第37総会期第9回教師検定委員会が11月15日、教団小会議室において行われた。出席は委員6名(欠席1名)、担当幹事、担当職員各1名が陪席。
東野尚志委員長はⅡコリント4・16~18に基づいて奨励し、祈りを献げて開会。議事日程承認、第8回委員会議事録確定の後、委員長および事務局報告が行われた。
まず第2回作業部会(9月28日、遺愛会議室にて開催)において、2013年春季教師検定における教師検定規則第4条第3号該当者科目認定に向けて、大学院を設置する神学校の2012年度分シラバスの内容を確認し、単位取得科目「読み替え」ワークシート作成下準備を行ったことが報告された。
続けて第38回教団総会において2012年度秋季教師検定試験合格者が承認されたこと、2013年春季教師検定試験に関して補教師91名分(6神学校送付分を含む)、正教師16名分の受験要綱・願書を送付したこと等が報告され、いずれも承認された。
議事に入り、まず教師検定規則第4条3号対象者科目認定に関する件が審議された。今回は2名の2013年春季教師検定試験受験予定者の資料が届けられており、単位取得情況ならびに現在受講中の科目について審査し、受験科目を決定した。
続けて、他教派神学校に在籍する1名の春季教師検定試験受験予定者に関し、コース認定・科目認定を行い、資料に基づいて単位取得情況ならびに現在受講中の科目について審査し、受験コースと受験科目を決定した。
第8回委員会において2014年春季教師検定試験より補教師受験者の説教課題を旧新約の二編(現行は受験者が旧新約の一方を選択)とする方向で具体化することを決定したことを受け、実施に向けて、2013年度が始まる前に各神学校に変更を通知する文書を送付することを決定した。次回委員会(2013年1月21~22日)にて文案を確認し、決定次第送付の予定。
「教師検定試験受験の手引き」を若干手直しすることを合わせて決定した。これも次回委員会で検討の予定である。
(渡部和使報)
相互の関係を一つの召しのもとに回復
第38回教団総会において、「日本伝道の推進と教団の教師養成の重要性をふまえ、教団と東京神学大学との関係を回復する件」が決議されたことを受け、11月20日、関係回復を覚える全学礼拝と懇談会が東京神学大学で行われた。教団から三役、総幹事、執行部が出席した。
学生も出席して、全学礼拝が関係回復を覚える礼拝として捧げられ、近藤勝彦東京神学大学学長が、マタイによる福音書4章18~22節より説教した。「主イエスは、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを召された。二組の兄弟は共に漁師で、漁場も同じガリラヤ湖。両者は、良い関係の時も、こじれた関係の時もあっただろう。しかし、この日、主は兄弟たちを召し、兄弟たちは同一の主に従った。教団、東神大の関係回復にあたって、互いに向き合うことも大事だが、同じ主の召しに従うことこそが関係回復の土台。『人間をとる漁師』とあるように、兄弟たちが召されたのは伝道のため。そこには、相応しくない者を召して下さる主の愛がある。私たちは共に、『私について来なさい』との御言葉を聞いている。主は、相互の関係を一つの召しのもとに回復して下さる。主の召しに従う中で、両者の関係が成長することを信じ、関係回復の道を歩んで行きたい」。
説教後、礼拝の中で、石橋秀雄教団議長が以下のように挨拶した。「教団は東神大に対して、第17回、第18回総会において、一方的な非難決議をし、両者の正常な関係を損ない、互いに不自然な関係となって今に至っている。これらの決議が適切さを欠いたものであることを認め、その非礼をお詫びする。非難決議の内容は、福音宣教の在り方そのものに関する根本問題であり、これにより教団の宣教が損失を蒙り、東神大に苦痛を与える結果となったことを主の前に懺悔する。教団と東神大とは、精神的、歴史的、財政的に、伝道の重責を担い合う中で密接な関係の中にあるべき間柄である。しかし、節度ある緊張関係と礼節の中でのみ、信頼と尊敬が保たれ、協力が成り立つ。東神大は、教団が、信仰告白による一致が崩れ、混乱する中、信仰告白に基づく伝道者養成をなし続けて来た。常に歴史の終末を見つめ、説教と聖礼典によって礼拝と伝道に生きる教師の養成こそ、日本伝道の課題であるとの確信の中で伝道者養成をしてこられた努力に敬意を表する。わたしたちも、終わりの日を待ち望み、伝道の業に励んで行く決意を議長として表明する。東神大と教団が関係を改善し、教師養成の課題に共に取り組み、伝道という共通の目標に向かって協力し合う関係を築くことが出来るように願う」。
