アニー・プリスキラ・エドガー・ランドルフは、1827年9月14日、現ウエスト・バージニア州生まれ、約 30年間にわたりアラバマ州、ジョージア州、ケンタッキー州で学校の教師を務めていました。1871年に外国伝道局 に宣教師を志願すると翌年の1872年に中国派遣宣教師の任を受け、中国杭州に渡ったランドルフは寄宿女学校長に就任し、女子教育に従事してきました。
1888年、ランドルフは健康を害して強制帰国を命じられ、帰路につきます。その途中のこと、元中国宣教師の親友ミセス・ランバスに会うため神戸に立ち寄り、しばらく滞在。日本の気候が自分の身体に良いことを知ったランド ルフは、米国南長老教会宣教師マカルピンの誘いを受けて名古屋に移住し、日本基督名古屋一致教会(現日本基督教団名古屋教会)牧師、阪野嘉一が館長だった男子英語塾「冀望館(きぼうかん)」の英語教師を務めることとなりました。
そこで、女子教育に生涯を捧げてきたランドルフは、日本の女性の地位の低さを目の当たりにします。女子教育の 必要性を悟り、1889年1月に女性の英語クラスを開くと8月には男子の「冀望館」を閉鎖し、9月に女性のための 「女学専門冀望館」に改組、3人の女生徒を迎え、「女学専門冀望館」を開校しました。そのとき彼女は自費で2間の教室を建て、自給独立を原則としました。ランドルフの想いはただひとつ、「神を畏れ、神への奉仕にその生涯を捧げる、 つまり人を愛することをライフワークとする女性の育成」。これが彼女の教育方針であり、それこそ金城学院の建学の精神でした。
開校の翌年(1890年)に「女学専門冀望館」はカンバーランド長老系の「紅楓女学校」と合併し、同年4月 に校名を「私立金城女学校」と改称。生徒数は次第に増え、1891年に校舎が新築されるなど順調なスタートを切りました。しかし残念なことに、同年10月の濃尾大地震によって校舎の一部が損壊。ランドルフもその余震の影響で健康を害し、1892年、帰国を余儀なくされます。
彼女は教育に対して大変厳しい方でした。生徒たちには毎日新しい英単語を覚えさせ、翌日、暗唱できない生徒を後ろの席に変え、生徒たちは反発することなく、最前列に座れるように一生懸命勉強したと伝えられています。
生徒たちの勉強意欲を高めたのは、ランドルフの人柄にありまし た。中国語は話せても日本語が苦手で生徒の名前がなかなか憶えられなかったランドルフは、いつも生徒たちを「娘」と 呼び、生徒たちは温かみと親しみを感じ、先生のお役に立ちたいと、先を争って彼女のもとに走っていったといわれています。
ランドルフの名古屋滞在は、わずか4年間でした。しかし、この間に女子教育の種を蒔き、金城学院大学の基礎を築いた功績は偉大です。金城学院は創立100周年記念事業のひとつとして「金城学院大学ランドルフ記念講堂」を建設し、名古屋の女子教育者の一人としてランドルフの名を後世に伝え続けていきます。
(Kyodan Newsletterより)
19:2 王がアブサロムを悼んで泣いているとの知らせがヨアブに届いた。
19:3 その日兵士たちは、王が息子を思って悲しんでいることを知った。すべての兵士にとって、その日の勝利は喪に変わった。
19:4 その日兵士たちは、戦場を脱走して来たことを恥じる兵士が忍び込むようにして、こっそりと町に入った。
19:5 王は顔を覆い、大声で叫んでいた。「わたしの息子アブサロム、アブサロム。わたしの息子、わたしの息子よ。」
19:6 ヨアブは屋内の王のもとに行き、言った。「王は今日、王のお命、王子、王女たちの命、王妃、側女たちの命を救ったあなたの家臣全員の顔を恥にさらされました。
19:7 あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか。わたしは今日、将軍も兵士もあなたにとっては無に等しいと知らされました。この日、アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたら、あなたの目に正しいと映ったのでしょう。
19:8 とにかく立って外に出、家臣の心に語りかけてください。主に誓って言いますが、出て来られなければ、今夜あなたと共に過ごす者は一人もいないでしょう。それはあなたにとって、若いときから今に至るまでに受けたどのような災いにもまして、大きな災いとなるでしょう。」
19:9 王は立ち上がり、城門の席に着いた。兵士は皆、王が城門の席に着いたと聞いて、王の前に集まった。
