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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【2026年2月】今月のメッセージ「「正しさ」を超えて」

2026年2月1日

「正しさ」を超えて

それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 こう書いてあります。

「主は言われる。
『わたしは生きている。
すべてのひざはわたしの前にかがみ、
すべての舌が神をほめたたえる』と。」

それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
ローマの信徒への手紙14章10~23節

 

旭川星光伝道所・美馬牛福音伝道所
齋藤麻実 牧師

 

 皆さんは、良かれと思ってやったことが、なぜか相手を困らせてしまったり、逆に自分が親切をされて、ありがたいはずなのに心が重くなってしまった……というような経験はありませんか?
「自分は正しいことをしているはずなのに、どうしてうまくいかないんだろう」。そんな葛藤のヒントになる言葉が、聖書の中に書かれています。今日は、私が経験した「失敗談」も交えながら、本当の意味で「共に生きる」とはどういうことなのか、一緒に考えてみたいと思います。
 聖書の中に、パウロという人が書いた手紙があります。その中に、当時の教会の人間関係のトラブルについて触れている箇所があるのです。
 当時の人たちにとって、何を食べるか、どの日を大切にするか、というのはとても大きな問題でした。
 新しい価値観を受け入れて「何を食べても自由だ!」と振る舞う人。
 一方で、これまでの習慣を大切にして「特定のものは食べられない」「この日は特別だ」とこだわる人。
 パウロは、前者を「信仰が強い人」、後者を「信仰が弱い人」と呼びました。でも、これは「どっちが偉い」という意味ではありません。
 問題の本質は、自由な人が「そんな古い考えに縛られてるなんてダメだな」と相手を見下したり、逆に慎重な人が「あんな自由奔放なのは間違っている」と相手を裁いたてしまうことです。
 お互いに「自分の生き方が正しい」と信じているからこそ、衝突が生まれてしまう。これって、今を生きる私たちの日常でもよくあることだと思いませんか?
 私にも忘れられない経験があります。
 わたしの所属している教会では、毎日放課後に教会の礼拝堂を開放しています。そのため、毎日15時になると近所の子どもたちが遊びに来てくれています。数年前、事情があっておうちで満足にご飯が食べられない子が、教会に遊びに来ていました。その子は会うたびに痩せていき、いつもお腹を空かせていました。「この子が教会にいるときくらいは、お腹いっぱい食べさせてあげたい」……そう思った私は、お母さんに許可をもらって、その子が来るたびに食事を準備するようになりました。
 私はそれが「正しいこと」だと信じて疑いませんでした。その子のために祈り、一生懸命動いていました。
 でも、ずっと後になって、私は衝撃的な事実を知ることになります。
 そのお母さんは、実はこう思っていたのです。「どうしてこんな中途半端な時間に、お腹いっぱい食べさせるんだろう……」と。
 せっかくお母さんが準備した夕飯を、その子は食べなくなってしまった。お母さんは悲しく、不信感を抱いていたんです。でも、食べさせてもらっている立場だから、何も言えなかった。
 私は、その子のことは考えていたけれど、お母さんの気持ちを想像できていませんでした。「お腹を空かせている子を放置するなんて」という、世間一般の「正しさの物差し」で相手をジャッジしていたのです。
 私の「善意」は、お母さんにとっては、逃げ場のない「暴力」のようになってしまっていた。もし彼女が勇気を出して話してくれなければ、私はずっと「良いことをしている自分」に酔いしれていたかもしれません。
 聖書には「受けるよりは与える方が幸いである」という有名な言葉があります。誰かの役に立てることは、確かに喜びです。
 でも、一方で「受ける苦しみ」というのも、確かにあるのだと思うのです。
 いつも「与えられる側」に固定されてしまうと、人間関係が「対等の関係」ではなくなってしまいます。そこには目に見えない上下関係が生まれてしまうのです。
 片方が「助けてあげる強い人」、もう片方が「助けてもらう弱い人」。
 その間に「愛」ではなく「正しさ」だけが置かれたとき、私たちは知らず知らずのうちに相手を裁き、分断してしまいます。
 大切なのは、「何をあげるか」という目に見える形ではなく、相手がどんな背景を持って、どんな気持ちでそこにいるのかを「想像すること」ではないでしょうか。
 聖書の今日の一節に、こんな言葉があります。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」
 これはつまり、大切なのは「ルールを守ること」や「正しい行動をすること」そのものではなく、その先にある「平和」や「喜び」、つまり「良い関係」なのだということです。
 立場が違っても、考え方が違っても、お互いに「神様に作られた尊い一人ひとり」として認め合うこと。
 自分の「正しさ」を一度脇に置いて、「この人はどう感じているんだろう?」と寄り添うこと。
 そこにこそ、本当の意味で——聖書が言う「神の国」——があるのだと私は思います。
 人は一人では生きられません。だからこそ、神様は「もう一人の人間」を作られました。
 完璧な自分を目指すのではなく、お互いの弱さや背景を想像し合える、そんな温かい関係を大切にしていきたい。そう願っています。

