この度の「東日本大震災」の被災者の皆様の上に、神の慰めと憐れみと助けをお祈りいたします。3万人近い死者・行方不明の方々がおられ、愛する者を失われた方々の上に、神の特別な慰めと支えがあるようにお祈りいたします。
この大震災は、北海教区、奥羽教区、東北教区、関東教区、東京教区と五教区にわたる広範囲の地域で、未曽有の地震・津波の被害をもたらしました。関東教区では、4つの教会と3つの関係学校と幼児施設が、建直しと大きな補修を必要とする被害を受けました。また交流を持っていたインドネシアの兄弟姉妹の大洗ベツレヘム教会が津波の被害を受けましたが、幸い皆の命は無事でした。
しかし、奥羽教区や東北教区の太平洋沿岸で、津波で壊滅状態になった町々の映像を見て言葉を失っています。幸いにして助かった多くの人々は、着の身着のままで避難所の生活をされています。その町々に立てられている教団の教会の兄弟姉妹のことを覚えます。同じ被災に遭った兄弟姉妹たちへの教会の救援は、その被災地域の人々と共に歩む救援でありたいと願います。その地域の教会を通して、被災者の方々に行き届く愛の業の救援活動が早急に求められています。関東教区では、4月12日(火)~14日(木)にかけて埼玉地区が中心になって大船渡教会と連携して避難所の方々に衣類を届け、炊き出しやホッとするレクリエーションの提供も計画しています。
関東教区茨城地区は、原発事故の起こっている福島県と隣接しています。すぐ隣りのいわき市は20~30キロ圏内の屋内退避要請を受けている地域を含んでいて、救援活動が進んでいません。福島・いわき地域の被災者は物資が入らず孤立しています。教団の日立教会は、福島・いわきへの支援拠点となっています。皆様の祈りと支援をお願い致します。被災地のニーズは刻々と変わります。被災地の人々のニーズに合った救援活動のために祈りと力を合わせましょう。
また、津波の被害による福島原発事故は、科学万能主義が破綻をもたらした人災です。私たちキリスト者は、この原発事故が一日も早く終結するために神の助けを求めて真剣に祈りましょう。命がけに事故の終結のために働いている人々の命が守られるように神の助けを祈りましょう。また、退避命令で近県に避難している方々の救援のためにも祈りましょう。
(関東教区総会議長)
息長く粘り強く希望をもって 高橋和人
あの時、くぐもった緊急地震情報の警戒音から、異質な時間が始まりました。押し寄せる破壊と恐怖の怒涛、不安と混乱、緊張感の継続。地震、津波、原発事故と広範囲で複合した災害。物と人身に加えられた破壊から、生活、心、共同体へとその傷の深さ。いまだ犠牲者の数もわからないほどの規模、あらゆる分野への波及。信頼に足る情報のなさ。支えあうこともままならないもどかしさや苛立ち。時間感覚さえもあいまいになります。騒ぎ立つ心に「落ち着け」と言い聞かせています。
しかし、祈りに覚えられていることに、今ほど力づけられていることはありません。弱る思いが支えられるのは主にあって結ばれたものたちの祈りです。
真っ先に教団救援対策委員会より石橋教団議長と調査委員3名が駆けつけ、つぶさに現地を見、全面的な協力を申し出て下さった。
また、奥羽教区議長と共に教区・教団で難局に向かうことを合意しました。さらに関東教区新潟地区、長田センター、東北教区センターの協力を得て、東北教区被災者支援センターを立ち上げることができました。 安否確認から物資支援、訪問と献身的な働きをして下さっています。更に各教区の応援、援助、人材と次々力強いお申し出があり、勇気付けられています。
地元でも、津波の大きな被災地の中に立つ石巻の二つの教会がその中にあって懸命に地域支援の働きをしています。その他の教会では被災者を受け入れるなどそれぞれに助け合っています。福島県浜通りの教会は不安の中で懸命に教会を守っています。
また、東北教区では教会救援復興委員会を立ち上げました。既に被害の大きい教会では解体工事に入っています。緊急な課題が多い中で、今後長く続く復旧再建に教区が一つになってこれに向かっていきたいと願っています。また今年は教区の活動をできる限り縮小や凍結をしてこれに集中しなければなりません。そのため、時には教区に求められる多くの課題に対応できないこともあることと思います。ご理解をいただきたいと思います。
