次のような内容が盛られる。
⑴教規上の位置づけを明確にし、負担金化する。
⑵全教会経常収入総額の0.5%を現住陪餐会員数の比率により算出し、各教区に賦課する。
⑶各教区から納付された負担金は、予算決算委員会において、特別会計に移し、「伝道資金」として運用する。
⑷「伝道資金」は各教区からの申請により「伝道交付金」として交付する。
⑸教区からの申請については、伝道委員会において審査し、常議員会において決定される。
今後更にシミュレーションを重ね、教規上の位置づけを明確にし、各教区の理解促進に向けて整えることになる。
(鈴木功男報)

6月17日及び19日、天城山荘にて、第2回教師委員会を開催した。新任教師オリエンテーション前に、全体のプログラムと担当者を確認。新任教師にとって良い研修の時となるように祈りを合わせた。
伝道推進室企画による教師検定規定第3条6項による教師(いわゆるCコース)の研修について。この研修会は教師委員会主催ではないことを確認した。
戒規適用申立に関する件として、中部教区常置委員会からの報告がなされ、第62回中部教区総会における島しづ子教師の未受洗者への配餐の発言について、教区常置委員会の対応を教師委員会として見守ることとした。
2012年度の会計報告がなされ、牧会者共同研修委員会の設立の経緯を次回委員会までに調べることとした。
新任教師オリエンテーションのため、田邊由紀夫委員の祈祷を以ていったん会議を閉じ、終了後に委員会を再開。オリエンテーションの反省を行った。
2014年度新任教師オリエンテーションは、2014年6月16日から18日、場所は天城山荘で行うこととした。
神学校問安に関して、各神学校との日程調整を確認した。
願念望委員より「教団と神学校との関係」について発題があり、神学校問安の備えとして、委員会として学びの時を持った。
被災地教会問安について、第37総会期に引き続き、東北教区議長了解の下、福島県の諸教会を問安することにした。日程を2度にわけ、ゆっくりと被災地教師の声を聴けるように計画している。
教師名簿整理に関する件は、委員が3名入れ替わったこともあり、継続審議とした。
教師委員会が担う課題は多岐にわたり、それぞれに重い責任を負っている。主の助けを信じて取り組んでいる。覚えて祈って欲しい。
宇田真委員の祈祷を以て閉会した。
(吉澤永報)

6月17日から18日にかけて第38総会期第2回社会委員会が七尾教会にて開催された。会議の前後には、北陸は能登半島の教会・伝道所の訪問およびフィールドワークが行われた。
訪れた輪島教会、羽咋教会、富来伝道所、七尾教会はいずれも2007年3月25日に発生した能登半島地震で被災した教会・伝道所であるが、教会堂および関連諸施設の再建が果たされた姿を見ることとなった。当該教会の教師および信徒と共に、主の導きをおもい祈るひとときとなった。
震災当時の社会委員会による迅速な対応と支援の呼びかけ、それに端を発する各教区、教団からの支援に対する感謝の意が異口同音に聞かれたことは印象的であった。
フィールドワークとしては、就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律の一部を改正する法律の公布に伴う、制度変更の要点のレクチャーを受けた。
同時に、教会関連諸施設を訪問し、施設長、職員から今後の可能性と課題を現場の声として聞いた。
見学した施設は次のとおり。(学)羽咋白百合学院ゆりっこ児童クラブ、(学)羽咋白百合学院羽咋白百合幼稚園、(学)七尾学院七尾幼稚園、認定こども園福岡幼児学園〈(学)富山学院福岡幼稚園・(社福)坂ノ下福祉会福岡保育園〉。
北陸電力志賀原子力発電所30キロ圏内にある羽咋市の学校・幼稚園・保育所には、原子力災害時の放射線障害予防薬として安定ヨウ素剤が配布されている。しかし災害時、これを服用させるには羽咋市長による服用許可命令が必要となる。また、幼児に服用させるためには、錠剤の形態をとる安定ヨウ素剤を砕き、適量に分けなければならない。緊急時に有効なものとして機能するのか、子どものいのちをあずかり守る働き人の懸念は絶えない。
厳重に施錠された箱で管理されている安定ヨウ素剤の存在に原子力発電所隣接地域の緊張と、日本国全体で向き合わなければならない諸課題が垣間見られた。
(村上恵理也報)

ガラテヤの信徒への手紙2章20節

生きること、食べること

8月16日には、五山の送り火が終わりました。下旬には地蔵盆があります。日本では、夏は生と死とが交差する時期です。この時に生と死について考えてみましょう。
生きるということは食べることです。人はパンのみでは生きていませんが、パンなしでも生きられません。その意味では、生きているということは他のいのちを奪うことです。そのことを描写した詩があります。
「くらし」
石垣りん
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかつた。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばつている
にんじんのしつぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。
『石垣りん詩集 表札など』
(2000年 童話屋)

