インスタグラムアイコンツイッターアイコンyoutubeアイコンメールアイコン
日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
message

【2023年8月】今月のメッセージ「エウティコという生き方」

2023年8月1日

エウティコという生き方

聖書個所:週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
使徒言行録20章7~12節
 動画はこちらから

日本基督教団 伊東教会
牧師 上田 彰

 キリスト教の中では、幸せということはよく語られます。主の教えを愛する者は幸いであると詩人は語り、貧しい者の幸い、また見ないで信じる者の幸いを主イエスは語ります。一方で、教会という枠をはずして世間に目を向けますと、よく聞くのは、「幸福」よりもむしろ「幸運」です。「運がつきまくる」とか、「幸運の星の下に生まれる」「運命の人と出会う」などはすべて「運」に関する物言いですが、幸運というのは幸福とは微妙に違う気もします。
 今日の登場人物であるエウティコというのは、その名前の由来は「幸運」です。日本語でいえば幸多郎、という感じでしょうか。しかし、この名前の元の言葉であるエウトゥキアという言葉を辞書で立ち入って調べてみますと、確かに元々は「運」を強調する意味合い、英語でいうgood luck、という意味合いなのですが、そのうちに、「幸福」、ドイツ語でいうGlu”ckを意味するようになるのです。この場合の幸運と幸福の違いは、感謝が含まれるかどうか、です。良いタイミングに巡り会うことが出来た。そのことに感謝をする。だから幸福でもある。エウティコとは日本語でいえば「感謝太郎」という意味合いにもなる、というわけです。
 使徒言行録の教会の人たちは、この日の出来事を、よいタイミングに巡り合わせた出来事として、感謝して受け止めました。
 パウロが翌日出発するため、日曜の夜にもう一度教会のメンバーが集まりました。パウロにもまだ話し足りないことがたっぷりあったのか、真夜中まで話が続いたといいます。どのくらいの人々がそこにいたのかは分かりませんが、若い人が窓際に腰掛けざるを得なかったようです。
 ところが、彼は眠ってしまった。その理由については今回は詮索しません。パウロは、書く文章に比べれば話すのが下手だったという話もありましたし、夜中であったということも理由になり得ると思います。問題は、眠りこけて窓から落ちてしまった、ということです。場所は三階。そこから落ちた彼の「運命」はさあいかに。
 先に駆けつけた人たちの中に、おそらく、医者のルカが入っていて、彼自身が死亡を確認したと想像できます。脈を取ってから、うなだれて首を振る。周りにいる人たちが一斉に肩を落とす。
 そこに遅れてやって来たのが説教者、パウロです。彼は、倒れている若者を取り囲む、時間が止まったかのように悲しみ始めている人々の間に割って入り、そして彼を抱き上げて宣言します。「騒ぐ必要は無い。彼は生きている」。説教の最中に彼はその作業を中断して、不慮の事故で亡くなっていたかに思われていた若者を生き返らせて、そして説教を続けるのです。
 私自身、一人の説教者として、考えさせられました。自分は同じようにするだろうか、と。多くの説教者とおそらく同じように、可能な限り「何も無かったかのように」説教を続けようとするのではないか、と思いました。例えば、皆が、もうこれは説教やパン割き、礼拝どころではないと言い出して、気もそぞろになってしまう。今でいえば、礼拝が中断して自称関係者が次々と礼拝堂を出てしまう。気まずい思いで残っている人たちと礼拝を献げ、説教を続ける。そうなってしまう可能性を思えば、むしろ少なくとも説教者だけは説教に集中し、あたかも何もなかったかのように説教を続けた方が良いのではないか。
 ただ、一方で思うのです。礼拝において、あるいは説教において、アドリブというのはどこまで可能なのだろうか。例えば野の花、空の鳥を見よという箇所で説教をしていて、そこに烏の鳴き声が聞こえてきた。それなら、ああ、エリヤを救ったあの烏もまた、空の鳥の一員なのです、とアドリブで語れればなんと礼拝が生き生きとしたものとなることでしょう。
