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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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テトスへの手紙1・1~16

2022年7月2日

 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。

 あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。 長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。 監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、 >かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。
 実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。

「クレタ人はいつもうそつき、
悪い獣、怠惰な大食漢だ。」

 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。

2022年7月1日

 7月22日はマグダラのマリアの記念日です。近年の研究は彼女が傑出したイエスの弟子であったことを明らかにしています。ローマのヒッポリュトスは復活の最初の証人である彼女に「使徒たちのなかの使徒」という最高の称号を贈っていますが、その一方でペトロを復活の最初の証人とするために、「罪の女」のラベルを貼って彼女を貶めることも繰り返されてきました。東方教会にはマリアを「罪の女」とする意見はありませんので、西方教会が男性の権力を守るためにマリアを貶めてきたのだと考えられます。プロテスタントには基本的に聖人の制度はありませんが、ジェンダーバイアスから自由になる日として、マグダラのマリアの記念日を覚えたいのです。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一

「うつむかないで空を見上げて」

聖書個所:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
マタイによる福音書6章25-34節

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龍野教会
牧師 車田 誠治

 龍野教会が大切にしている活動に、姫路での炊き出しがあります。
 隣の姫路市にあるカトリック教会に場所を借りて、レインボーというボランティア団体の活動に加わる形で行っています。
 毎月行われる炊き出しには、50人くらいの方が食事を受け取りに来られます。
 食事を受け取りに来られるのは、ホームレスの人だけでなく、元々ホームレスだったが今は、アパートに住んでいる人や、少ない年金をやりくりしている人、働いているけど収入が少ない人、他にもそれぞれの事情で生活に苦しい人が来られています。
 お手伝いしてくださるボランティアもカトリックの人も、プロテスタントの人もいるし、教会に接点のない人もいます。近隣の中高生や大学生も手伝いに来てくれますし、他にも特に何かに属しているわけではない人も多いですが、それぞれが思いを持って集まって、調理をして、食事を届けたり、衣類を配布したりといった活動を一緒に行なっています。
 ここ2年ほどはコロナ禍ということもあって、集まることも一緒に食事をすることも難しくなり、活動が難しかったのですが、お弁当にして持ち帰る形にしたり、感染対策を工夫しながら活動を続けてきました。
 最近は感染対策をしながらの活動にも慣れて、活動もしやすくなってきたのですが、なかなか以前のように世間話から生活の相談へ、必要であれば福祉や法律、医療の専門家に繋ぐということはできずにいます。
 貧困困窮者の支援というのが、第一の目的なのですが、その活動の中で、ついつい上からの物言いになったり、凝り固まった考えになりがちな、自分自身に気づく時があります。同時にそんな考えを打ち砕いてくれる場面と時々出会うこともあります。

 例えばアルミ缶集めをしているおじさんが、アルミ缶の買取価格の変動、そこからの経済の動向、国際情勢について独自の見解を語っているのを、ボランティアの学生だけでなく、大人たちも熱心に聞き入っていたり、お弁当を配布する前に、ボランティアが集まって何をしているのかと思ったら、その時に初めて参加した高校生がバイトで培ったレジ袋を素早く開ける技術を披露していて、そこに次々と大人たちが「私にも教えて」と集まってきてチャレンジしている様子はなかなか微笑ましい場面もありました。

 路上で生活する人を訪問する中で、ボランティアの一人が「コロナの給付金は受け取れましたか?ホームレス状態でも受け取れるらしいから早めに手続きした方が」と声をかけました。
 姫路でホームレスをしている人は、何人か私もお手伝いをしたので分かるのですが、細いいくつものハードルがあり、ほとんどの人が給付金を受け取ることはできませんでした。この人も受け取れなかった中の1人なのですが、その質問に怒ることなく「役所までNPOの人といったけどあかんかったよ」とその様子を説明しつつ「まぁ10万円貰わんでもオレたちは、何とかやっていけるけどね」というふうに締め括っておられました。
 それを聞いたボランティアは初めは「ニュースでは、受け取れると言っていたのに」と困惑していた様子でしたが、帰り際には「ニュースの見方について、貴重な示唆をいただきました」と言って帰って行かれました。
 何もかも理想的にうまく行っているとは言い難い、大変なことも多いし、できることの少なさに打ちひしがれることもありますが、こういった出来事や出会いを通して、一方的に与える側、受け取る側が存在するのではなく、それぞれが、大切なものを持って帰れる場としての意味があると感じ、気持ちを新たにされて、続けていけているのだと思っています。

 聖書はマタイ福音書6章25節から34節。 
 ここではイエスの話を聞くために多くの人が集まっています。集まった人の境遇も様々だろうし、イエスに求めるもの、期待するものもそれぞれだったのではないでしょうか。それでも大きく二つのグループにわけることができると思います。
 一つのグループはイエスについていけば、良いことがありそう、都会のエルサレムにまで行って一旗あげようと、野心を抱いていて、上をばかりを見上げている人。
 もう一つは、イエスについて行く以外に居場所がない。何をやってもうまくいかない。何もいいことがないと俯いてばかりいる人。
 一方はイエスの話を聞いても、自分に都合よく解釈してはしゃいだりしている、もう一方は話を聞いても、逆に不安を募らせて落ち込んでばかりいる。
 そんな極端な相反する反応をする人たちに向けられたイエスの言葉には、それぞれに届くものがあったのではないでしょうか。

 野心を抱く人には、これから向かう、エルサレムの神殿を思い起こさせながら「空を見上げたとき、鳥が飛ぶのを見ることができるでしょ。神殿の屋根の上に、皆に嫌われていたカラスが止まったりもするでしょう。人間が作った建物などたかが知れている。神が作られ、人々が嫌うカラスですら、それよりも高いところを行く。上ばかり見ずにしっかりと足元もご覧なさい」と。
 逆にしたばかり見て俯く人には「地面に生えている綺麗な花を見つけられるでしょ、人間がいくら着飾ってもこうはいかないよ!あなたがふみしめている地面には、そんな神からの力が秘められているのですよ。俯いてばかりいないで、空も見上げて見なさい。他にも神が作られたたくさんの素晴らしいものがありますよ」
 イエスの言葉に促されて、自然を観察するなら、その自然を通して、恵を与えられて神に生かされていることに気づくことができるのではないでしょうか。もっと周りを観察すれば、その時同時に、隣にいる人の存在に気づく。考え方は違い、時に意見は衝突しても、共に歩む仲間の存在に気づくことができるようになる。
 聖書に記されているイエスの言葉は、思い込みや思い悩みを打ち砕いて、自由で柔軟な考えを持つことを促し、独りよがりではない、隣人とともに歩む、命への道を示してくださるのではないでしょうか。

 

8/1(月)〜8/30(火)第73回キリスト教視聴覚教育講習会inオンラインが開催されます。
詳細はキリスト教視聴覚センター(AVACO)のホームページをご覧ください。
https://avaco.info/

 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

 ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。わたしはティキコをエフェソに遣わしました。あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主は、その仕業に応じて彼にお報いになります。あなたも彼には用心しなさい。彼はわたしたちの語ることに激しく反対したからです。
 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

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