「神に栄光、地には平和あれ」
聖書箇所:「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
ルカによる福音書2章8~20節
在日大韓基督教会
新居浜グレース教会
鄭守煥 牧師
Ⅰ.この地に平和はあるか
みなさん、メリークリスマス。このように挨拶をしながらも、私は決して穏やかな思いではいられません。それと言うのも昨今の世界情勢を考える時に、破壊と分断などで先の見えない混迷と不安を覚えずにはいられないからです。
ロシアによるウクライナ侵攻に加えて北朝鮮兵士の派兵。パレスチナ自治区へのイスラエルによる止むことのない攻撃。ミャンマー軍事クーデターによる国民への弾圧。アメリカ大統領選挙の結果を受けて、アメリカ国内を分断するような報道を見ると明るい未来がそこにあるとは思えません。
この瞬間にも戦禍のなか尊い人命がいとも簡単に奪われ、分断と対立によって人と人の溝が深まっていることを目の当たりにすれば、この地に本当の平和がいつ訪れるのだろうかと考えてしまいます。
でも私たちはこの現実の中に生きているのであり、平和について語ろうとする時にこれらの事に目をつぶって語ることができるのだろうか。そう考えると非常に心が重くなるのです。
Ⅱ.はじめてのクリスマスの平和はあったか
それでは今日読みました、主イエス・キリストがお生まれた初めてのクリスマスの夜、ベツレヘムの地はどうだったでしょうか?
ルカによる福音書の2章の1節からはイエス・キリストの誕生のあらましが書かれています。
そこにはローマ皇帝アウグストゥスから帝国の全領土の住民に住民登録をせよという勅令が出されたとあります。ローマ帝国が属国、植民地の住民の人口数によって税金をかける為のもので、地方総督はその税金を集める役割を担っていました。
大工ヨセフと身重であったマリアもガリラヤの町ナザレから、ヨセフの故郷であるベツレヘムという町に登録の為に旅立ちました。当時の慣習から女性は15~16歳、男性は25歳前後で結婚していたということですから、今の時代から考えますと非常に若いカップルと言えます。
ガリラヤの町からベツレヘムまでは凡そ直線距離にして 120kmくらいあるそうです。勿論、今のような乗物もありませんし、平坦な舗装された道路もありません。旅の途中で強盗に襲われるかもしれない、そのような危険の中、ヨセフは身重のマリアを気づかってゆっくりと旅したのでしょう。故郷のベツレヘムに到着した時には、既に二人の泊まる宿屋はなく馬小屋で二人は旅の疲れを癒すことになりました。
二人はローマ帝国のたった一通の勅令によって 120kmの距離を旅せざるを得ませんでした。自分たちの家で安全に子供を出産することもできず、危険を承知で旅することを強いられ、馬小屋で愛するわが子を生むことになったのです。いいえ、二人だけではなく、もっと長い道のりを旅し、危険を冒さざる得なかった人もいたかもしれません。しかし、ローマ帝国の巨大な権力によって、日常生活の全てを停止してローマ帝国に税金を納める為の登録で大勢の人々は移動させられたのです。このローマ帝国の抑圧によって、ベツレヘムだけでなく全ての属領に本当の平和があったとはいえません。
先ほど読みました誰よりも早く、主イエス・キリストの誕生を天使によって知らされた羊飼いたちはどうでしょう。彼らは多くの羊を所有する人によって雇われて、一晩中野宿をしながら羊の群れの番をしておりました。夜通し羊の群れを襲おうとする獣や盗賊から羊を守るのです。彼ら自身の命も危険に晒されることもあるでしょう。番をする羊を一匹でも失うことになれば、彼らはそれを弁償しなければなりませんから今度は夜通し羊の番を無報酬ですることになります。
日中と夜の気温の差の激しいこの地で、寒さにうち震えながら番をするのです。羊飼いたちも搾取され、彼らのいる所にも平和があったとは勿論言えません。
Ⅲ.はじめてのクリスマスの後に平和は訪れたか
では、救い主として来られた主イエスが生まれた後のユダヤの地には平和が訪れたのでしょうか?
聖書には、今日お読み頂きました「ルカによる福音書」とは別に、主イエスの誕生に関することが「マタイによる福音書」にも書かれています。そこを読みますと、当時ユダヤの国の王はヘロデという人でした。そのヘロデの所に東の国の占星術の学者-この人たちは星を観測したり、古い文献を調べて様々な出来事を予測していた学者と言えばいいでしょうか-そのような人たちが訪れました。
その学者は星の動きや古い文献によって、ユダヤの国に新しく王となられる子が誕生するという予言を信じて遠路はるばる謁見を願いやってきました。ヘロデという人物はユダヤ人ではなく、ローマの権力者に取り入り王の位に就いた人でした。自分の王という地位を守る為に自分の叔父も義理の母も、妻も三人の実の息子たちの命を奪った人物です。ですから学者たちから新しく王となる子が誕生したと聞かされては穏やかではおれません。そこでヘロデは学者たちの言葉から、新しい王の生まれるベツレヘムとその付近の地方にいる2歳以下の男の子の命を奪う命令を下したとあります。
聖書に書かれておりますこの事が、事実であるかどうかは様々な立場で意見の別れるところですが、このヘロデという人物には先程申し上げましたような事がありますので歴史家の間でも、彼ならばやりかねないと認めざるを得ないのであります。はじめてのクリスマスの夜も、その後のユダヤの地においても平和ではなく、抑圧と搾取、殺戮と恐怖があったと言わなければなりません。
Ⅳ.神に栄光を保持されたのか
では、今私たちの生きるこの地においても、初めてのクリスマスのあったユダヤの地においても平和と呼べる所がないのであれば、神だけには栄光があったのでしょうか?