ごはん、野菜は植物ですからあまり命を奪ったという気がしないかもしれませんが、肉は牛や豚で、鶏であり、魚なのです。生きていた命を殺して、私たちは食卓へと運ばせているのです。その意味では、生きるということは他のいのちを奪うことです。
そして、食べ物だけでも生きられないわたしたちは、「親を、きょうだいを、師を」食うことにもなるのです。もちろん、「肉を」食うように人を食べるのではありませんが、誰かを犠牲にしているということです。
「ふくれた腹をかかえ」て、少し人生の余裕を持つことが出来て詩人は来し方を振り返ってみるのです。すると「台所に散らばつている……父のはらわた」が見えたといいます。父の心や魂を乱暴に扱ってきた自分の前半生が詩人には見えたのです。父だけではありません。「親を、きょうだいを、師を」もです。申し訳ないと涙を流しますが、「食わずには生きてこれなかつた」のです。詩人は、「ごめんなさい、もうしません」とは言えないのです。これからも、おそらく食べ続けなくては生きられないからです。だから、涙を流すのです。しかし、人の涙でなく、「獣の涙」を流すのです。生きることの罪をみごとに描いた詩です。

イエス・キリストの十字架

このいのちの定めゆえに、イエス・キリストは十字架に架かってくださったのです。私たちへの愛の行為です。この時から、すべてのものの死は、愛の行為となったのです。
私たちは生きるために、親や多くの人々の犠牲を必要としています。その犠牲が私への愛でできているなら、どうでしょう。私たちは、親の犠牲に気付かずに成長してきました。両親も犠牲とも思わず、子どもたちへの愛ゆえに喜んでなしたことなのです。
私たちはこの親をその愛ごと食べたのです。それゆえに、「獣の涙」を超えててゆくのです。私たちは、ビタミンを含む食物を食べて、ビタミンを摂取し、たんぱく質を含む食物を食べて、たんぱく質を自らのものにします。それなら、愛を食べれば、愛を摂取したのです。その愛を自らの血肉となして生きているのかという問いが涙となって目に溢れれば、その涙は、その愛に相応しい生き方を求める祈りになって神に向います。
同じように、多くの牛豚、魚も、愛ゆえに死んでくれたのではないでしょうか。イエス・キリストの十字架は、これらのいのちの中にも立てられているのです。私たちは、神の愛の中にいのちを営むものです。
犠牲になってくださった愛に応えたいという祈りによって、私たちのいのちも愛になるのです。
そのとき、私たちのいのちと化した他のいのちはわたしを通してこの世に再びその姿を現わすのです。

神の右に座すイエス・キリスト

しかも、死が生にただ吸収されるだけではありません。地でイエス・キリストが私たちの内でいのちとなってくださっているのと同時に、天で神の右に座しておられるのです。それなら、私たちのために死んでくださったものも、また、天において永遠のいのちになっているでしょう。
それは歴史においてもいえるのです。数えきれないほどのいのちが失われた太平洋戦争がお盆に終戦を迎えたのは偶然の一致ではありません。この平和がたくさんの死者の上に樹立されたものであることを私たちが忘れないためです。私たちへの神の配慮です。
太平洋戦争では、日本兵は170万人以上、民間人も35万人以上亡くなりました。中国では1700万人、ベトナム、ビルマなどの東南アジアでも民間人と兵士を合わせて1千万人を超える人々が死にました。日本の平和はこの犠牲の上に成立したのです。
この人々に思いを寄せるのが8月15日です。戦争で亡くなられた方々の一人一人の死を、キリスト者である私たちは、イエス・キリストの十字架とともに受け止めなければなりません。彼ら一人一人の死は間違いなく、私たちへの愛なのです。

キリストが内に生きておられる

ガラテヤの信徒への手紙2章20節は私たちが福音によって与えられた生き方を示します。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。
私たちは、死んでいったものたちによって、生かされています。そのことを教えてくださるのがイエス・キリストです。
キリストがわが内にいのちとなってくださっているのです。このキリストのいのちに甦るために、今までの生き方を葬らねばなりません。自我を葬り去り、キリストの沈黙の声に耳傾けるのです。
まさに、私の中の本当の私であるキリストに生き生きと活動して頂くのです。それは、愛そのものとなって、この世に自らを解き放つことです。
その時あなたは、私たちのために死んだものたちと同じく、他者のために、死んでいくものとなるでしょう。十字架のイエス・キリストのようになるのです。そして、キリストと共に甦るのです。そのように、永遠のいのちの道を歩んでゆきましょう。
(向日町教会牧師)


			

1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
1:11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
1:14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。
1:15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。
1:16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。
1:17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

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