東北教区内は激甚な被災地ばかりでなく、多くの地域でライフラインが回復しておらず、復旧の初期段階のままのところも少なくありません。刻々と変化する事態の中にあって、「どうして」とか「どのようにして」、という問いへの模索もままならないままですが、教会がみ言葉によって霊的な復興の砦の塔として立てられる時が与えられるものと願っています。長い期間が必要になると思います。息長く、粘り強く希望を持って向かうつもりです。奥羽、関東の諸教会ともどもお覚え下さい。
(東北教区総会議長)
教会被災状況、奥羽教区 邑原宗男
被災地を訪ねて、やっと見つけることができた方から、「なぜ、どうして、」という声の前にただ黙しているのみです。聞こえてくる声の中には、「遅い」と。まさに遅いです。でも、この大震災は、もちろん、東日本全域にわたっているから、奥羽のみをいうことはできません。でも、いかんせんこの広さ、岩手県のみで四国全域と同じ中を鉄道網は壊れ車も規制された。道路事情は、国道4号線を中心に三陸海岸に櫛の歯のように道路が伸びている。沿岸沿いの道は寸断されていて直接回れなかった。それもガソリンがなくなり近隣教会の牧師の車からガソリンをもらい走ってたずねた。
宮古教会、津波のために海岸線に近い街並みは、なくなり、教会付近は瓦礫の山。1メートル70センチの高さの泥水に浸かってしまった。その中で森分和基牧師は避難所にいる方々を支援し、教会は役員が、溜まっていた泥をスコップでかき出し、洗い流す作業をしていた。何もなくなったという声に、言葉を失う。牧師に救助された方は、本当に感謝していた。
新生釜石教会、津波は、一階部分を完全に呑み込んだ。役員と共に立った礼拝堂は、無残にも十字架の下のいた壁は奪い去られ、中は瓦礫の山。避難所にいる方々への配慮をする柳谷雄介牧師は、「物ではなく、人のつながり」とボードに書き、その前で安否確認をしておられた。いまだに不明の方がおられる。街並みは実に壊滅である。
釜石から国道45号線沿いにある沿岸の町や村は、まったく消失したもの、山際に押しつぶされたもの、津波の威力の大きさは想像することができない。何人の人の命が失われたか、どうして復旧することができるか、考えることもできない。
大船渡教会、献堂まもない礼拝堂は、丘の上にあり安全であった。しかし教会員の家屋はいくつも津波にさらわれていった。不明の会員がおられる。但馬秀典牧師は、会員の安否を尋ねて避難所を探し回った。一人また一人と確認し続けている。3月末で後任者と交代するので、弘前西教会のご理解と協力を得て村谷正人牧師は3月21日より赴任して、救援に活動を引き継いだ。
千厩教会、東北地方特別開拓伝道の折に建築した礼拝堂牧師館は、裏山の亀裂により危険地帯となった。礼拝堂牧師館の柱は複数にわたって、縦に亀裂が入り、危険建物となった。三河豊・栁沼赦羊子牧師家族は避難することとなった。今後の礼拝は、場所を移して行うことを決めている。
一つ一つの教会の状況をあげれば、切りがない。全体として腕がもがれ足がもがれた状態だ。でも、その中で、教団全体の祈りと支えが始まっている。各教区からの支援の連絡、奥羽教区としては、少なくともこの4教会に対し、偏ることなく支援を続けることをしていきたい。
また本当に祈ってほしい。また、東北教区や関東教区の被災されている方々、特に原発事故も加わったこの惨事の中で、共に祈り続けさせていただきます。
(奥羽教区総会議長)
被災された方々とその関係者の方々に心からお見舞い申し上げます。
3月11日午後2時46分、巨大地震が東日本を襲いました。世界の観測史上4番目に大きいマグニチュード9.0を記録し甚大な被害をもたらしました。その地震のエネルギーは関東大震災の45倍、阪神・淡路大震災の1450倍とのことです。さらに地震による津波は太平洋側の奥羽、東北、関東500キロにわたって、沿岸地域の町や村を襲い、多くの尊い人命と家屋を呑み込みました。地震発生から10日たっても、その被害状況の全貌は把握しえない状況にあります。
3月22日現在で、8千名余の死亡が確認され、さらに1万2千名余りの安否不明者、そして、35万名に近い人々が過酷な避難生活を強いられています。道路も寸断され、通信手段が切断されて、孤立した地域があり、ガソリン、軽油、灯油等が極端に不足しています。援助物資が被災地域に届けられず、水や食糧が不足し、真冬の寒さに震えて、命を奪われようとしています。今なお医師不足、薬の不足などで、命が脅かされ続けています。まことに、想像を絶する惨状に心が痛み、主の助けを祈らされています。