 原稿を読むことに集中し続けることで礼拝を続けるということもあるでしょう。しかし今そこで起こっていることを説教に取り込むことで、説教をライブのものに、生のものにすることが出来るということもあるのではないでしょうか。礼拝を礼拝とし、説教を説教とするのは聖霊の力です。その力が最大限に生かされる形で、パウロは説教を中断した。いえ、若者のところに駆け寄ることそのものによって、なされるべき説教を彼は続けた。そうも言えるのではないでしょうか。悲しみのあまり止まりかけていた時間の流れは、再び動き始めます。
 牧師になるために勉強を重ねる中で出会った一人の恩師が、口癖のように次のようなことをおっしゃっていたのを思い出しました。「教会では、無事という言葉は使ってはいけない。無事に集会や行事が終わりました、というようなことは本当はあってはならない。礼拝では、なにかが起こるはずだからだ」。人間の考える計画通りになにかが起こる、というのでは十分ではない。確かに、使徒言行録とは、起こり続けるハプニングの記録でもあります。
 今日の箇所では、人がよみがえるという「ハプニング」が起こりました。予定外に起きた復活の出来事です。しかし人々が驚いているのは、そして慰められているのは、よみがえりが起こったということそのものだけではないようです。むしろ、そのハプニングが起こったにもかかわらず、礼拝がいつも以上に豊かに献げられている、ということです。まさにすべてのことが「よいタイミング」で起こったのです。
 こういったことを考え合わせたときに、エウティコのよみがえりの意味がはっきりするように思います。若者は死に、そして生き返りました。ちなみに今日の箇所では、生き返ったシーンははっきり描かれていません。生き返ったシーンをことさらに取り上げる必要がなかったようなのです。
 気づかされます。私たちは、自分の力で生き、努力をしているつもりでいます。言ってみれば、死なないように努力をしています。生きることと死ぬことは、対極の事柄であって、たとえば地球の南極と北極のように、決して近づくことのない二つの相反する現象である。これが私たちの持ち合わせている常識です。
 しかし、宇宙飛行船に乗って地球から離れていけば南極と北極の違いが大きなものではなくなってしまうのと同じように、キリストによって生かされていることとキリストによって命を取られることとの間にはそれほど大きな違いはないのかもしれません。
 この教会の人たちにとって、エウティコが主の御言葉によって命が取られたことが明らかであった以上、主の言葉によってまた生かされることも明らかだったのです。だからパウロが「彼は生きている」と宣言すれば、それはもう間違いなくキリストによって生かされている。だから復活の記述が省略できたのではないか。主にあって生き、主にあって死ぬ。あるいは主とともに死に、主とともに生かされる。このことについて改めて考えさせられます。
 今日の箇所で、幸いになったのは誰でしょうか。なんと言っても生き返ったエウティコ本人でしょう。彼は幸運なだけではなく、また感謝することが出来ます。また、その現場を目の当たりに出来た人たちもまた、突発的な出来事が神さまの示した調和の中に収まっていったことを知り、慰められました。もう一人、この良いタイミングの出来事に出会い主に感謝する者がいます。それはパウロです。彼は今起こった、よみがえりの出来事に立ち会うことそのものを、説教の一部に取り込む形で、織り込む形で、説教を続けるという忘れがたい体験をしたのです。
 自分のこととして考える場合に、気になってしまいます。私は、この幸いなタイミングを逃さないような、聖霊の自由を受け入れる形で礼拝に与っているだろうか。さらには日常の生活を生きているだろうか。人間の秩序としてではなく、主にある秩序としての礼拝を実現し、また教会員と共に歩んでいるだろうか。
 この時にはこうすれば良い、というような唯一の正解などはありません。すべての説教者が、すべての信仰者が、一生抱える課題であってよいと思います。
 しかし、この日の集まりで出来事を目撃したルカやパウロは、神の与えるタイミングということについて深く考えさせられ、また深く感謝したのは事実です。
 主によって命を取られ、そして主によって生かされる私たちは幸いです。出来事が起こり、感謝をする。これがエウティコという生き方です。
 神さまの祝福が皆様と共にありますように。アーメン。