人が平和を奪われ、嘆きと悲しみの中にいる時でも、神だけには栄光があり続けたのでしょうか?
この世の救い主として、王の王としてお生まれになられたイエス・キリストは馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされておりました。王の宮殿のベッドで多くの従者たちに仕えられ生まれたのではなく、馬小屋で両親に見取られひっそりと生まれ、飼い葉桶の中で寝かされていたのであります。
これが神の子として、救い主として生まれた者の誕生として栄光に相応しい生まれであるとは言えないのではないでしょう。本当ならば秘密にしておきたいと思えるようなことが、聖書には記されているのです。それだけではなく彼の生涯も栄光に満ちた華々しい日々であったのではありません。
彼は当時のユダヤ社会において底辺に位置付けられた人々と共に歩まれ、この世の生涯の最期は十字架につけられるというものでした。12弟子の一人に裏切られ、当時のユダヤ人指導者たちによって策略の中ローマの法によって十字架につけられたのです。ローマ軍の兵士から嘲笑を受け、十字架の上では共に十字架につけられた別の罪人から侮られました。弟子たちでさえ、十字架に付けられている主であるイエス・キリストの姿を見て悲観にくれその場を散り散りと離れて行ってしまいました。弟子たちに見限られ人々からは、蔑まれて彼は生涯を閉じられたのです。彼の生涯もその最期も、栄光の中にあったとは普通では考えにくいものです。人が平和を奪われ、嘆きと悲しみの中にいる時、神だけが栄光の中にあり続けたのではないのであります。
Ⅴ.本当のクリスマスの意味
では地に平和がなく、神に栄光もなくクリスマスは私たち人間にとって何の意味もないことなのでしょうか?私たち人間は抑圧と搾取、殺戮と恐怖の中で希望のない状態のままなのでしょうか?今一度、聖書に目を向けて考えてみましょう。
『11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子をみつけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』
神の子イエス・キリストが自らの栄光の中に留まらず、馬小屋で飼い葉桶の中で寝かされるという状態の中で生まれた。神が自らの栄光を捨てて低きに下られ、そしてその事を神は自らの栄光とされた。神が自らの栄光を捨てることを、神がご自身の栄光となされたのであります。このことが私たちにしるしとして与えられた日。それがクリスマスの意味なのです。
『16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。』(ヨハネ3:16)
神は大切なわが子イエス・キリストを私たちに与えてしまわれるほどに、この世を愛されている。
それは独り子イエス・キリストを信じる者が独りも滅びないで永遠の命を得るためなのであります。ここにおられるみなさんお一人おひとりが神に愛されているのであります。みなさんお一人おひとりの存在が神の喜びそのものなのであります。大切な子供をあげてしまうほどに、神はみなさんを愛しておられるのです。ですから、私たちは主イエス・キリストの十字架を仰ぎみつつ、この方を通して平和という希望を与えられ、生きる喜びを得ることができるのです。神が自らの栄光を捨て、愛するわが子をこの世におくり、神の喜びの中へと招いてくださるしるし、それがクリスマスなのです。
私たちにはこの方を通して平和が与えられているのです。この大いなる平和の知らせを分かち合い、共に生きる事がこの地に平和をもたらすのです。神が栄光を捨てられることをご自身の栄光とされ、神の独り子を与えてしまうほどの愛を示されました。その愛を受入れ、互いに愛し合い神の示された道を歩む者に平和は与えられるのです。その意味で神に栄光があり、この地には平和があるのであります。
共に祈りしましょう
愛する御子 イエス・キリストを私たちに与えてくださった神よ。
私たちは平和の君、主イエス・キリストの誕生を心から祝い、感謝いたします。
あなたのその愛によって、与えられている喜びを感謝いたします。
どうか私たちが苦しみにある時も、試練の時にある時も励まし、慰め、生きる力を増し加えてください。そして私たちも互いに助け合い、喜びを分かち合うことのできる者にしてください。差別と偏見、苦しみと悲しみにある時も共に共鳴しあうことのできる者にしてください。この祈りを救い主イエス・キリストの御名を通して祈ります。
アーメン




誰かが平伏させられることのない世界を願って
――2024年のクリスマスに寄せて――
1さて、イエスがヘロデ王の日々にユダヤのベツレヘムで生まれたとき、見よ、東方からの占星術の神官たちがエルサレムに到着し、2言った、「お生まれになったユダヤ人たちの王はどこにおられるのですか。わたしたちは東方でその星を見たので、その方に平伏してキスするためにやって来たのです」。
