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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4772・73号】教師検定委員会 13年秋季検定試験準備に着手

2013年5月4日

第38総会期第1回教師検定委員会が、3月25日~26日、教団会議室において、委員7名全員の出席によって行われた。
冒頭において長崎哲夫総幹事からの挨拶を受け、改めて教師検定委員会の任務の確認が、「教憲教規および諸規則」に基づいてなされた。そして試験時における委員のなすべき事項が確認され、おのおの主に託されたその使命の重さを受け止めなおした。
今総会期から新しく加わった2名の委員をはじめとして各委員の自己紹介を行い、その後、委員長、書記の選出が行われた。その結果、前総会期の書記であった渡部和使(名古屋北)が委員長として選出され、書記は鷹澤匠(信州)に決まった。
議事日程が確認されたあと、委員長から、前総会期の報告および前総会期からの申し送り事項が説明された。特に重要な事項については丁寧な議論が交わされた。それらを踏まえた上で、今総会期の委員会方針が議論された。
結果、「第32総会期第5回常議員会の議決をふまえ、和解の福音に根ざしつつ、合同教会としての日本基督教団の形成を担う教師を立てることをめざす」という一文が入った前総会期同様の方針が可決された。
その後、この委員会の責任のもとで行う4回(2年分)の教師検定試験の日程が検討された。事務局案に対して、多少の変更が加えられたが、ほぼ例年通りの日程となった。
そして早速、9月17日から行われる2013年秋季教師検定試験についての検討に入った。提出試験となる説教、釈義の聖書箇所が祈りつつ検討された。多くの候補の中から、正教師にはエレミヤ書とヨハネ福音書、補教師にはイザヤ書とコロサイ書の箇所が、それぞれ課せられることになった(詳細は、4月6日付の新報の公示にて)。続けて組織神学論文、神学論文、牧会学のテーマが議論され、それぞれ決められていった。さらに公示と要綱の文章が検討され、作成された。
最後の議事として、『教師検定受験の手引き』の見直しについての議論が行われた。これについては、各担当者を決め、次回委員会において検討されることが確認された。
二日にわたる委員会は、左近深恵子委員の祈祷をもって閉会した。
(鷹澤匠報)

3月19日、教団会議室にて、38総会期教団救援対策本部第2回(通算第20回)会議を開催した。
先ず、3月19日現在の国内募金総額が5億1188万1427円、海外からの献金が2億3377万1283円との報告がなされ、国内募金が5億円を超えたことを委員一同感謝した。
続いて救援対策室から、メモリアルマンス関連(各教区での震災2周年記念礼拝・集会実施など)、台湾基督長老教会関連(同議長来日報告、石橋秀雄議長訪問計画など)、救援対策本部会計等の報告がなされた。
被災教区からの報告として奥羽教区からは、千厩教会の会堂建築工事の状況(4月に完成引渡しの予定)、被災教会の再建に向けての検討状況、大震災2年を覚えての礼拝の実施(教区内6カ所、計337名出席)等が報告された。
東北教区からは、被災者支援センター関係(ボランティア登録状況、活動記録『エマオへの道』発行など)、建物復興計画の進捗状況、東北教区放射能問題支援対策室設置に向けての検討状況等の報告がなされた。
関東教区からは、被災支援委員会関連(ボランティア派遣、会堂再建支援、3・11記念礼拝開催、支援ニュース発行など)、及び被災教会の再建復興に向けての動き等の報告がなされた。
東京教区からは、安食教会が3月20日に献堂式を行う予定であることが報告された。
また、東日本大震災国際会議開催(2014年3月。仙台にて)に向けての準備状況の報告等もなされた。
審議事項においては、東北大学実践宗教学寄附講座の活動状況、課題と取り組み(同講座に関わる「臨床宗教師研修」における活動についての取材への対応など)に関して、川上直哉同講座運営委員長から詳細に報告がなされ、これを承認した。
続いて、救援対策本部の2013年度活動計画・予算案(継続事業分として総額1億2900万円)を承認したほか、常盤教会への支援・貸付と桐生東部教会への貸付を決定した。
その他、救援対策本部および救援対策室の構成員、救援対策担当職員の任用についての確認等を扱った。
次回会議は、4月1日、教団会議室にて開催する。
(雲然俊美報)