 

安心して眠れる夜を
――ひとりひとりの生と平和を大切に――

6わたしは横たわって眠り、目を覚ましました。
ヤハウェがわたしを支えてくださるからです。
7わたしは恐れません。
取り囲んでわたしに迫り来る万の民を。
(詩編3編6−7節[私訳])

 詩編3編6−7節は身を横たえることすらままならない苦悩の最中で、いつぶりかと思えるように安心して眠り、目が覚めたら朝を迎えていたというただそれだけのことが、いかに幸いであるのかを詠っています。この詩には誰しもが経験する悲嘆や苦悩が詠われており、詩編の詩人も孤独に苛まれて眠れぬ夜を過ごすわたしたちと変わらぬ苦悩を抱えていたことに慰められる思いがします。しかし、日本の侵略戦争を懺悔しつつ、広島、長崎、沖縄にも思いを馳せる暑い夏にこの詩編を読むと、やはり戦時下の状況が浮かんできます。戦争は民族や国などの一定の社会的集団の問題として大局的に捉えられる傾向にありますが、そこに個々の人間がおり、個々の「生」(生命・人生・生活)があるということが忘れられているとの感を禁じえません。詩編3編6−7節は民族や王国という社会的集団よりも、ひとりの詩人の「生」に徹底してこだわり、ひとりの人間存在にフォーカスを当てています。神学的に戦争や国家を省察することも重要かもしれませんが、せめて8月だけは安心して眠れぬ夜を過ごしている個々の人間の思いに寄り添い、ひとりひとりの生と平和を大切にする日々にしたいのです。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一

2023年8月

神の支配の平和に生きるために

日本基督教団社会委員会
委員長 柳谷知之

 2022年12月、岸田政権は安保関連3文書(「国家安全保障戦略」、「国家防衛戦略」、「防衛力整備計画」)の改訂を閣議決定し、20236月、「防衛力強化2法」(「防衛財源確保法」、「防衛生産基盤強化法」)を成立させました。今、私たちの国は、防衛費倍増、敵地攻撃能力保有という「軍拡」への道を突き進んでいます。しかし、この「軍拡」には以下のような大きな問題をはらんでいます。

1.敵地攻撃能力は、東アジアの軍事的緊張を増大させます。 
 敵基地攻撃能力の保有は、九州・沖縄から台湾、フィリピンを結ぶ「第1列島線」に沿って対中国ミサイル包囲網を構築しようとする米軍の計画に呼応するものです。政府は、これを「反撃能力」と言い換え、専守防衛の範囲内と説明していますが、敵による武力攻撃開始の判断は難しく、標的もミサイル基地だけに限られない以上、これは先制攻撃能力に等しいものであり、かえって地域の軍事的緊張を増大させます。

2.資源のない日本は、ミサイル防衛では国を守ることはできません。
 日本は食料の約6割を他国に頼り、エネルギー資源のほとんどを自国で調達することはできません。ウクライナ-ロシア戦争においても、食料やガソリン等の物価は高騰しました。ましてや日本が戦争状態に入れば、食料やエネルギーの確保はできず、国民の生活は困窮を究めることになります。どんな最新鋭の武器を擁したとしても、国民を守ることはできません。

3.防衛力強化のために国民の生活が脅かされます。
 岸田首相は、20225月の日米首脳会談で「防衛費の相当な増額」をバイデン大統領に誓約し、GDP2%を宣言しました。「5年間で総額43兆円」という防衛費の支出規模ばかりが先行し、内容と財源の根拠は示されていません。防衛費の拡大は、暮らしに必要な財源の不足を招き、国民の生活はますます脅かされます。

4.日米安保により米国に同調することによって、際限のない軍拡にと進みます。
 この軍拡はアメリカの対中国戦略の変容に対応して、日本の軍事的役割を強化するものです。米中の衝突が起きた場合、アメリカと一体となって中国を攻撃するための軍拡である以上、それは際限のない軍拡へと突きみ、米中間、日中間の緊張は一層高まります。

5.軍拡は、戦争協力を求め、民主主義を破壊します。
「防衛生産基盤強化法」は、軍需・武器輸出産業への財政支援、貸付促進、事業継続が困難な企業の国有化等が定められ、これにより武器輸出の促進と、軍需産業の実質的「国営化」が進められます。さらに、「装備品等機密」という曖昧な指定により、軍需産業従業員に対する「守秘義務」と刑事罰が定められていました。「軍拡」のための法整備により、民主主義と平和主義は破壊されます。

