「誰がための私たちか」
聖書箇所:「 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
マタイによる福音書25章40節
共愛学園前橋国際大学
古澤健太郎 牧師
さて、ここ何回かの、このYoutubeチャンネルのメッセージを拝見していますと、お話される皆様、ご自身が務めておられる教会、礼拝堂で動画を収録しておられて、いろんな教会の様子を拝見できてとても楽しいですね。
今回は9月公開開始ということで現在8月下旬にこれを収録しております。夏休み真っ盛り、大学の授業開始もまだまだ先ということで、自宅から、家族が寝静まった後のダイニングからお送りしておりますことをどうぞご容赦ください。
せめて、写真くらいはご覧いただきたいと思いますので、少し、共愛学園前橋国際大学についてお話させてください。
共愛学園前橋国際大学は1999年に群馬県前橋市で地域に根ざしたキリスト教主義の大学として開学しました。その学校法人である共愛学園は、1888年創立で、近く、140周年を迎えます。現在ではこども園、小学校、中学校、高校、短大、大学を全て備えた、群馬県では唯一の総合学園として運営されています。
もちろん現在ではすべての部門で男女共学の学校なのですが、設立当初の理念は、女子教育に焦点 を当てたものでした。明治の時代に、女子の就学率が非常に低く、そもそも教育の機会が乏しいような社会状況の中で、女子の教育機関という役割を担うために、前橋を中心とした群馬県、上州において、教派や教会の垣根を超えてたくさんの人々に支えられて設立されました。
社会の中で、例えばすごく裕福だったり、余裕があったり、困っていない人のためではなく、省みられることの少ない、苦しい状況にある人。こうした人達と共にあろうとするのがキリスト教です。明治の時代にあって共愛学園の礎を形作ったのは、女子教育をなんとかしなければならないという強い思いでした。他にも、例えば福祉の分野で、例えば医療の分野で、キリスト教の精神が様々な「社会の中で小さくされてしまった人たち」と共にあろうとしていることは、ご存知のとおりかと思います。
こうしたキリスト教の活動を支える聖書の言葉、そのうちの一つが、今日選ばせていただいた「マタイによる福音書 25章40節」です。
「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
これだけだとちょっとどういう状況かわかりにくいですよね。ここに出てくる「王」は、神やイエスのメタファーであると考えるとわかりやすいかもしれません。
聖書を少し遡ってみると、その「王」が部下たちを褒めて、私が病気のときは優しくしてくれたし、食べ物に困ってたときには食事を分けてくれたよね。だからすごいいいプレゼントをあげますよ、と言う。
ところが部下たちは困惑するわけです。王様が飢えていたことなんてなかったですよ、と。
そこで王様は、先程お読みした聖書の言葉を語ります。いや、そうじゃなくて、私に直接なにかをしたのではなくて、貧しくて困っている人たちや病気の人に施してあげたり優しくしてあげたりしたでしょう。この社会の中で最も小さいもの、つまり、苦しい状況にある人たちのためにした親切は、神を助けたのに等しいんだよ、と説明するわけです。
このように聖書は、「イエスや神にするのと同じような気持ちで、社会の中で困難な状況にある人に寄り添うこと」こそが、他のどんな行いよりも抜きん出て大切なのだと明確に指し示しています。
またこの物語は、『マタイによる福音書』の中でイエスによって語られる最後の「教え」にあたります。話の内容のみならず、その掲載位置においても、「最も小さい者たち」と共に生きることの大切さが、しっかりと示されています。
この「最も小さい者のために」という考え方は、キリスト教の考え方でありながらもっと普遍的に私達の社会が受け入れるべきものなのだと示されているんじゃないかな、と、私は考えています。
この聖書箇所を読む時いつも思い出すのが、ジョン・ロールズという哲学者とその代表的な著作の一つである『正義論』です。
この『正義論』は、出版された1970年代から出版国のアメリカ国内のみならず国際社会の中で大きく注目され、もちろん様々な批判やアップデートを加えられながらも、現在でも社会のあり方の礎になっていると言っても過言ではないように思えます。
この『正義論』の中でロールズは、集団の中で「最も不利な立場に置かれた人々」の利益が最大になるような社会配分がなされることが、正しい社会のあり方なのだと語ります。
