シスターフッドの物語
――女たちの経験と歴史――
16すると、ルツは言った、「わたしに無理強いしないでください。あなた〔=ナオミ〕を棄て去ったり、あなたに背を向けて帰ったりするのを。あなたが赴くところにわたしは赴き、あなたが宿るところにわたしは宿るからです。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神だからです。17あなたが亡くなるところでわたしは亡くなり、そこにわたしは葬られたいのです」。
(ルツ記1章16−17節a[私訳])
ルツ記は異邦の地モアブで夫とふたりの息子を亡くしたユダヤ人ナオミが、亡き息子の妻であったモアブ人ルツを伴って郷里のベツレヘムに赴き、そこで苦労しつつも、やがてルツが――ナオミの遠縁である――町の有力者ボアズと結ばれて幸せになるシンデレラストーリーとして理解されます。ナオミとルツは夫を失った寡婦(やもめ)であり、家父長制社会において貧困の底に沈み、とりわけルツが異邦人であったことも相俟って、その苦労の様子はミレーの「落穂拾い」からも広く知られているのではないでしょうか。
ルツ記の内容に関してはいくつもの見解が呈せられています。伝統的な理解としては、ルツ記は夫や息子を失ったナオミとルツが失った以上のものを再び受け取って神から祝福される回復の物語であると説明されます。特に、家族(夫と息子)を失ったふたりが再び家族(夫と息子)を回復する物語として編まれていると言われてもいます。確かに、ルツ記には女たちの自由や独立を阻む家父長制が厳然と横たわっており、結局は家父長制に従って生きざるをえない女たちの桎梏をシンデレラストーリーとして描くことで肯定している――あるいは誤魔化している――ということかもしれません。
また、異邦人であるルツがユダヤ人であるボアズとの間に生んだ男子がダビデ王の祖父であるというストーリーに着目し、ルツ記がユダヤ教の民族主義や排外主義を批判しているとの解釈も示されています。この解釈に立脚すると、ヘブライ語聖書(旧約聖書)にはユダヤ教の選民思想を批判し、ユダヤ人と異邦人の二項対立図式を脱構築する思想が息づいているということが分かります。
しかしながら、担当者がルツ記1章16−17節aのテクストを選んだのは、現代の日本社会において物価の上昇等によって母子家庭が厳しい状況に追い込まれている現状に思いを馳せ、男社会の上から目線のお恵みで生き延びている女たちの状況が古代から現代までずっと続いていることをルツ記から読み取り、暮らしに困窮する者を助けるシステムである「落穂拾い」によって何とか命をつなぐルツとナオミという「女の連帯」に望みを託し、ナオミについていきたいと懇願するルツの姿から、独りよりふたりがいいとの思いを持ったからとのことです。
担当者の読解は、フェミニズム批評ないしジェンダー批評による聖書解釈が示しているように、ルツとナオミの間に「シスターフッド」(女たちの連帯/女同士の絆)を読み取る理解を示しています。これまでわたしはクィア理論を用いてルツ記1章16−17節aのテクストを理解し、ナオミ向けて発せられたルツの言葉は情熱的なプロポーズのようであることから、ルツとナオミという女性と女性の間の愛をここに読み取ることが可能だとの意見に同意してきました。ルツとナオミの間に恋愛関係を認めることにもテクストは開かれているとの思いに今も変わりはないのですが、改めてルツ記を読み直してみると、ここにはやはりルツとナオミの世代を超えたシスターフッドの物語(歴史)が描かれているとの思いを再確認させられるのです。
このような思いに駆られるのは、富坂キリスト教センター編/山下明子・山口里子・大嶋果織・堀江有里・水島祥子・工藤万理江・藤原佐和子著『日本におけるキリスト教フェミニスト運動史――1970年から2022年まで』(新教出版社、2023年)を読んだ直後にこの原稿を書いているということも関係しているのかもしれません。久しぶりにワクワクしながら読んだのですが、ここには世代を超えたシスターフッドの歴史(物語)が描かれており、それは同時にこの7名の世代を超えたシスターフッドの共同研究の成果でもあることがうかがわれます。
このように昂揚した気分でルツ記1章16−17節aのテクストを再読したのですが、ルツとナオミの女たちの物語(歴史)と『日本におけるキリスト教フェミニスト運動史』に登場する女たちの歴史(物語)の間にも、家父長制社会の桎梏に抗って生き抜いてきた女たちの経験と歴史が世代を超えたシスターフッドの物語として連綿と続いているとの思いを新たにします。
2025年4月はレントからイースター(4月20日)に向かう時期です。イエスの受難と復活の物語とルツのナオミの苦難と回復の物語をインターテクスチュアルに読み比べることで、新たな発見があるのではないでしょうか。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン:宗利淳一)
「復活の主の呼びかけ」
ヨハネによる福音書 20章11-18節
安行教会
田中かおる 牧師
皆さんは、電車の通勤ラッシュを経験したことがおありでしょうか?