さらに二次災害として、福島第一原子力発電所で1号機から4号機までが壊滅的打撃を受け周辺地域の被災された方々を初め、多くの方々を一層の苦しみと不安に追い込んでいます。原子炉が爆発し、放射性物質が大気に放出されないように、世界の人々が注視していますが、ことに福島第一原子力発電所の近辺にお住まいの方々の安全を願っています。
巨大地震と津波がもたらした危機、原子力発電所爆発による放射性物質による汚染の危機、戦後最大の危機の中に命が脅かされています。
教団では、大震災救援対策委員会を設置し、ただちに被災地域の教会の問安と被害状況を出来るだけつまびらかに知る為、教団議長、二人の幹事、社会委員の4名を仙台に派遣(13日~16日)、宮城、岩手の被災地域の教会問安と被害状況の把握に努めました。
また、地震直後から教団事務局の幹事、職員と共に議長が泊まり込んで情報の収集に懸命に努めました。
15日には岩手の一関教会にて奥羽教区議長、東北教区議長と共に、奥羽教区内、東北教区内の被災地域の教会の被災状況の確認と今後の対策を協議しました。
被災地域の教会の牧師たちは通信網の切断、極端なガソリン不足等で移動手段が限定されるなかで、信徒、付属施設の職員、園児等の安否の確認、被害状況の把握など、必死な活動を続けております。全教団の祈りによる支えが求められます。
東北教区では地震直後から東北教区センターで地震被災の情報の収集にあたっていましたが、15日東北教区議長のもとに支援センターを設置し、情報の収集と支援活動を開始致しました。
関東教区内にもかなりの被害があり、関東教区議長を中心に被災教会の問安と被害状況の確認を懸命に行ってきています。余震による被災を含めて、今回の巨大地震は、上記教区の他、東京教区、東海教区、神奈川教区等にも深刻な被害をもたらし、また北海教区においても犠牲者がでました。
教団は、去る3月22日の常任常議員会で日本基督教団救援対策本部(仮称)を立ち上げ被災教区の支援活動を支えると共に4月18日に臨時常議員会を開催して今後の取り組みを協議します。
教団への海外諸教会からの熱い祈りと支援の申し出がなされています。海外の諸教会の熱い祈りと支援に支えられて、被害甚大な地域を抱える教区の教会の命を支える活動を支援し、さらに、被災教会の支援、再建などの取り組みに全力を注いで行きたいと考えています。
この時、被災地域の愛する家族を失い絶望の中にある方々、愛する者の安否を懸命に求めに求めておられる方々、津波によって家を失い、生活場を失って途方にくれておられる方々、
原発の事故で不安の中にある方々に、避難所生活をされている方々の為に、主の慰めと助け求めて、全教団の教会の祈りを深めましょう。
2011年3月23日
日本基督教団総会議長
石橋 秀雄
さらに石巻市街を海岸方面へ進む。自衛隊や警察、消防の車の往来が目立ち、ついに一般車の進入が規制された。規制区域の外に車を駐め、歩いて石巻栄光教会へ向かう。
小さな土手にかかる橋を越えると、いきなり、あり得ない光景が目に飛び込む。おびただしい瓦礫の山、どれも異常な姿勢の多数の車。折り重なり、電柱に引っかかり、家に突っ込んでいる。破壊された建物。爆撃後の街さながらの壊滅状態。
多くの人々がどこへ向かうともなく、荷物を抱えながら、黙々と歩いている。時々、悲鳴とも歓声ともつかない声が上がる。無事と言えるのか、とにかく生きて再会したのだ。
規制区域内でも、もちろん緊急車両は走っているし、一般の車も少なくない。道路には大勢の人も歩いている。なのに、何か静かだ。しばらくして気づいたが、人を避けながら走るどの車も、決してクラクションを鳴らさないのだ。他の被災地でも車の通れる所はどこでも車が走っているが、どこでもクラクションを鳴らすのを聞いたことがない。黙々と歩く人が車の進行を妨げれば、車も黙って待つ。誰が決めたのでもない暗黙のルール。日常の市街地ではあり得ない。
石巻栄光教会(小鮒實牧師)は、土台が若干高いのか、辛うじて海水は床上まで襲わなかった。幼稚園舎は避難者のために開放されていた。救援物資は車に残してきたので、たまたま教会堂の脇にあった台車を借りて、物資を取りに車まで戻る。道路は、海から運ばれたと思われる泥で薄く覆われている所が多い。荷物を積み上げた台車を押すのはやっかいだが、時々、強い視線を感じる。呆然と座り込む人、自転車に限界まで荷物を積んで運ぶ人。しかし皆、静かだ。