イスラエル軍はそれぞれ自分の天幕に逃げ帰った。
19:10 イスラエル諸部族の間に議論が起こった。「ダビデ王は敵の手から我々を救い出し、ペリシテの手からも助け出してくださった。だが今は、アブサロムのために国外に逃げておられる。
19:11 我々が油を注いで王としたアブサロムは戦いで死んでしまった。それなのに、なぜあなたたちは黙っているばかりで、王を連れ戻そうとしないのか。」
19:12 イスラエルのすべての人々の声はダビデ王の家にまで届いた。王は、祭司ツァドクとアビアタルのもとに人を遣わしてこう言った。「ユダの長老たちにこう言ってくれ。あなたたちは王を王宮に連れ戻すのに遅れをとるのか。
19:13 あなたたちはわたしの兄弟、わたしの骨肉ではないか。王を連れ戻すのに遅れをとるのか。
19:14 アマサに対してはこう言ってくれ。お前はわたしの骨肉ではないか。ヨアブに代えてこれから先ずっと、お前をわが軍の司令官に任じないなら、神が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
19:15 ダビデはユダのすべての人々の心を動かして一人の人の心のようにした。ユダの人々は王に使者を遣わし、「家臣全員と共に帰還してください」と言った。
教師(牧師、伝道師)が担う教務は、礼拝・伝道および信徒の信仰指導、聖礼典の執行(牧師の場合)、結婚式・葬式その他の儀式である(教規第104条)。その他教会に関わる事務があり(同105条)、教会総会・役員会の議長の務めを担う(同96条、101条)。付帯施設をもつ教会ではその責任を担うこともある。
さらに、教会堂・牧師館の管理も加わる。小規模の教会の場合、さまざまなことが教師とその家族の負担になっていることがある。この冬も、秋田県の豪雪地域の教会に仕える教師のお連れ合いが、除雪をがんばりすぎて手首が腱鞘炎になったと聞いた。会員の高齢化により、教師やその家族が教会にとって必要不可欠な「労働力」として、教会の土地・建物の維持管理を担っているという現実もある。
それらに加えて、教勢・財政力の低下により全体的に暗くなりがちな教会の中で、つとめて明るい笑顔でいて、ダジャレや冗談を言ったり、自分の失敗談を話して会員を笑わせて、明るい(?)教会にしようと努力している教師もいる。
そのような中で、教師が孤軍奮闘の思いで疲れを覚えてしまうことがあってはならないし、逆に教師が教会を支配することがあってもならない。教会を愛し、教会に仕えることにおいて、教会の「主任牧師」は常に主イエス・キリストであり、各教会に遣わされている教師は常に「副牧師」である。
この春、新たな働きの地に赴く教師たちの働きが守られ、祝されるようにと祈っている。(教団総会書記 雲然俊美)
18:19 ツァドクの子アヒマアツは言った。「走って行って、主が王を敵の手から救ってくださったという良い知らせを王に伝えます。」
18:20 ヨアブは彼に、「今日、お前が知らせるのはよくない。日を改めて報告するがよい。今日は知らせないでおこう。王の息子が死んだのだ」と言い、
18:21 クシュ人に命じた。「行って、お前が見たとおりに王に報告せよ。」クシュ人はヨアブに一礼して走り去った。
18:22 ツァドクの子アヒマアツは再びヨアブに、「どんなことになろうと、わたしもクシュ人を追って走りたいのです」と願った。「子よ、お前はどうしてそんなに走りたいのだ。お前が行って知らせるほどの良い知らせではない」とヨアブは言ったが、
18:23 どんなことになろうと行きたいと言うので、ヨアブは「走るがよい」と答えた。アヒマアツは低地に道をとり、クシュ人を追い越した。
18:24 ダビデは二つの城門の間に座っていた。城壁に沿った城門の屋根には、見張りが上って目を上げ、男がただ一人走って来るのを見た。
18:25 見張りは王に呼びかけて知らせた。王は、「一人だけならば良い知らせをもたらすだろう」と言った。その男が近づいて来たとき、
18:26 見張りはもう一人の男が走って来るのに気がつき、門衛に呼びかけて言った。「また一人で走って来る者がいます。」王は、「これもまた良い知らせだ」と言った。
18:27 見張りは、「最初の人の走り方はツァドクの子アヒマアツの走り方のように見えます」と言った。王は、「良い男だ。良い知らせなので来たのだろう」と言った。