 聖書は武力と暴力に頼ることについて、次のように警告しています。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ2652節)、「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。」(詩編6211節)。さらに、終わりの日に、武器が平和の道具に変えられるビジョンを打ち出しています。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(ミカ書43節)。この平和のビジョンは、日本国憲法の「平和主義」とも響き合っています。
 私たちは岸田内閣によって進められている「軍拡」に抗議するとともに、関連する決議や法律の撤回を強く求めます。日本国憲法の「平和主義」に基づく外交努力を第一とし、武力によらない対話による平和構築の推進を求めます。
 「主よ、御国を来たらせたまえ」と主の平和の到来を共に祈りましょう。
 また、このような声は教会内外問わず決して少なくはありません。平和を実現するために共に働きましょう。

以上。

社会委員会平和メッセージ(PDF)

わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。 すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」 彼がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」 彼がこう話している間に、わたしは気を失って地に倒れたが、彼はわたしを捕らえて立ち上がらせ、 こう言った。「見よ、この怒りの時の終わりに何が起こるかをお前に示そう。定められた時には終わりがある。 お前の見た二本の角のある雄羊はメディアとペルシアの王である。 また、あの毛深い雄山羊はギリシアの王である。その額の大きな角は第一の王だ。 その角が折れて代わりに四本の角が生えたが、それはこの国から、それほどの力を持たない四つの国が立つということである。
 四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして
高慢で狡猾な一人の王が起こる。
 自力によらずに強大になり
驚くべき破壊を行い、ほしいままにふるまい
力ある者、聖なる民を滅ぼす。
 才知にたけ
その手にかかればどんな悪だくみも成功し
驕り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。
ついに最も大いなる君に敵対し
人の手によらずに滅ぼされる。
 この夜と朝の幻について
わたしの言うことは真実だ。
しかし、お前は見たことを秘密にしておきなさい。
まだその日は遠い。」
 わたしダニエルは疲れ果てて、何日か病気になっていた。その後、起きて宮廷の務めに戻った。しかし、この幻にぼう然となり、理解できずにいた。

2023年7月31日

秋田豪雨災害支援募金のお願い

 主イエス・キリストの御名を賛美いたします。
 去る71416日の大雨により、秋田県の秋田市、男鹿市、五城目町などの地域は、家屋や田畑への浸水、土砂崩れといった甚大な被害に見舞われました。特に、日本基督教団の教会関係では、秋田楢山教会の教会堂と牧師館が床下浸水となったほか、秋田市内の教団の教会の信徒宅が、床上浸水(727日現在4軒)、床下浸水(同11軒)といった被害に遭っています。
 この度、奥羽教区では、教区常置委員会のもとに「秋田豪雨災害支援委員会」(委員長:中西絵津子教師)を設置し、被害に遭われた教会や信徒の方たちの支援活動を進めております。現在のところ、信徒宅ではすでに家族や近所の方たち、および、教会員の方たちの協力のもとに片付けや清掃等の作業が進められています。しかしながら秋田楢山教会においては、教会堂・牧師館の床下全面に泥水が入り込んでしまったため、今後、ボランティアの方たちに来ていただき、業者にもお願いして、床下の泥の除去・乾燥・消毒作業を行う予定でおります。
 つきましては、教会堂・牧師館損壊箇所の修理、使用不能となった備品(除雪機、車など)の購入、ボランティア受け入れ関係費用、そして、浸水被害に遭われた教会と信徒宅へのお見舞等のため、下記のように募金を開始することにいたしました。
 どうぞ、祈りと共に支援募金にご協力くださいますよう、よろしくお願いいたします。

      2023729

                             日本基督教団 奥羽教区
総会議長 小林よう子
常 置 委 員 会

〇 目 標 額  380万円
〇 使  途

①被災教会・信徒宅補修支援    150万円
②被災教会・牧師館備品購入支援  130万円
③ボランティア受け入れ費用支援   80万円
④その他              20万円

〇 募金期間 2023年8月1日~11月30日
〇 送 金 先

振替口座 記号番号 02330-9-1432
加入者名 日本基督教団奥羽教区

*通信欄に、「秋田豪雨災害支援」または「秋田支援」とお書きください。
*「振替払込請求書兼受領証」をもって領収書とさせていただきますが、別に領収書が必要な場合は、通信欄に「領収書必要」とお書きください。

秋田豪雨災害支援募金のお願い(PDF)

PageTOP
日本基督教団 
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2025
The United Church of Christ in Japan