主の御名を讃美いたします。
1月1日16時10分頃に、能登半島を中心に、マグニチュード7.6、最大震度7の地震が発生いたしました。
中部教区の教会を中心に、また能登半島地域を中心に、多くの被害が報告されています。
ただちに募金を開始し、受け入れます。
祈りをもってご協力をいただきますようお願い申し上げます。
2024年1月2日
日本基督教団社会委員会委員長 柳谷知之
募金期間 特に定めず
目標額 特に定めず
送金先 加入者名 日本基督教団社会委員会
郵便振替 00150-2-593699
※通信欄に「能登半島地震緊急救援募金」とお書きください。
献金使途にご指定がある場合は、通信欄に下記のようにご記入ください。
人道的支援のため
教会等再建支援のため
※クレジットカードでも募金出来ます。こちらからどうぞ。
〒169-0051
東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
日本基督教団社会委員会
電話 03-3202-0544
Mail shakai-c⭐︎uccj.org
※⭐︎を@マークにしてください。
January 2, 2024
Praise the name of the Lord.
At around 4:10 p.m. on January 1, an earthquake of magnitude 7.6 and maximum seismic intensity of 7 occurred,centered on the Noto Peninsula. Tremendous damage has been reported in the Noto Peninsula and surrounding region, including several churches of the UCCJ Chubu District.
We are accepting donations immediately, to assist people and churches that have been affected by this disaster.
Thank you for your prayerful cooperation.
Tomoyuki Yanagiya Chairperson, Social Committee
United Church of Christ in Japan
Fundraising period: Not specified
Target amount: Not specified
Japan Post Bank(ゆうちょ)
Recipient Name: UCCJ Social Committee(日本基督教団社会委員会)
Acount Number: 00150-2-593699
Transfers from Overseas:
Bank:Sumitomo Mitsui Banking Corporation
SWIFT code:SMBC JP JT
Branch:Takadanobaba Branch
Branch number:273
Branch address:1-27-7 Takadanobaba, Shinjuku-ku, 169-0051 Japan
Account Number:3291280
Account name: Nihon Kirisuto Kyoudan (United Church of Christ in Japan)
* Please write “Noto Peninsula Earthquake Emergency Relief Fund” in the communication column.
* If you wish to designate the use of your donation, please also enter the following in the correspondence column: “For Humanitarian Assistance” or “To support reconstruction of churches, etc”.
* You can also donate by credit card here.
UCCJ Social Committee 2-3-18-31 Nishi-Waseda, Shinjuku-ku Tokyo 169-0051 Japan
Phone (+81) 3 3202 0544
Mail shakai-c⭐︎uccj.org
※Please replace ︎⭐ with @.
民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
「新しい年、一歩を共に」
聖書個所:「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」
ルカによる福音書5章1~11節
宇和島中町教会
牧師 梅崎須磨子
ここは愛媛県宇和島市にあります宇和島中町教会です。牧師の梅崎と申します。
さて、クリスマスの喜びのうちに、新しい年が始まっています。いかがお過ごしでしょうか。目標を立てて、こんな1年にしようと、先を思い描くことできたなら、それはとても幸せなことです。しかしながら、悲惨なことばかりが続く世界の状況と、先の見えない不安定な社会のなかで、希望を持つことができない、明るいあしたを思い描くことができないという人も少なくないのではないでしょうか。
今日お読みした聖書のお話は、主イエスの活動が開始されてまだそんなに時間の経っていない頃の出来事であると思いますが、主イエスはすでに多くの人々の注目を集める存在になっておられました。集まって来た多くの人々と一定の距離を保って落ち着いて話ができるように、主イエスは人々を岸に残して、ご自分は舟に乗って、そこから話をされました。
この時、舟を出したのが、「あなたは人間をとる漁師になる」と言葉をかけられて弟子にされていく漁師です。ゲネサレト湖、別名ガリラヤ湖の漁師たちは、主イエスと会ったとき、舟から上がって網を洗っているところでした。漁に出て、そして岸に帰ってきて、片付けをしているところでした。シモン・ペトロはこの日、「夜通し苦労し」て漁をしたと語っていますから、疲れも溜まっていたことでしょう。しかも、夜通し働いたのに、彼らに収穫はありませんでした。重労働の結果、「何もとれなかった」ことはショックを伴う問題であったはずです。彼らが感じていたのは、決して心地よいとは言えない疲れ。それだけでなく、今日明日を食いつないでいけるだろうか、という不安もあったことでしょう。
シモンはそんな状況で頼まれて舟を出し、いちばん近くで主イエスの教えを聞くことになりました。シモンがどんな思いで話を聞いていたのか、話を聞いて何を考えたのかは記されていませんが、その後に起こった出来事が彼の人生を大きく変えることになりました。
主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。シモンにとっては、ついさっきまでしていたこと、時間をかけ、体力を使い、しかし何も成果の得られなかったことです。網はもう洗ってしまっているし、そこに主イエスという来客があって舟を出したのですから、夜通しの漁という重労働にプラスして応対した疲れもあります。何より、シモンはプロの漁師です。知識や経験のあるプロの漁師が一晩やってダメだったのに、なぜ今更、素人に促されて無駄なことをしなければならないのか。どうせ魚が捕れることはない。そういった思いが彼の中にめぐったのではないでしょうか。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」そう言って、主イエスの言葉に従ったシモンは思いもかけない大漁に恵まれます。