 

 

 


 13それゆえ、あなたたちの思考の腰に帯を締め、冷静さを保ち、イエス・キリストの顕現においてあなたたちにもたらされる恵みを完全に希望しなさい。14。従順の子どもたちとして、かつてあなたたちの無知のうちにあった欲望と同じ姿にならずに、15むしろあなたたちを招かれた聖なる方に従って、あなたたち自身も暮らしぶりのあらゆる点において聖なる者になりなさい。16なぜなら、「このわたしが聖なる者なのだから、あなたたちは聖なる者であるがよい」と書かれているからである。

(ペトロの手紙一1章13−16節[私訳])

 

 Ⅰペトロ書1:13−16は、理知的に物事を考え、冷静にその本質を見極め、思慮のない欲望にまみれたこの世界に迎合することなく、神に召された者に相応しい生き方をするように勧めています。これはかなりハードルの高い要求です。その行き着く先は、清貧のような敬虔で遜った生き方になることもあれば、選民意識やエリート意識に凝り固まった傲慢な生き方になってしまうこともあるように感じられます。とはいえ、自分自身で物事をしっかりと考え、冷静さを保って生きるというのは、現代の国際社会および日本社会の混沌とした情勢を考えると、とても大切なことを伝えていることは間違いありません。
 今回ギリシャ語原文を一読するまでは、これまで新共同訳聖書の訳文に慣れ親しんできたこともあって、このテクストは忠誠心に溢れた従順な人間になるよう勧めているとばかり思っていました。というのも、新共同訳はⅠペトロ書1:13−16を以下のように翻訳しているからです。

 

   13だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、15召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。16「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
(ペトロの手紙一1章13−16節[新共同訳])

 

 とりわけ新共同訳の「心を引き締め」「身を慎んで」「従順な子となり」といった表現から、このテクストは従順な人間になるよう求めていると思い込んでしまっていたのです。もっとも、このような思い込みをしてしまったのには、ほかにも理由があります。それはⅠペトロ2:13−3:7が「市民の王に対する服従」(2:13−17)、「召使の主人に対する服従」(2:18−25)、「妻(女)の夫(男)に対する服従」(3:1−7)を命じており、君主制(政治統治機構)、奴隷制(身分制度)、家父長制(男性中心主義)を肯定するのみならず、それらがより強固になるように支えてきたからにほかなりません。
 しかし、今回このテクストを一読して、Ⅰペトロ書1:13−16に関しては、これまで持っていた印象は一面的なものだということに気づかされました。この印象は新共同訳と私訳を比較することで分かっていただけると思いますが、ここでは以下の3つの表現に的を絞って説明をしてみたいと思います。

 

新共同訳

私訳

心を引き締め

思考の腰に帯を締め

身を慎んで

冷静さを保ち

従順な子となり

従順の子どもたちとして

 