礼拝後に東神大教授会、理事長、理事と教団代表者で懇談会が持たれた。冒頭、近藤学長が挨拶した。「第38回教団総会において、東神大との関係回復を図る決議がなされ、東神大に謝罪するとの議長の姿勢が示されたことを東神大は重く受け止めている。これを受け入れ、東神大は、教団との関係を回復し、日本伝道の推進という大目標に向かって努力をして行きたい。教職養成のため一層の努力を重ね、教団の教職観、教職養成の理念の確立と遂行のためにも尽くして行きたい。教団の過去において、信仰告白を無視し、教憲・教規を軽視してきたことから起きた過ちを反省し、前進して行く必要があると思われるが、その点でも協力して行きたい。関係回復の出発点に立って、以下のことを申し添えたい。教規第34条④にある東神大の位置づけが、適正に改正されることを期待している。また、1968年に交わされた申し合わせは、回帰すべき規範的文書とは考えられず、両者の関係を新しく築いて行かなくてはならないと思っている。今回の決議により、学長として常議員会に陪席させていただくことになるが、折々の自由な判断で、教団に対する義務と責任を果たして行きたい」。学長挨拶の後、出席者から、今後の課題について様々な意見が述べられた。「かつては神学教授たちがいろいろなところで教団に奉仕していた」、「伝道の分野の研究という面での関係深化も前向きに考えて行ったら良い」(山口隆康教授)。「東神大と教団が結ばれて行くということで、他の神学校もそうなって行き、教団と神学校の関係が再構築されて行くべき」(長山信夫理事)。「教団の信仰告白を理解し、活動の中で生かして行かないといけない」(倉松功理事長)。
「教憲2条で『旧新約聖書に基づき、基本信条および福音的信仰告白に準拠して』、信仰告白を定めているということを実質化して行かなくてはならない」(棚村重行教授)。最後に近藤学長と石橋議長が握手を交わした。(嶋田恵悟報)
ヨハネによる福音書1章14節
光を消すことはできない
私たちの主イエス・キリストがお生まれになった時、世界は闇であったのであろう。権力者に翻弄され、もてあそばれた中でお生まれになった様子を私たちはルカの描くクリスマス物語に見ることが出来る。
いや、主の御降誕の時だけではない。ヨハネの福音書が書かれ、読まれた時もまた「世界は暗闇」であったのであろう。だからこそヨハネは「光は暗闇の中で輝いている」と書いている。ヨハネはイエス・キリストの中に「暗闇の中で輝いている」光を見出したのだ。この光は、一時の間だけ光っているのではない。輝き続けている。闇の力が、どれほど強くても光を消すことがない。それは、たとえ「灯心」が「暗くなってゆく」ように見えたとしても、その灯心を決して「消すことなく」(イザヤ書42・3)点し続けるキリストの光である。
この光を理解しない「暗闇」をヨハネは証言している。理解しないということは認めないということでもある。理解しないということは気づかないということでもある。光は確かに輝いている。しかし、そのことに気づかない暗闇が、確かに存在する。
嵐は吹き荒れていても
以前、京都の教会にいたとき、尋ねてくる来客を連れて行く場所があった。大徳寺の瑞峯院である。ここはキリシタン大名大友家の菩提寺で、「十字架の庭」と共に「独座庭」と呼ばれる石庭がある。荒海のようにしつらえられた白砂の庭の真ん中にどっしりとした岩が鎮座している。その庭の縁側に座ってしばしの間、黙想するのが私の習慣であった。そのとき私はヨハネによる福音書が6章16~21節で描いている「嵐に悩む弟子たちの話」を心に読み直す。嵐に悩む弟子たちの舟に主ご自身が近づいてきて下さって、「わたしだ。恐れることはない」とお語りになった。ヨハネは「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」と不思議な言葉を付け加える。主が共にいて下さるところでは、嵐は乗り越えられているのだ。ヨハネは、嵐が鎮まったとは記さない。ただ「彼らはイエスを舟に迎え入れようとした」と記すだけである。あるいは、波は荒れたままであるのかも知れない。
私たちの世界もまた闇である。しかし、その中に確かに光が輝いている。それは、すべての人を魅了する、神々しい光ではないかも知れない。「ほの暗い灯心」にも似た光、ただ見ただけでは頼りなく見える光かも知れない。しかし、この光は決して消されることなく輝き続けている。歴史を超え、思想の嵐が吹き荒れても、戦乱の中でも、天変地異の中でも、いや、死という闇のまっただ中でも光は輝いている。私たちは、この確かさに生きる。
神の栄光を見る
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