第1回委員会が3月20日教団B会議室で開催された。招集者である佐々木美知夫(静岡)の他、飯田敏勝(大曲)、熊江秀一(新津)、小泉健(東京神学大学)、寺田信一(横須賀小川町)、林牧人(西新井)、松井睦(聖徒)そして担当幹事の道家紀一が出席、自己紹介をした。その後、長崎哲夫総幹事の挨拶を受けた。
議事ではまず、現行「宣教研究所規定」を確認し、今期委員会の任務について協議した。その結果、今期は「改訂宣教基礎理論」の案文を確定するための作業を最優先することを申し合わせるに至った。
また、第37総会期宣教研究所委員会からの申し送り事項に関して、道家幹事から資料「『改訂宣教基礎理論』作成の経過」ならびに「第37総会期 第9回宣教研究所委員会議事録」に基づいて説明を受けた。
しかしこの際、前期委員会が常議員会において配付した第1次草案を一部削除訂正して各教区へ送るはずであったものが、事務上の誤りでそのまま送付されていたことが分かり、訂正版を改めて送付することとした。
宣教基礎理論の改訂にあたっては、第1次草案の骨子や形式を抜本的に変更する必要は無いことを確認したが、文末記載の「注」の取り扱いや、諸委員会並びに各教区から寄せられる改善提案、指摘事項をすべて確認の上、内容をこれから深めて行くことを申し合わせた。また現時点では、各教区総会に於いてこの件についての質問や意見があった場合は、問安使が答えるのではなく、委員会に報告してもらうことを要望することとした。
また、東京神学大学(教団立神学校)教授会に「万博・東神大・教師検定問題年表改訂」に関する研究員を推薦してもらい、委嘱することとした。
なお、委員長に招集者佐々木美知夫を、書記には寺田信一を選出した。
(寺田信一報)