さて、聖書に記されている、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
1970年代にロールズが記した、「最も不遇な人々の状況の解決に社会が優先して取り組む」という社会正義。
1世紀頃に原型ができた福音書と、1970年代に出版されたロールズの思想が、どうでしょうか、こうして比べてみるとなんだか両者が近いことを言っているように見えてきます。
実際、ロールズは若い頃聖職者を目指していたくらいですから、聖書の影響は大きいはずです。ただ、『正義論』が出版された時点ではロールズは自分の著作や思想にの思想に関してキリスト教の影響にはまったく触れることがありません。しかし、ロールズの思想が今なお社会の中で大きな役割を果たしていることは、聖書の言葉が現代にもしっかりと生きているということの大きな現れなのではないかと思います。
その時代、その時代の中で、社会でつらい思いをしている人たちと共にあろうとすること。これは、キリスト教信仰を持っていようといなかろうと関係なく、私達人間社会にとても大切な営みであると思います。私達がよりよい社会のために必要な「愛」が、聖書に記されているのだということになるのではないでしょうか。
私達が人間社会の中で、なにが本当にいいことなのかを考えたときに、今も、苦しい状況にある人たちとともに私達が在ろうとすること。これが1つの大きな指針になってくるのではないかなと考えます。どうか私達が正しく歩んで行くことができますよう、共にお祈りください。
祈り
天にいらっしゃいます私達の神様。心から御名を賛美します。
今こうして、私達が離れたところ、離れた時間にあっても、同じ言葉に耳を傾け、一人ひとりが考える時間を持つことができました。こうした機会を、世の初めから備えてあってくださったことを心から感謝いたします。
どうか、私達が謙虚に御言葉に取り組むことができますように。そして、聖書だけではなくこの世の言葉にも同じように耳を傾け、正しいことを正しいと言うことができるよう、私達に知恵と勇気を備えてください。私達もそのための努力を惜しまないことを誓います。
私達とともにいてください。願わくば、永久に。
小さき祈り、イエス・キリストの御名によって御前にお捧げします。
アーメン。

現代のヘイト問題から歴史認識の問題へ
――長血の女と朝鮮人虐殺――
25さて、12年もの間、血の流出を病んでいるひとりの女がいた。26大勢の医者たちによって散々苦しめられ、自分の持ち物すべてを費やしたが、何の甲斐もないどころか、よりいっそう悪くなってしまったのだが、27彼女はイエスのことを聞いて、群衆に紛れ込み、後ろからその衣に触った。28というのも、「せめてあの男(ひと)の衣にでも触ることができれば、自分は救われる〔=癒される〕だろう」と彼女は〔何度も〕言っていたからである。29するとすぐに、彼女の血の源流が乾き、彼女は悪疾から癒されていることをその身に感じた。30するとすぐに、イエスは自分から力が流れ出たことに気づき、群衆のなかを振り返って〔何度も〕言った、「誰だ、わたしに触ったのは」。31すると、彼の弟子たちが彼に〔何度も〕言った、「あなたは群衆があなたに押し迫っているのを見ていながら、『誰だ、わたしに触ったのは』などと言うのですか」。32しかし、彼は〔何度も〕あたりを見回して、このことをした女(ひと)を見つけようとした。33すると、この女は自分に起こったことを知っていたので、恐ろしくなり、震えながら、進み出て、彼〔の足もとに〕にひれふし、彼にありのままをすべて話した。34すると、彼は彼女に言った、「お嬢さん、あなたの信頼があなたを救った〔=癒した〕のですよ。平安に帰るといいよ。そして、悪疾から〔癒されたまま〕元気でいるんだよ」。
(マルコによる福音書5章25−34節[私訳])
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担当者から2024年9月のテーマを関東大震災時の朝鮮人等の虐殺の問題にするとの連絡を受け、その説明には朝鮮人虐殺がガザの虐殺の状況と同じ生々しいグロテスクな現実であることが記され、その最後に聖書箇所として長血の女のテクストの前半部が指定されていました。原稿に取りかかろうとした矢先に、高熱に見舞われ、数日寝込んでも熱が下がらず、病院に行って検査を受けた結果、新型コロナウイルスに初感染していたことが分かりました。高熱のせいもあってか、長血の女の物語と朝鮮人虐殺がどう結びつくのかが判然とせず、夢現つの状態で漸くそのつながりを了解したしたつもりで原稿を書き始めたのですが、熱にうなされてイミフな文章を書いている説もあることを予めお断りしておきます。