これもまたヨハネが語るクリスマスの言葉である。ここで「栄光を見た」と語れる「栄光」とは、すべての人を照らす光としてこられた私たちの主イエス・キリストの栄光である。
「栄光を見る」という表現で思い出すのは「モーセの故事」である。モーセは神に、「どうか、あなたの栄光をお示し下さい」(出エジプト記33・18)と願った。
モーセが、山の上で神からの戒めを頂いている間、ふもとに残された民はモーセを待ちくたびれていた(同32章)。
そして民はアロンに、モーセがどうなったのか分からないので、モーセの代わりに自分たちを導く神々をつくって欲しいと訴えた。アロンは、金の子牛を鋳造し、人々は、「これこそ私たちの神々だ」と喜び、アロンは祭壇を築いて「主の祭」を行った。当然のことであるが、このことは主なる神とモーセの知るところとなる。
神は直ちにモーセに下山を命じ、モーセもまた祭の様子を見て「激しく怒り」、持っていた十戒の板2枚を叩き割ってしまった。
翌日モーセは、「おまえたちの罪のために贖いができるかも知れない」と再び主のもとに上ることを決意することになる。
そのとき主がお語りになった言葉は厳しいものであった。
「あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」。
主が共に居ようとされると、主は民を滅ぼしてしまうことになる。だから、主はイスラエルと共には居ないことにすると言われるのであるが、「主が共にいて下さらないイスラエル」は、もはやイスラエルではない。民が「嘆き悲しんだ」ことも当然のことである。
モーセは再び主のもとに上って、主に赦しを願い求めるのである。そこでモーセの「どうか、あなたの栄光をお示し下さい」という祈りが捧げられることになる。神のお答えは、こうである。
「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。
こうして34章では、再び十戒の板に戒めが刻み込まれることになる。砕かれた十戒の板は再び回復され、神の民イスラエルはイスラエルとして神と共に歩むことになった。
ここで見せられた「神の栄光」とは罪の赦し、契約の更新として具体化している。
イエス・キリストによってもたらされた「栄光」もまた「罪の赦し」に関わる。クリスマスの主、十字架の主は復活の主として、今も生きる御方として、私たちに確かな光を点し続けて下さっている。クリスマスによって、この世にもたらされた灯火は今も光を放ち続けている。
この灯火が消えることなくあり続けることこそ私たちの希望であり、慰めである。
今年もまた、この確かな「光」を、しっかりと身に受け、この灯火の確かさを証し続けていきたい。
1:12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
1:13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、
1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
1:15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
1:16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、
1:17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
1:20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
1:24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
1:25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。
1:26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。
1:1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。
1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
1:7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。
1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
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