小鮒牧師の車をお借りし、石巻山城町教会を訪ねる。鈴木淳一牧師、裵善姫(ペーソンヒ)牧師夫妻は、地震発生時は無事が確認されていたが、その後の足取りが不明だった。しかし、夫妻は無事に帰っていることを隣家の人から聞いて一安心。少しばかりの水と食糧を玄関先に置いて、石巻の街を一望できる高台の日和山公園へ登ってみる。
海に向かって目をやると、初めて見る石巻なのに「変わり果てた街」だと分かる。津波に嘗め尽くされ、所々、煙も立ち上っている。捜索だろうか、ヘリコプターが昇降している。この壊滅した街の、しかしどこかに生存者がいるに違いないと思いつつ、ただ眺める(後日、地震から9日後の20日、80歳の祖母と16歳の孫が、ここからわずか数百メートルの所で救出された)。
一同、日和山から降りようと階段から下を見た時、見覚えのある顔が登ってくる。なんと、鈴木牧師夫妻だ。思いがけない再会を喜び、祈りを合わせて、日和山を後にする。
一度、石巻栄光教会に戻る。近くの教会員の家に一人の青年が滞在しているので、仙台まで送り届けてほしいと頼まれる。この青年は、会社の営業車で仙台に帰る途中、津波に巻き込まれた。命からがら3階建ての工場の屋根に登り、その屋根の上で冷たい雪に晒されながらも一晩中耐えたのだ。水が引いた後に屋根から下ろされ、まだ引ききらない海水を避けながら道を辿り、時に遺体の処理の手伝いなどをしながら帰る道を探していた。たまたま栄光教会の信徒の荷物を運ぶ手伝いをして、その信徒宅にお世話になった。
津波を生き延びた青年を乗せ、仙台を目指す。途中、二つの教会に寄らせてもらう。塩釜東教会(津村勝牧師)に着いた時はすでに夜。残っていた最後のポリタンク2缶分の水を差し上げる。最後の仙台東教会は、教会員や近隣の方々の避難のために礼拝堂を開放していた。礼拝堂の長いすを向かい合わせたベッドで、寝る支度を整えているこの人々は、何を想いこの時を過ごしているのだろうか。いま、いったいどれほどの人々がこの心細い夜を過ごしているのか。去来する様々な思いを引きずるように、車に戻る。
かの青年は、携帯電話で会社に連絡。同僚や先輩たちが、迎える準備をしているという。会社に到着すると、青年は歓喜の輪の中でもみくちゃにされた。
翌15日は、岩手県南部の教会を訪ねたが、夕方には一関教会で奥羽教区議長、東北教区議長と教団総会議長の三者で緊急協議を行う予定なので、多くの教会は訪ねられない。なにしろ岩手県は四国四県が入るほど広い。南部の大船渡を目指しながら、途中、千厩教会(三河豊、柳沼赦羊子牧師)に立ち寄る。古い会堂は無人だったが、鍵はかかっていない。鍵をかけようにも、玄関の扉が閉まらないのだ。
一関から三陸海岸方面に向かう道は緩やかな山間だが、意外にも自動販売機は稼働し、商店も営業している。この辺りでは日常的な生活が保たれているように見えた。
ところが、しばらく進むと突然、異様な光景が目前に広がった。山間の村と思われたが、ここも津波に飲まれたのだ。鉄道の鉄橋も流され、道床にはレールがない。飴のように曲がって、その先どこへ消えて行ったかも分からない。陸前高田の街に近づいたのだった。
規制されている陸前高田市街を回避し、やがて大船渡の街へ入る。大船渡教会(但馬秀典牧師)は港から近いが高台にあり、昨年献堂されたばかりの新しい会堂と牧師館だ。留守番をしていた役員に聞くと、2人の会員が行方不明とのこと。しかも2人とも陸前高田在住だという。
港近くの市街へ下りてみる。2階、3階の建物がひっくり返っている。瓦礫の高さなどから想像するに、津波の高さは優に10mは超えていそうだ。海外のレスキュー隊が、瓦礫の間に潜って捜索・救出活動をしており、そこに海外のメディアがテレビカメラを向けている。視覚的には緊迫した激しい光景だが、シーンとした静けさが異様だ。言葉もない。
一関に戻り、邑原宗男奥羽教区議長、高橋和人東北教区議長、石橋秀雄教団議長の三者協議が祈りをもって始まった。雪が降り始めていた。
(総務幹事・藤盛勇紀)
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