数時間前まで何も取れなかったところで、網が破れそうになるほど、自分たちだけでは引き上げられないほど、舟が沈みそうになるほどの大漁を目の当たりにしたシモンは、ひれ伏して次のように言います。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」。
シモンは「夜通し漁をしてもダメだったのに、今更魚が捕れるわけがない、やっても無駄だ」と主イエスの言葉を突っぱねたわけではありませんでした。そうした思いが心のうちにあったとしても、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と主イエスに従ったのです。それなのに、シモンは自分を「罪深い」と言います。シモンが語ったのは、主イエスによるさまざまな癒しを知っていたのに、主イエスがどのような方であるかを理解していなかったという自分の姿を恥じる言葉であったのです。今になってようやくあなたが主であることが分かった、私は罪深い、私から離れてくださいとシモンは語るのです。
シモンは、積極的に主イエスのもとに集まって来た群衆の一人ではありませんでした。たまたまそこに居合わせただけです。特別なことをしていたわけではありません。ただ日常を、魚の捕れない恵まれない一日を過ごしていただけです。
熱心に主イエスの言葉を求めていたわけではないシモンのところに、「舟を出してくれないか」と主イエスはやって来られます。シモンが諦め、希望を持たない、信じないところに「網を降ろしなさい」と主イエスは声をかけられます。そして自信のないシモンを「あなたは人間をとる漁師になる」と招かれるのです。
シモンはこうした主イエスの招きに何の準備もしていませんでした。心の準備もしていないし、今までの生活を捨てて新しい生活をすることへの準備も、もちろんしていませんでした。主イエスに対する理解もありませんでした。
しかし、シモンに何の準備も理解も、知識も経験もないことは主イエスが彼をお招きになるにあたって何の問題にもなりません。主イエスが人をお招きになるとき、求めておられることは、自信がなくても、確信がなくても、「しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と招きに応えることです。自信がない、確信が持てない、できるとは思えないところで、しかし、ここで神が働かれることを信じ一歩踏み出してみることです。
主イエスはシモンに、できないことをやれとはおっしゃいませんでした。特別なことをしろとは言われませんでした。あなたにできることを、「網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは自分の経験や知識を信じて、やっても無駄だと主イエスの呼びかけを拒否したりはしませんでした。自信もない、確信もない、信じられない、でももう一歩、もう一歩だけ、招きに応えて踏み出しました。その結果、シモンは、自分を、自分の家族を、多くの人の命を養うたくさんの糧を得ることができたのです。神の招きに応えて生きることの力を知ったシモンは、この道に人々を招く働き手として、弟子として招かれました。
私たちも、あの日、何も捕れなかった漁師たちのように問題に直面することがあるでしょう。努力が実らないことにショックを受けたり、もう私は何をしてもだめだと落ち込んだり、希望を失ったり・・・。祈る気にもなれない、そんな日があるかもしれません。しかし、私たちに何の準備もないとき、何の自信も持てないところにも、神は呼びかけてくださいます。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。大丈夫、一歩踏み出してごらんよ、神が働いてくださる、そのことを信じなさいと招いてくださっています。そして、主イエスは船の上で漁師たちと共におられたように、私たちが一歩踏み出す時にも、主は私たちと同じところにいてくださり、喜びを共にしてくださいます。
私たちが置かれている日々の生活の中で、そう、今あなたのおられるところに、私たちそれぞれに招きを用意してくださる、それが聖書の伝える神さま、私たちの神さまなのです。今年も、みなさんの生活の中で、神さまの栄光があらわされますように!
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。 3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
5谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 9斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

逃げて、愛しい人
――「逃げて」と言える雅歌の世界線に希望を置く一年を――
13「園に住まう女(ひと)よ、
〔貴女の〕仲間の男たちが貴女の声に注意を向けている、
〔貴女の声を〕俺に聞かせて。」
14「逃げて、愛しい男(ひと)よ、
そしてカモシカや若いシカのようになって、
香料の山々の上で。」
(雅歌8章13−14節[私訳])
雅歌は古代ユダヤの恋愛詩集であり、引用した8章13−14節は雅歌の最後を飾る恋愛詩です。この詩に登場する「園に住まう女」と「愛しい男」は恋人同士なのですが、どうやら敵対する集団に属しているようです。このように解釈すると、13節の「仲間たち」がこの女の属する集団の男たちを指しており、敵対する男を捕まえるために罠を仕掛け、その罠から「愛しい男」を救うために、14節で女が「逃げて」と声を張り上げている意味が理解できるのです。
今回担当者から雅歌8章13−14節が指定されたとき、新共同訳の訳文が一緒に送られてきたのですが、第一印象はやはり雅歌の異性愛主義(異性間恋愛主義)と恋愛至上主義であり、担当者もそれを重々承知のうえで、このテクストに何か感じるところがあったとのことなので、少々重たい気持ちでヘブライ語原文を眺めてみました。すると、そこには新共同訳の訳文とは全く異なる世界線が広がっており、新共同訳が「急いでください」と訳しているヘブライ語のבָּרַח(バーラハ)がここでは「逃げる」という意味で使われていることも了解できたのです。
この詩の内容を如上のように解釈できるとすれば、パレスティナとイスラエルやウクライナとロシアのように、民族や国などによって愛情や友情を引き裂かれた人たちの心情と通底する内容がここに記されていることが分かります。それは異性間の愛情だけではなく、同性間の愛情にも当てはまるものであり、さらには恋愛という枠組みには納まることのない友情にも該当すると言えるのです。
雅歌8章14節において、恋人に会うために罠だと知りつつ敵陣に来た「愛しい男」に向かって、主人公の女は――「戦って」ではなく――「逃げて」と叫ぶのです。愛しい人に生きて自分のもとに戻ってきて欲しいと願うとき、「戦って」と求める世界線は絶望でしかありません。「逃げて」と言える雅歌の世界線こそが新しい年の一縷の希望ではないでしょうか。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一)
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