益子教会は、栃木県東南の端にあります。町は益子焼が有名で大勢の陶芸家が住んでおり至る所に登り窯があります。益子教会の造りは栃木県産の大谷石を積み上げた教会です。この建材は夏にひんやりと涼しいです。
2011年東日本大震災によって益子も大きく揺れました。その揺れで陶芸の命ともいえる登り窯は至る所で崩れました。陶器販売も痛手を負いました。私の知り合いも登り窯が壊れてしまい現在も直せない状況です。
益子教会も例外ではなく、大谷石は横揺れに弱く倒壊するかもしれないと、当時の代務の先生が見に行くと、建物自体は神様が守ってくださいました。屋根につけられた十字架とその周りだけが壊れました。まるで神様がその会堂を守られた様に思えました。
その後、皆様の東日本震災救援募金によって補修をしました。その3年後に私は益子教会に就任しました。就任以前は10名前後の教会でしたが、就任当時、教会員は0名でした。以前の教会員は、年を重ね高齢化が進み施設に入ったり、引っ越したり、消息不明であったり、様々な事情で教会から離れてしまいました。礼拝も一人で行い、壁に向かって説教をするようなことも度々ありました。その時に思い出すのが、ある先輩の牧師からの一言です。「一人での礼拝は、今神様があなたとの対話を求めているかもしれないね」という言葉で、これを思い出し礼拝を続けました。
しかし実際には、色々な面で一人での礼拝は限界があります。もうだめか、辞めようかと感じることも何度もありました。しかし、神様はまるで続けなさいと言わんばかりに、様々なことを用意し与え続けるのです。人間の思いをはるかに超えた力で働かれます。就任して間もない頃、西那須野教会から兼任の招聘の声をかけていただきました。この益子教会では厳しい状況でありましたが、宣教の業が可能な様にしてくださったのです。
また、時々、礼拝に参加して来られていた姉妹が突然「私4月から来られません」と話してこられました。驚き何事かと話を聞いてみると免許証を返納して運転ができないと聞き、咄嗟に「わたしが迎えに行きますよ」と声をかけ喜ばれました。これでいつも誰かが礼拝に来て賛美の声も大きくなると考えました。その後、その方が友人に声をかけてくださり、たった一人での礼拝は少なくなりました。説教もやはり聞いてくださる方がいると力の入り方が違うなと実感しました。
二つの教会を兼任することは大変でした。当時教会員が一人もおりませんでしたから、会計も全てやらなくてはならないので、電気代を忘れて電気がつかなかったり水道が止められたり、礼拝に来る方が大丈夫かと思うくらいでした。当然、自分の生活にかける時間がありませんでした。そんなときでも神様は助けてくださるのです。自分の足りない部分を補ってくれる素晴らしい方と結婚することも出来ました。
現在、毎週土曜日1時間半かけて礼拝を守っています。4、5人で共に礼拝を献げています。礼拝終了後、食事をして交わりの時が与えられています。御言葉の分かち合いと共に食事の糧をいただくことが出来るのは本当に幸せなことだと思います。出席者が料理を毎週作り良き交わりをしています。礼拝の話や困っていることも含めてゆっくりと話をし、より深くかかわることができるのです。
こういった交わりが出来るのも小さな教会の醍醐味ではないかと思います。これも神様の配慮だと思います。初代教会のように礼拝と食事をする交わりの大切さを改めて思わされました。
地域の方が教会へと来られるように、与え続ける神様を信じて礼拝を献げてまいりたいと思います。御加祷下さい。
8月16から18日にかけて、「第29回全国キリスト教学校人権教育セミナー」が開催された。
会場は、高知教会と清和女子中高等学校(小西二巳夫校長)で、この会場校は、「女子校だから、小規模だから、少人数だから」できることを大切にする精神を特色として教育している。そのためこの研修会の会場を引き受けるにあたっては、前日に教職員全員で全館一斉清掃を行うなどの心意気で参加者を迎えてくれたことは感謝であった。
今回のセミナーの主題は、「共に喜ぶ世界を創るために—SAY!WA!」であった。開会礼拝、基調報告後、「高知・長浜の教科書無償運動をふりかえる」と題した吉田文茂氏の講演と「沖縄の今を通して、平和・人権と暴力を考える」と題して高里鈴代氏の講演を聞いた。
その後、4つの分科会に分かれ、4人の発題を聞いて協議を行った。発題者は、第一分科会「地球にやさしく、光る町土佐の赤岡を歩く—部落差別解消教育の創造を願いつつ」(フィールドワーク)案内・解説は竹村暢文氏、第二分科会「セクシャル・マイノリティ—あなたはいつ異性愛者と決めましたか?」浜口ゆかり氏、第三分科会「在日外国人の人権—朝鮮学校(ウリハッキョ)からの報告」李一烈氏、第四分科会「『発達障がい者』、貸し出します!—当事者の視点から、社会や支援を考えよう」玉利麻紀氏であった。
