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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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ヨハネによる福音書9・24~41

2025年6月4日
さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
2025年6月3日
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
2025年6月2日

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

2025年6月1日

犠牲を喜ばない神

――誰かを犠牲や生贄にすることを必要としない世界――

19神の犠牲は砕かれた霊。
砕かれ、悔いた心を、
神よ、あなたは見下さない。

(詩編51編19節[私訳])

 詩編51編は自らの罪を悔いる詩人の祈りが詠われています。引用した詩編51編19節はその祈りの中心とされる言葉であり、詩人の切なる願いが綴られています。
 19節冒頭の「神の犠牲」(神の生贄/神の供犠)は「神に対して捧げる犠牲」の意ですが、直前の18節を考慮に入れると、「神が喜ぶ犠牲」を意味すると考えられます。古代ユダヤ教は神殿において動物を犠牲として神に捧げる祭儀を中心に置く宗教でした。にもかかわらず、この詩編の詩人は「神が喜ぶ犠牲」は動物を犠牲として捧げることではないというのです。これは神殿祭儀に対する明らかな批判であり、その批判の先に詩人は「神が喜ぶ犠牲」とは「砕かれた霊」や「砕かれ、悔いた心」であるとの理解を示しています。そして、神が「砕かれた霊」や「砕かれ、悔いた心」を「見下さない」と述べることによって、この詩人は真に大切なのは個々の人間が罪を自覚し、その罪を悔い、神に赦されることだと訴えているのです。
 詩編51編を読み、特にそのクライマックスである19節の意味を再読すると、ここには罪意識の内面化と個人化という新たな事態が生じているように感じられます。ここで問題となっている神殿祭儀の儀礼とは、一定の集団の罪を犠牲の動物に代償させることで、その集団の贖罪とする供犠を表します。そこにある罪意識はあくまでも集団の罪意識であり、しかもそこで代償となる動物に罪を背負わせるゆえに、個々人の罪意識は曖昧になり、動物犠牲の祭儀そのものが形骸化してしまう危険性を孕んでいます。しかし、詩編の詩人は罪意識を内面化することによって、動物犠牲という代償による儀礼的・集団的な贖罪信仰から罪の悔い改めによる内面的・個人的な救済信仰という新たな次元に踏み出しているのです。
 伝統的な解釈に従えば、詩編51編が示す信仰は贖宥券(免罪符)に象徴されるローマ・カトリックの形骸化を批判するなかから生まれたプロテスタントの信仰と通底すると説明することができます。典型的な悔い改めの詩と言われる詩編51編がプロテスタント教会において大切にされてきたのもどこか頷けると言えるでしょうか。今月の聖書テクストは担当者が若い人に「好きな聖書箇所はどこか」と尋ねてみて決まったとのことですが、そこで詩編51編があげられるというのは、プロテスタンティズムが継承されている証しと言えるのかもしれません。もっとも、担当者が今月の聖書テクストとして詩編51編19節を選んだのは、プロテスタンティズムの継承を目論んでのことではなく、そこに刻まれている「犠牲=生贄」という「生々しい言葉」や「打ち砕かれる」という「痛々しさ」に引き裂かれるような思いに駆られたからのようです。
 しばしばわたしたちは戦争の被害者を犠牲者と呼ぶことがあります。どこかでわたしたちは犠牲者という表現を用いることで、戦争によって殺された人たちの死を平和の代償や平和のための犠牲(生贄)でもあるかのようにしてしまってはいないでしょうか。しかし、詩編51編19節は誰かの死を代償とするような犠牲の祭儀(供犠)をはっきりと否定しています(それに続く20−21節は後代の付加)。しかも、直前の詩編51編18節からも明らかなように、そこで否定されているのは「犠牲」および「焼き尽くす献げ物/燔祭」なのです。
 ご存知の方も多いとは思いますが、ヘブライ語聖書の「焼き尽くす献げ物/燔祭」がギリシャ語七十人訳聖書を経由して現代の西洋語になったのが「ホロコースト」です。ですから、詩編51編の神は「ホロコースト」を含めたあらゆる「犠牲を喜ばない神」なのです。むろん、それはナチ・ドイツによるユダヤ人の「ホロコースト」を神は喜ばないということを想起し続けると同時に、現在イスラエルがガザで行っている虐殺もまた「ホロコースト」として、同じ神が喜ばないということを突きつけ続けていくことでもあります。
 そして、詩編51編の神は――「ホロコースト」のみならず――あらゆる「犠牲を喜ばない神」でもあるのですから、過去・現在・未来へと続いている戦争による「犠牲」をも喜ばないのです。詩編51編の詩人が求めた犠牲を必要としない世界は、現代世界を生きるわたしたちにとっても重要なものであり、「戦争」をはじめとする誰かを「犠牲」や「生贄」とすることを必要としない世界を求めていきたいとの思いを新たにします。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン:宗利淳一)

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
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