日本の電車の通勤ラッシュの凄まじさは、先進国においては世界有数…と聞きます。最も混む場合は、一つの車両についての定員の約1.8~2倍(180%~200%)の人が詰め込まれている、ともいわれてもいます(国土交通省)。
ある時、私は、ちょうどこのラッシュ時に、電車に乗ろうとしたことがありました。ホームで並んで列車の到着を待っていたのですが、到着した列車は扉が開いた時点ですでに満員で、降りる人もなく、これ以上、どうやって入ったらよいのだろう…と一瞬、躊躇してしまいました。たじろいでいる私をよけて、他の多くの人は満杯の車両に更に身体をねじ込むようにして乗り込み、扉がしまるのが不思議なくらい飛び出ていた人々でしたが、なんとか中にねじり入っていくのを茫然とみるだけで、とてもこの中には、入っていけない…とたじろいだ経験があります。しかし、1台見送ってところで、次の電車も同じ事だったので、押し込まれながら、満員電車に乗り込みました。たまに電車に乗る私には異様な空間でも、毎日、こうやって通勤している人が何万人といるわけで、「都会の人々は、こんなふうに、人間としての感性を殺すことから1日を始めているんだ…」と車中で思ったことでした。
この話をある友人にしたら、「車中の人達を、人だと意識したら乗れないわよ。感覚を麻痺させることね。乗る時のコツは、まず、後ろ向きに乗り込み、足を一歩踏み入れる!片足がはいれば成功!その足を基軸に体重をかけて体を押し込むのよ、足よ足!」と教えてくれました。ため息がでました。
さて、そういう満員電車ですが、ある時、ある鉄道会社が、面白い実験をした、という話をききました。一体、ひとつの車両にどれくらいの人が乗り込めるのか…という実験だったそうです。お互いに面識のない人たちばかりを集めて、まず、最初に、押し込み係の駅員にも手伝ってもらって、満員の状態で詰め込めるだけ、人を詰め込んだそうです。そのあと、一旦、全員、車両からおりてもらって、そこにいた人達に、お互いに自分の名前だけを告げる簡単な自己紹介をしてもらったそうです。「田中です」「鈴木です」というだけの自己紹介です。…そして、その後で、もう一度、同じ車両に入ってもらおうとしたら、どうやってもさっきと同じ人数の人が入れなかったそうです。どうしてだと思いますか?
…たった、一言でも「田中です」「鈴木です」と名前を紹介しあって、言葉をかわしたからです。名前を自己紹介しただけで、そこにいる人々は、すでに物体ではなくなったからです。人間としての感覚を麻痺させることは既にできなくなっていたからです。お互いの存在を、物体でなく、「人」として「人格」として認識すると、今までできていたような無遠慮なひっつきあいは、できなくなってしまったのです。人間としての言葉はただ、名前を告げただけです。しかし、そこにはすでに、物体ではなく「人格」が存在することを認知したのです。
…逆にいうと、定員を遥かに超えた人が車両にはいれるということは、如何に人々が「人格」としての自分と他者を放棄しているか、ということになります。こうやって多くの人の1日が始まる…なんとも、気持ちが重い結果でした。
さてここに、名前を呼ばれ、人格と人格の出会いが生まれて、心の目が開かれた人物がおります、イエスの弟子の一人、マグダラのマリア、です。ここに書かれていることは今から、約2000年前の出来事です。
マリアは泣いていました。
なぜ、泣いていたかといいますと、自分の愛する教師、主イエスのご遺体がなくなっていたからです。墓穴をふさいでいるはずの墓の石が動かされ、その中に安置されているはずの主イエスのご遺体が見当たらなかったからです。
週の初めの日(つまり日曜日)、朝早くの出来事でした。
その3日前の金曜日、尊敬し、愛してやまなかった主イエスは、十字架の上で悲惨な死を遂げました。同じ同胞たちの妬みによって、「神を冒涜した」という無実の罪をきせられ、宗教裁判にかけられ、指導者たちの虚偽の訴えを当時のローマ総督がおさえきれない形になって、十字架刑が執行されたのでした。
この時、主イエスの弟子達は、全く無力でした。自分達にも迫害の火の粉がとんでくることを恐れ、「イエスを見捨てて逃げてしまった」のです(マタイ26:56)。十字架のもとにいたのは、聖書(4つの福音書)は「女性たちであった」と記しています。ヨハネによる福音書だけは、女性達(母マリアとイエスの叔母のマリアと、マグダラのマリア)に加えて、愛する弟子がいた、と記されています。その他のいつもイエスの最も近くにいた男性の弟子の名前は、どこにもでてきません。主イエスの弟子達は無力であったと同時に、形は違っても自分の主を「裏切った」のです。
そういう男性の弟子達にくらべ、聖書は、十字架のもとに、あるいは遠巻きにしながらも女性の弟子たちが主イエスの最後を見届けていた、と報告していることは興味深いことです。