(マタイによる福音書2章1−2節[私訳])
マタイ福音書2章1−2節は東方の占星術の神官たち――いわゆる東方の博士たち――の来訪の物語の冒頭を飾るテクストです。クリスマス物語を解釈するうえでの最近の潮流のひとつはポストコロニアル批評による読解です。ポストコロニアル批評とは、西洋の植民地主義と帝国主義を批判的に省察する学問的営みであり、同様の視点から古代ローマ帝国支配下に著された新約聖書テクストの読解が試みられています。特に、ルカ降誕物語の読解においてこの潮流は顕著であり、初代ローマ皇帝アウグストゥスとイエスを対比しつつ、イエスがアウグストゥスを凌駕する真の「神の子/神の息子」ないし「救世主」であることをルカの降誕物語は伝えているとの理解が呈されています。
それと同様に、マタイ降誕物語にもポストコロニアル批評が適用され、ローマ帝国支配に対抗する物語としてイエスの誕生が描かれているとの理解が提唱されています。このような視点からこのテクストを読解すると、ヘロデ王がローマ皇帝からユダヤの王を名乗ることを許されていることを考えても、東方の占星術の神官たちがイエスをヘロデ王に替わるユダヤの王と呼んでいることもまた、ローマ帝国に対抗する物語としてマタイ降誕物語を再読することが可能となります。
また、占星術の神官たちが東方で見た星に導かれるように西方に位置するエルサレムを訪れる物語の背後に、ローマ帝国の礎を築いたユリウス・カエサルとその養子でもある初代ローマ皇帝アウグストゥスの双方が属するユリウス家に対抗する意味が込められているとも指摘されています。すなわち、ローマの叙事詩が伝える神話によれば、ユリウス家はローマの最高神ユピテルの娘である女神ウェヌスを祖とする神の子孫であり、東方に位置するトロイアから西方のイタリア半島まで女神ウェヌスの星(金星)に導かれたのがユリウス家を中心とするローマ人であるというのです(ウェルギリウス『アエネーイス』1:286−290)。したがって、マタイ2章1−2節において占星術の神官たちが東方の星に導かれてその西方に位置するエルサレムに現れるという物語の背後には、ユリウス家に連なるローマ皇帝に替わる新たな世界の王としてイエスが誕生することが暗示されているというのです(ジョン・D・クロッサン/マーカス・J・ボーグ)。
わたし自身はポストコロニアル批評による新約聖書の読解を肯定的に受け止めてはいるのですが、この潮流に半分は乗っかりつつも、半分は乗ることができずにいます。それはユダヤの王であれ、あるいはローマ皇帝であれ、それらに替わる新たな王としてのイエスという理解に否定的にならざるをえないからです。なぜなら、ローマ皇帝からイエスへという流れでは、支配者がローマ皇帝からイエスに置き換わっただけであり、その論理構造は同じだからです。それはこのテクストにおいて占星術の神官たちがイエスに示している「平伏してキスする」という振る舞いからも感じられます。
「平伏してキスする」と訳したのはπροσκυνέω(プロスキュネオー)というギリシャ語ですが、東方世界において王の前に平伏して床や地面、足や衣服の裾にキスをして崇敬や服従の意志を示す行為を表す語です(岩波訳=佐藤研訳[改訂版]は「拝吻(する)」という新語を提案)。神に対して用いられるときは、「平伏して拝む」と訳していいと思いますが(田川建三訳は「拝礼する」と訳出)、いずれにせよ平伏すということであれば、その対象がローマ皇帝からイエスに替わろうとも、地面に突っ伏して地面にキスをせざるをえない状態を作り出すことに変わりないのです。
12月1日からアドヴェント(待降節)に入りました。2024年のクリスマスにも、星空を眺めているときに、爆撃から逃れて地面に平伏すように這いつくばらざるをえない人がいるのです。爆撃で吹き飛ばされて地面に平伏すように斃れてしまう人がいるのです。これはまさに――先にあげたクロッサンとボーグがアメリカ帝国は現代のローマ帝国だと批判するように――帝国主義によるポストコロニアル(植民地支配後)の時代の現実です。そして、日本に目を向けると、政治、経済、社会の混迷は深刻の一途を辿っており、アドヴェントの夜に空を見上げて涙し、クリスマスの夜にうなだれて絶望する人がいるのです。このような現実の世界を変えることのできない自分の無力さに打ちひしがれつつも、せめて誰かが平伏させられることのない世界を願いつつ、メリークリスマス。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一)
そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
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