分科会に分かれると参加者は一つの分科会での情報しか知ることはできないが、この研修会では、直前の全体会で「分科会講師によるリレートーク」の時間を持つ工夫があり、参加者はすべての分科会で行われる概要を知ることができて有益であった。その後、「反戦平和の学び」と題して岡村正弘氏から高知空襲の話を聞き、平和資料館「草の家」などの見学を行った。
最終日は、聖書研究、全体会、総会が開催され散会した。
(宮本義弘報)
それは、十代の半ば、山の中の帰り道の突然の声であった。一人の婦人から「あんた、本山にキリストの教会ができたのを知っちゅうかね」「知らん」「一度、教会に行って、みーや」その声を聞いて、教会へと足を運んだという。
そこに、初代牧師の川添徳治先生が待っていた。会ったのだけれども、すぐに、集団就職のため滋賀県へ行くことになった。その時に、片道10キロの道を川添先生が、駅まで自転車で来てくれた。聖書を渡されて、「苦しい時、悲しい時にも、どんな時にも、聖書を読みなさい」と言われた。本を読むことが好きだったので、聖書を読むことは苦労しなかった。
会社から「宗教は何ですか」と聞かれ、迷わず「キリスト教です」と答えたという。
まだ洗礼を受けていなかった。それに、会社は仏教系であった。働くことに疑問を覚えながら過ごす毎日であったという。一年後のある日、足の痛みを覚え、治療のために故郷に帰ることになった。それ幸いと思い、治療を終えて、近くの病院の見習い看護師として働いたという。これで、教会に行けると考えたからである。
4月に帰ってくると、教会の礼拝に出席するようになる。数回、礼拝出席したペンテコステの時に、川添先生からの声。「来た来た。あの子が来た。今日は、あなたの洗礼式の日だから」と自分に向けられた声がした。「キリストの神を信じるかね」という言葉から、「はい」と答え、洗礼を授けられた。17歳の時であった。
その後、キリスト者の夫と結婚することになった。高知市に移って自営業で働くことになった時も、高齢の母を介護することになった時も、礼拝生活をつなぐだけで精一杯であったという。
「今では、嶺北の地に帰されて、朝と夕の礼拝、祈祷会、諸集会で、御言葉を聞くことが楽しみです」と答えた。
1936年高知県土佐町生まれ。会計長老を21年間務めた。土佐嶺北教会奏楽者。俳句が趣味。
広島・呉市天応が大災害に苦しんでいる。わたしが小学生時代に通った学校の校庭は災害救援の車両でいっぱいだ。住んでいた天応の家はそのまま残っていて広島に行くたびこの家を見る。この家を見ると元気が出る。この地域で大切にされて育った。今年6月に行ったときには、自治会長の溝口さんが門の所にいたので声をかけた。「秀、秀、秀」とわたしの名前を思い出そうとしてくれて50年前を思い起こしてくれた。
7月に見舞いのために呉市に行き「キリスト教会・呉ボランティアセンター」の働きを知らされた。呉市の教会が力を合わせて天応での働きをしている。
呉山手教会の三矢亮牧師は、大型免許を持っていて懸命に土砂を運搬していた。呉平安教会の小林克哉牧師は、ボランティアをしながら「わたしは牧師です、祈らせてください」と言うと、被災した方が「そうだと思った、お願いします」と言って涙を流し「アーメン」と祈りに心を合わせてくれると言う。
重機やトラックなど災害復旧に必要な機材を揃えてのボランティアセンターの働きは高く評価されている。「キリストさんのお陰でこの道が通れるようになった」。自治会長の溝口さんも「キリストさんのお陰」と言ってくれた。わたしの大切な町、天応で教会の働きが大きな評価をされていることを知り感動した。
(教団総会議長 石橋秀雄)
西日本豪雨緊急救援募金 用い方のお願い
主の御名を讃美いたします。
7月6日~8日にかけて、西日本広域にわたって襲った記録的豪雨のために、「社会委員会・西日本豪雨緊急救援募金」に多額のご献金をお献げいただきありがとうございます。9月19日現在、¥22,784,109をお献げいただいております。
つきましては、このご献金を、前後して起こった、大阪北部地震、台風21号被害のためにも用いさせていただきたいと思います。
どうぞ、皆様のご理解をお願いいたします。
2018年9月27日
日本基督教団総会議長 石橋秀雄
日本基督教団総幹事 秋山 徹
日本基督教団社会委員会委員長 森下 耕
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