 最初の「心を引き締め」ですが、この翻訳では、決意をしたり、心持ちをしっかりしたりするといった内面の問題や精神論を想起してしまいますが、原文は「思考の腰に帯を締め」です。「腰に帯を締める」に「思考」を意味するδιάνοια(ディアノイア)をくっつけているのですが、ほかには出て来ない変わった組み合わせの表現です。もっとも、ディアノイアは「思考」「思念」「理解「考え方」「知性」などの意味ですから、「思考の腰に帯を締め」とは、心の持ちようが問題になっているわけではなく、自分自身で物事をしっかり考え、理解しようとする理知的な振る舞いが求められているということです。
 次の「身を慎んで」ですが、この翻訳だと、公序良俗に反しない真っ当な生き方をする「慎み深さ」が求められているような印象を受けてしまいますが、原語のνήφω(ネーフォー)という動詞は「酒を飲んでいない」「酒に酔ってない」「しらふである」が本来の意味です。そして、それが比喩的に用いられて、「自制する」という意味でも使われます。おそらく、新共同訳はこのニュアンスで口語訳の「身を慎む」を継承しているだと思います。しかしながら、ここで問題になっているのは「しらふでいる」ことですので、この世の潮流に巻き込まれたり、流されたりせずに、「冷静でいる」ことや「醒めている」状態を保ち続けるよう勧めているのです。
 最後の「従順な子となり」ですが、この翻訳だと、やはり従順な人間になることを要求されているように思えるのですが、原語は「従順の子どもたちとして」です。「〜の子どもたち」はヘブライ語的な表現であり、「〜に属する者たち」を意味します。ここでは1:2の「イエス・キリストの従順と血の注ぎへと〔召されている者たち〕」としてのⅠペトロ書の受信人である教会の人たちを指して用いられています。そして、この「従順の子どもたち」は後続の15、16節において「聖なる者」と言い換えられています。ですから、「従順の子どもたち」とは、「聖なる方」(神)に招かれた「聖なる者」として、「暮らしぶりのあらゆる点において聖なる者」になるよう勧められていますので、この世と迎合したり、妥協したりすることのない生き方が求められていると言えるのです。
 このようにⅠペトロ書1:13−16は、自分自身で理知的に物事を考え、冷静に物事の本質を見極め、この世界と迎合することなく、神に召された者として生きることが勧められているのです。2026年1月のキリスト教の小部屋において「混沌(カオス)の世界に生きる一年を」という文章を書きましたが、その1ヶ月後の日本の政治の喧騒がここまで酷くなるとは想像していませんでした。その意味でも、担当者が今月の聖書としてⅠペトロ書1:13−16を選んだのはまさに慧眼と言えます。なぜなら、この喧騒状態に乗っかってしまうことは、同じ論理構造に絡め取られることであり、この喧騒と混沌の渦中にあるからこそ、冷静に醒めた視点でじっくりと考え、自分がすべきことに全力を傾けていくことが大切なのです。
 この原稿を書いている最中に、わたしも委員として属する日本キリスト教団北海教区平和部門委員会から、原発、LGBTQ+、外キ連などの集会案内や活動案内が届きました。この喧騒にもかかわらず、しかも北海道も雪害で大変だったのですが、通常営業というか、粛々と活動をしている人たちの姿に接して、まさに「暮らしぶりのあらゆる点において」冷静に自分自身で考え、日常性を持って活動することの大切さを改めて実感させられています(まずは学生たちと卒論を完成させます)。

(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)

2026年1月31日

 私たちは、外国人、難民、民族的マイノリティ等の人権問題に取り組む団体です。
 私たちは、昨年7月の参議院選挙の際に、政府も多くの政党も排外主義煽動を競い合っている状況を批判し、政府等に対し、ヘイトスピーチが許されないことを広報することなどを強く求める声明を出しました。
 しかし、各地の選挙演説で外国人を排斥するヘイトスピーチが多数行われ、それを批判する人々に対し、「お前日本人じゃないだろう」等の差別的な脅迫や排除が行われました。また、排外主義を唱えた政党が当選者を増やす結果となりました。
 昨年10 月に発足した高市政権は、外国人への根拠のない不安を煽り、在留審査や日本国籍取得の厳格化、教育の無償化制度からの外国籍者の排除などの外国人規制策を急速に進めています。同年5月に出入国管理庁が発表した「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」を強行に推進し、強制送還を前年比でほぼ倍増させています。その結果、日本で生まれ育った非正規滞在の子どもたちやその家族、他国であれば難民認定されたであろう人々等が、突如日本での生活を根こそぎ奪われる理不尽に苦しめられています。
 政府の差別的政策に後押しされ、昨年10月以降、外国人やイスラム教徒の人たちを排斥するデモや街頭宣伝が急増し、インターネット上にヘイトスピーチが氾濫しています。住居や駐車場を貸してくれなくなった、クレジット契約更新を断られた、クラスメートから「日本人ファースト」と言われたなど、日常的な差別も悪化しています。
 しかし、「外国人が優遇されている」「外国人による犯罪が多い」というのは根拠のないデマです。日本には外国人に基本的人権を保障する法律すらなく、選挙権もなく、公務員になること、生活保護を受けること等も法的権利としては認められていません。医療、年金、国民健康保険、奨学金制度などで外国人が優遇されているという主張も事実ではありません。それどころか、住居移転の届け出義務違反の罰則は、日本人は5万円以下の過料、外国人は20万以下の罰金とされているなど法的な差別もあります。
 ヘイトスピーチ、とりわけ排外主義の煽動は、外国人・外国ルーツの人々を苦しめ、異なる国籍・民族間の対立を煽り、共生社会を破壊し、さらには戦争への地ならしとなる極めて危険なものです。
 だからこそ、人種差別撤廃条約は、締約国に対し人種主義的ヘイトスピーチを禁止し終了させ、様々なルーツの人々が共生する政策を行うことを求めています。
 しかし、先の参議院選挙の際、政府や多くの政党は、逆に差別を煽る側に立ちました。他方、多くの報道機関は、各候補者の主張のファクトチェックを実施しました。また、神奈川新聞は、昨年10月の川崎市長選挙において、大量の部落差別を繰り返してきた候補者を別扱いし、その差別的言動を批判しました。
   私たちは、今回の選挙において、さらに排外主義煽動が行われ、外国にルーツのある人々が恐怖の下に置かれ、差別に反対する声を封じる暴力的攻撃が行われることを危惧します。選挙運動におけるヘイトスピーチは放置すれば民主主義自体が破壊されます。
 そこで、総選挙にあたり、私たちは下記のことを求めます。