伝道を推し進めるために

3月31日、復活日夕刻、伝道推進室発足記念大会が銀座教会にて開催された。第1部記念礼拝は銀座教会の主日夕礼拝に合流して守られ、第2部に記念講演が行われた。
記念礼拝には、説教者として小島誠志氏(久万 教会牧師)が御言葉を取り次いだ。「夜明けの岸辺」と題し、ヨハネ福音書21章1〜14節をテキストとした。
一晩中、全く収穫がなかった弟子の徒労、岸辺に立つ者からの命令に「結果はわかりきっているとの思いで、仕方なしに網を打った」弟子たちのあきらめから語りはじめられた。
夜が明けて、岸辺に立つ者によって、決定的な場面転換が起こっていることにまだ弟子たちは気付いていない。しかし、新しいときを既に迎え、「復活の主が弟子たちの働きに手を添え、弟子たちの働きの意味が決定的に変わっている」。弟子たちが主に気付くときは、「自分の不信仰を思い知らされ、伝道する者が経験する、祝福によって打ちのめされる経験でもある」。
夜明けの岸辺で網を打っているとき、何をしているのか、実りのないかのような徒労を覚える。「しかし、収穫を引き上げることができないのである。この収穫を主のもとで見せていただくときがある」。引き上げられないほどの大漁に網は破れない。「そうであるなら、労苦や祈りは決して無駄にはならない。網は破れず、労苦の実りは決して失われない。主の日に向けて気を落とさず、その日があるから弛まず網を打ち続けたい」。終わりの日、主の招きにより、わたしたちは大きな収穫の祝いの宴に与ることを忘れてはならない、と結んだ。
復活の主によってはじめて眺め透かすことのできる終わりの日の大きな収穫の希望を語る説教に、一同、伝道への志を新たに得、励ましを受けた。
記念講演では、この3月で東京神学大学学長の任期を終える近藤勝彦氏が「救われた命を伝道のために」と題して約一時間半の講演を行なった。
伝道推進室設置の意義、発足記念を復活日に行なう意義から語られた。復活の主の大伝道命令に従い「伝道することは、日本基督教団として必須のことであり、日本、世界伝道のため専念してして働く機関が必要である」。「伝道推進室が負うべき使命は、教団が伝道する教団として前進するために具体的かつ実践的に仕えること」とした。
諸教会が伝道を推進するための具体的、実践的支援は、「本来、『室』という一つの部屋の課題や責任ではなく、教団全体の根本的性格と行動を規定する統合的な部局」を必要とする。この実現まで伝道推進室の取組みに期待する、とした。
「伝道は、主イエス・キリストにおける決定的な神の救いの業を伝えること、キリストのまわりに神の民が集められ、世の終わりの神の国の到来に備える終末的行為」として、「伝道意識の向上と伝道的体質の強化」を教会に取り戻すことが喫緊の根本的課題である、とした。
伝道意識の向上、伝道的体質の強化のためには特別な工夫は必要とはせず、「教会、キリスト者として、ごく普通の教会生活によって生かされること、神の恵みに豊かに生かされること」が必要で、「ごく当然の礼拝を中心とする教会生活の中で、福音の前進と世の人々の救いのために、ごく当然の祈りを真実になすこと」とした。その中で、「他の人の信仰と救いのために用いられる喜びを経験する」。「『救われた命』と『伝道のため』は切り離すことができず、伝道は救いに至り、救いは伝道に至る。伝道に共に与りながら、救われた命の喜びをいっそう深く、確かにされる」とした。
「直接伝道してもよいし、直接伝道する人を助けて間接的に伝道してもよい。伝道のため祈っている人が一人いたら、神はその人の祈りを必ずお用いになる。一人の人が祈りつつ立つなら、いかなる世の無関心もその人を押し流すことはできない」。「伝道推進室が現在の伝道の難局を少しでも乗り越えて主の御名をほめたたえることができるよう祈る」と講演を結んだ。
近藤氏にとって学長として最後の講演となった。伝道推進室が為すべきこと、進むべき方向、先にある展望、伝道の意義を大胆に力強く語る講演であった。
大会では、石橋秀雄教団議長(推進室長)が挨拶を、山北宣久氏(青山学院院長)が祝辞を述べた。説教者、小島氏と共に、伝道決議、推進、実質化を押し進めてきた議長、前議長たちが会したことになる。また東京神学大学コーラス部による讃美歌奉唱が献げられた。参加者は約200名であった。
(教団新報編集部報)

ローマの信徒への手紙8章18〜25節

芳賀 力

生に疲れた人々

5人の男が肩を落として長いすに座っています。修道服のようなものを着て、目はうつろに地面を見つめ、祈るために組まれたはずの両手には力がなく、もう何をしても無駄だとすっかり観念しているかのようです。まん中の男は骨と皮ばかりの上半身をさらけ出し、手を両側にだらりと垂らして、もう祈ることすら諦めてしまったようです。絵につけられた名前は「生に疲れた人々」。スイスの画家フェルディナンド・ホドラーの作品です。この風変わりな絵は、精も根も尽き果てた時の人間の様子を見事に表現しています。自分の力ではもうどうしようもない現実をつきつけられて、絶望するほかない人間の姿です。いったいどうやって立ち上がればよいというのでしょう。
「被造物は虚無に服している」(ローマ8・20)。そう使徒パウロは言います。すべての被造物がその中で共にうめいているのですが、その虚無の力と「滅びへの隷属」(8・21)を一番敏感に感じ取っているのが、被造物の中でもとりわけ人間という存在でしょう。そのうめきを旧約の詩人は嘆きの詩編につむぎ、画家は「生に疲れた人々」を描き、音楽家はレクイエムを奏でます。生の疲れはあまりにも重いので、自分では取り除くことができません。