墓穴の前で泣いていたマグダラのマリアも、そういう女性の弟子の一人でした。
マリアは、あるはずの主イエスの御遺体がみつからず、泣いておりましたが、そのマリアの後ろに主イエスが立っておられたのに、そのお方が甦った(=復活した)主イエスだとはわからなかった(14節)と記されています。復活するなんて、2000年前であっても、現代であっても、人間の常識からいうと「あり得ないこと」です。マリアが「わからなかった」のも当然です。
しかし、興味深いことに、そのあとのやりとりで、「マリア」と名を呼ばれたとたん、心の目が開かれ、復活の主イエスを認めることができた、というのです。目の前に入るお方が「ラボニ・先生」だとわかったのは、「マリア」と名前をよばれたからだと、聖書は証言しています。
これは、大事なことです。名前をよばれたとたん、そこには「人格」と「人格」の出会いが起こった、「心の目が開かれる」という出来事が起こったということだからです。聖書は、それを証言しています。
教会は、この出来事を「復活祭(イースター)」として、ずっと大事に守ってきました。「復活」は、なんとも不思議な出来事でありますが、しかし、その復活の主イエス・キリストに確かに名を呼んでいただいたという実感が、教会の人々の原点にあります。(それは、必ずしも音声として聞こえた、ということに限定されません。音声でなくても、このことは「自分への語りかけだ」と思える出会いをさします。)
キリスト教会は、一人一人の名を呼んでくださる主イエス・キリストを信じる人々が集められた「群れ」です。目には見えないけれど、一人一人の「名」を呼んでくさださる主イエス・キリストによって集められた「群れ」です。それは、人種や国をこえての「群れ」です。
実は今、私は中国語が全くできないにもかかわらず、日本基督教団・埼玉中国語伝道所の代務をさせて頂いております。ここにおいて、言語の違い、人種の違い、国の違い、文化の違い、育った環境の違いを超えて、同じ「主イエス・キリスト」に招かれた人たちと、共に礼拝に与れることの幸いを享受させて頂いております。満員電車に詰め込むだけ詰め込むようにして、ここに集められているのではなく、目には見えないけれど、私たち一人一人の名を呼んでくださる主イエス・キリストによって集められている、ということを実感しています。
しかも、私たちの名を呼んでくださる復活の主イエス・キリストは、十字架におかかりになった主です。「神の独り子が、人間の罪の救いのために、神の方が命をかけてとりなしてくださった」のがイエス・キリストの十字架です。この一見、不思議な出来事=イエス・キリストの十字架と復活の出来事を、「自分事」として受け取り、そこに「救いと希望」を見出した人の集まりが「キリスト教の教会」です。この「教会」は、2000年にわたり、世界中に広まりました。主イエス・キリストの十字架と復活を「自分事」として受け止める人が、後を絶たないのです。
世間の人は「何をいっているのやら?」と思うでしょうね。
ですが、「何をいっているのやら?」と思うような出来事が、実は、人間にとっての「救いと希望」であることをはっきりと示しているのが、教会です。主イエス・キリストは、目にはみえないけれど、はっきりとこの私の名前を呼んでくださるお方、「罪からの救い主」であるということに、力を頂いている人々の「群れ」だからです。
「人格」と「人格」との出会いの場、「心の目が開かれる」場である教会に招かれていることに感謝します。と、同時に、ひとりでも多くの人が、この「出会いの場」「心の目が開かれる」場へと足を運んでいただけるよう、私たちはこの「幸い」を全存在をもって伝えて参りましょう。
主は、それを望んでおられます。
私たちの罪を執り成し、私たち一人一人の名を呼んでくださる主イエス・キリストの父なる神さま、
あなたは、その独り子、主イエス・キリストによって、私たちを罪から救い、生きる希望を与えてくださいました。それが、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。この出来事に、神さまの人間への愛のすべてが表されていることを知って感謝します。神さまは、私たち一人一人の名を呼んで、この愛を示してくださっています。
願わくば、その神さまの愛を証しする教会へと一人でも多くの方が足を運ぶこととなりますように。そこにあふれている真の「救いと希望」を「自分事」として受け止め、「生きる力」を受け止めることとなりますように。
そのために、教会を、私たち一人一人を、強めてお用いください。
あなた独り子、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
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