  • 各政党・候補者は、外国人に対する偏見を煽るキャンペーンを行わず、差別を批判すること
  • 政府・自治体は、選挙運動におけるヘイトスピーチが許されないことを徹底して広報すること
  • 報道機関は、選挙運動についてファクトチェックを徹底するのみならず、デマやヘ イトスピーチもあたかも一つの意見のように並列的に扱わず、明確に批判すること

 国籍、民族によって差別されず、誰もが人間としての尊厳が保障され、未来に希望を持ち、平和に生きる共生社会を作っていきたい。そのために、私たち一人一人が、選挙における差別の煽動を放置せず、声をあげることを訴えます。 

2026年126

 

移住者と連帯する全国ネットワーク(移住連)
外国人技能実習生権利ネットワーク
「外国人・民族的マイノリティ人権基本法」と「人種差別撤廃法」の制定を求める連絡会(外国人人権法連絡会)
外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)
コミュニティ・ユニオン全国ネットワーク
人種差別撤廃NGOネットワーク(ERDネット)
全国労働安全衛生センター連絡会議
中小労組政策ネットワーク
つくろい東京ファンド
反貧困ネットワーク
フォーラム平和・人権・環境(平和フォーラム) 

主は言われる。
盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。
わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。
高く、あがめられて、永遠にいまし
その名を聖と唱えられる方がこう言われる。
わたしは、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。
わたしは、とこしえに責めるものではない。
永遠に怒りを燃やすものでもない。
霊がわたしの前で弱り果てることがないように
わたしの造った命ある者が。
貪欲な彼の罪をわたしは怒り
彼を打ち、怒って姿を隠した。
彼は背き続け、心のままに歩んだ。
わたしは彼の道を見た。
わたしは彼をいやし、休ませ
慰めをもって彼を回復させよう。
民のうちの嘆く人々のために
わたしは唇の実りを創造し、与えよう。
平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。
わたしは彼をいやす、と主は言われる。
2026年1月30日
主はこう言われる。
正義を守り、恵みの業を行え。
わたしの救いが実現し
わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
いかに幸いなことか、このように行う人
それを固く守る人の子は。
安息日を守り、それを汚すことのない人
悪事に手をつけないように自戒する人は。
主のもとに集って来た異邦人は言うな
主は御自分の民とわたしを区別される、と。
宦官も、言うな
見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
なぜなら、主はこう言われる
宦官が、わたしの安息日を常に守り
わたしの望むことを選び
わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らのために、とこしえの名を与え
息子、娘を持つにまさる記念の名を
わたしの家、わたしの城壁に刻む。
その名は決して消し去られることがない。
また、主のもとに集って来た異邦人が
主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなく
わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに
連なることを許す。
彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
追い散らされたイスラエルを集める方
主なる神は言われる
既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。
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