18:28 アヒマアツは「王に平和」と叫び、地にひれ伏して礼をし、言った。「あなたの神、主はほめたたえられますように。主は主君、王に手を上げる者どもを引き渡してくださいました。」
18:29 王が、「若者アブサロムは無事か」と尋ねると、アヒマアツは答えた。「ヨアブが、王様の僕とこの僕とを遣わそうとしたとき、大騒ぎが起こっているのを見ましたが、何も知りません。」
18:30 王が、「脇に寄って、立っていなさい」と命じたので、アヒマアツは脇に寄り、そこに立った。
18:31 そこへクシュ人が到着した。彼は言った。「主君、王よ、良い知らせをお聞きください。主は、今日あなたに逆らって立った者どもの手からあなたを救ってくださいました。」
18:32 王はクシュ人に、「若者アブサロムは無事か」と尋ねた。クシュ人は答えた。「主君、王の敵、あなたに危害を与えようと逆らって立った者はことごとく、あの若者のようになりますように。」
19:1 ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」
18:1 ダビデは彼に従う兵を調べ、千人隊の長と百人隊の長を任命した。
18:2 次いでダビデは兵士を三部隊に分け、三分の一をヨアブの指揮下に、三分の一をツェルヤの子、ヨアブの弟アビシャイの指揮下に、三分の一をガト人イタイの指揮下においた。ダビデ王は兵士に言った。「わたしもお前たちと共に出陣する。」
18:3 兵士は言った。「出陣なさってはいけません。我々が逃げ出したとしても彼らは気にも留めないでしょうし、我々の半数が戦死しても気にも留めないでしょう。しかしあなたは我々の一万人にも等しい方です。今は町にとどまり、町から我々を助けてくださる方がよいのです。」
18:4 「わたしはお前たちの目に良いと映ることをしよう」と王は言って、町の城門の傍らに立ち、兵士は皆、百人隊、千人隊となって出て行った。
18:5 王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じた。「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ。」兵士は皆、アブサロムについて王が将軍たち全員に命じるのを聞いていた。
18:6 兵士たちはイスラエル軍と戦うために野に出て行った。戦いはエフライムの森で起こり、
18:7 イスラエル軍はそこでダビデの家臣に敗れた。大敗北で、その日、二万人を失った。
18:8 戦いはその地の全面に広がり、その日密林の餌食になった者は剣が餌食にした者よりも多かった。
18:9 アブサロムがダビデの家臣に出会ったとき、彼はらばに乗っていたが、らばが樫の大木のからまりあった枝の下を通ったので、頭がその木にひっかかり、彼は天と地の間に宙づりになった。乗っていたらばはそのまま走り過ぎてしまった。
18:10 兵の一人がこれを見て、ヨアブに知らせた。「アブサロムが樫の木に宙づりになっているのを見ました。」
18:11 ヨアブは知らせに来た者に言った。「見たなら、なぜその場で地に打ち落とさなかったのか。銀十枚と革帯一本を与えただろうに。」
18:12 その兵はヨアブに言った。「たとえこの手のひらに銀千枚の重みを感じるとしても、王子をこの手にかけたりはしません。王があなたとアビシャイ、イタイに、若者アブサロムを守れ、と命じられたのを我々は耳にしました。
18:13 仮に、わたしが彼の命を奪ってそれを偽ろうとしても、王には何一つ隠せません。あなたもわたしを非とする側に立つでしょう。」
18:14 「それなら、お前に期待はしない」とヨアブは言った。アブサロムは樫の木にひっかかったまま、まだ生きていた。ヨアブは棒を三本手に取り、アブサロムの心臓に突き刺した。
18:15 ヨアブの武器を持つ従卒十人が取り囲んでアブサロムを打ち、とどめを刺した。
18:16 ヨアブは角笛を吹いて兵士を引き止めたので、彼らはイスラエル軍の追跡をやめて戻って来た。
18:17 彼らはアブサロムを降ろし、森の中の大穴に投げ込み、その上に石を積み上げて非常に大きな塚を作った。イスラエルの全軍はそれぞれの天幕に逃げ帰った。
18:18 アブサロムは生前、王の谷に自分のための石柱を立てていた。跡継ぎの息子がなく、名が絶えると思ったからで、この石柱に自分の名を付けていた。今日もアブサロムの碑と呼ばれている。
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