産みの苦しみ

しかし使徒は言います。それは「産みの苦しみ」でもあるのだと。今は虚無に服しているように見えたとしても、この被造世界のただ中で、すでに救いの歴史が始まっていることを、使徒は知っているのです。滅びの歴史のただ中に神が来てくださり、イエス・キリストにおいてその元凶である罪の刃を抜き去り、罪と死の法則に代わって「命をもたらす霊の法則」(8・2)を樹立してくださったからです。この霊の法則に私たちを与らせる方こそ、聖霊なる神にほかなりません。
神の霊は生に疲れた人々を立ち上がらせ、再び生かすことを可能にする唯一の力です。それは、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」(8・11)であるので、その神の霊が私たちに臨む時、生きる気力を失って死んだも同然の「生に疲れた人々」をも生き返らせる力を持っているのです。「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っている霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(8・11)。
そのことを知るなら、うめきは希望に変わり始めます。それは、もはやなす術のない絶望のうめきではなく、滅びへの隷属から解放されることを待ち望む希望のうめきに変わります。「霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(8・23)。それは目に見える表面的な希望ではありません。滅びの歴史のただ中で、実はすでに始められ、今も進行中である救いの歴史を見ることのできる、信仰に基づく希望です。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」。
とはいえ、救いの歴史を見る希望は空手形の希望ではありません。すでに来られ、十字架を通って勝利した方の中に、その確かな土台を持つ希望です。そして「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(8・24)。

霊の初穂をいただいた者たち

使徒はそのような信仰に基づく希望に目覚めた人々のことを、「霊の初穂をいただいた者」と呼んでいます。私たちは被造物の中にあって、霊の初穂をいただいた者たちなのです。霊の初穂をいただいた者たちは、絶望の中に希望を、疲れの中に癒しを、滅びの中に救いを見る信仰の洞察へと最初に導かれている者たちです。いや、そのように希望を、癒しを、そして救いを経験することができるようにと、自分の力には絶望して、神の霊を祈り求めるようにと促されている者たちなのです。
そのような霊の注ぎを受けた時、そこに世の集団とは決定的に異なる「教会」が誕生しました。教会はペンテコステ(五旬祭)の日に霊の初穂をいただいた者たちの群れとして出発しました。だからそこで捧げられる祈りと讃美は、全被造物と共に世界の贖いを待ち望む希望のうめきです。
私たちの礼拝は果たしてどこまで希望のうめきになっていることでしょうか。生に疲れた人々を立ち上がらせる聖霊を、憧れるようにして呼び求める礼拝になっているでしょうか。この憧れを知るが故に、何と使徒は、現在の苦しみなど物の数にも入らないと言い切ります。それは「将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(8・18)と言うのです。

来たれ、聖霊よ

「ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」(イザヤ32・15~17)。
上からの霊が注がれることで、荒れ野は園に生まれ変わります。荒ぶる心は静められ、愛のない心も神の愛で潤い、再び愛することのできる人間に生まれ変わります。「この息子は、死んでいたのに生き返り」(ルカ15・24)という放蕩息子のたとえ話に起こったことが現実のものとなります。
そのようにして、もし私たちが死んでいたのに生き返った「霊の初穂」であるならば、次の「穂」となるべき人々にこの福音を伝えるということが私たちの使命(ミッション)になります。最初のペンテコステが教会の誕生であるとすれば、毎年繰り返されるペンテコステの祝祭は、教会の仕え人が誕生する日であるはずです。生に疲れた人々に再び生きる勇気を届ける働き人が、この世界には何としても必要です。そうでなければ、世界はただ望みなくうめき声を上げるだけの、<RUBY CHAR=”阿”,”あ”><RUBY CHAR=”鼻”,”び”><RUBY CHAR=”叫喚”,”きょうかん”>の世界になってしまうことでしょう。
「来たれ、創造主なる聖霊よ」。これが古代教会の礼拝で捧げられた祈りでした。この年ペンテコステを迎え、全国の諸教会がこぞって創造主なる聖霊を呼び求める礼拝を捧げ、世界に希望の種を蒔く伝道者が続々と興されるように、切に望みます。どうかそのためにぜひ祈っていただきたいと思います。
(東京神学大学学長)

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