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冒頭に引用したのは「長血の女」のテクストです。「長血」とは女性の不正出血(不正子宮出血)を表しますが、経血を含めた女性の出血を不浄とする律法の――差別的な――規定によって(レビ記15章19−30節)、この女性は12年もの間、「穢れ」のラベルを貼られ、社会から隔離され、不当な差別と抑圧に喘いできたのです。彼女は身体的・精神的・宗教的・社会的・経済的・家族的・性的などのあらゆる次元で自分を苦しめてきた悪疾から救われたいと渇仰し、イエスの衣に触れたのです。しかし、これはその時代においては暴挙でしかありません。人混みに紛れてイエスの衣に触れるということは、不特定多数の人たちに彼女の「穢れ」を移してしまうタブーを冒すことにほかならなかったからです。もし知り合いに顔を見られてしまったら、あるいは彼女が長血であることがバレてしまったとすれば、リンチに遭って殺されるかもしれない・・・。まさに彼女は命賭けでイエスに触れたのです。
毎年9月になると、関東大震災時の在日朝鮮人等の虐殺が想起されます。昨年(2023年)は虐殺から100周年でもあり、福田村事件の映画が公開されるといった出来事もありました。今年(2024年)はどうでしょうか。東京新聞(ウェブ版)によれば、今年も東京都知事は朝鮮人犠牲者らを追悼する式典に個別に追悼文は送らず、朝鮮人虐殺の史実については、さまざまな研究があると述べるに留めているとのことです。しかし、このような動向とは異なり、埼玉県知事が朝鮮人を悼むさいたま市内の式に追悼文を送ることを検討しているとも報じられています。埼玉県知事の歴史認識をめぐっては、すでにネットではヘイト発言も巻き起こっており、ヘイトの声に屈することなく、公正な視点から朝鮮人虐殺の歴史が省察されるよう願うばかりです。
1年前の2023年9月の「キリスト教の小部屋」でも触れたように、朝鮮人の虐殺は――日本人が犠牲になった福田村事件からも分かるように――単に見た目で判別したわけではなく、「15円50銭」が「シボレート」(合言葉)になり、「じゅうごえんごじゅっせん」と正確に発音できない者を炙り出して実行されたことが知られています。それと同様に、長血の女も見た目からは「長血」という――本来は存在するはずのない――「穢れ」を持つことが知られるはずもなく、彼女は身バレしないように注意を払い、群衆に紛れてイエスにそっと触れたのです。しかし、イエスは彼女に気づき、「誰だ、わたしに触ったのは」と何度も問います。イエスの問いは律法を破った穢れた自分に向けられた断罪のように彼女には響いたのです。群衆のなかですから、自ずと大きな声になっていたでしょうし、繰り返し問われたのですから、そう感じたとしても仕方ありません。それゆえ、彼女は「恐ろしくなり、震えながら、進み出て、彼〔の足もとに〕にひれふし」たのです。
長血を穢れとするのは、女性であることを理由に女性を排除する偏見でしかありません。それと同様に朝鮮人虐殺は、朝鮮人であることを理由に朝鮮人を排除する憎悪犯罪(ヘイトクライム)にほかならないのです。関東大震災後の朝鮮人たちは「恐ろしくなり、震えながら」身を潜めていましたが、軍隊、官憲、自警団などに見つかってリンチに遭い、殺されたのです。犠牲者の数は関東大震災の死者10万5千人の1%〜数%とされ、したがって千人〜数千人に上る朝鮮人たちが殺されたのです。それは壊滅的な打撃を受けた関東大震災の被災地を中心に起こった虐殺です。その光景はガザで起きているのと同じ阿鼻叫喚の世界だったのです。
現在の日本では朝鮮人等の虐殺はなかったという歴史認識が大手を振ってまかり通る事態にしばしば遭遇します。この歴史認識は在日コリアン等に対するヘイトスピーチと並行して現れたものです。つまり、朝鮮人等の虐殺を否定する歴史認識は、新自由主義史観や歴史修正主義といった新たな歴史観の仮面を被ってはいますが、実際には現代のヘイトが生み出した偏見でしかないということです。その意味では、長血の女が女性特有の血の流出を「穢れ」とする偏見から自らを解き放つ新たな一歩を踏み出したように、わたしたちもまた在日コリアン等を排除する「ヘイト」という偏見から自らを解き放つ新たな第一歩を踏み出すことによって、現代のヘイト問題から歴史認識の問題へと歩みを進めることができるのではないでしょうか。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一)
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