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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4834号】宣教師からの声 番外編 ートルート・サラ・ビゲロー 豊田 滋 (梅光学院大学・学院資料室)

2016年1月30日

 ガートルート・サラ・ビゲローは、1860年5月17日、ニューヨーク州に生まれた。

 1883年、ミス・ビゲローは、ハミルトン・レディース・セミナリーを卒業後、地元の学校に勤務していた。その頃、帰国した宣教師が日本伝道について話した後、「だれかこの中で東洋にキリスト教を伝えるために献身する方はいないでしょうか」と呼びかけた。この呼びかけに応えたのが若き日のミス・ビゲローである。日本に赴任するために1886年9月、ニューヨーク州の試験を受け、中等学校教師の免許状を取得。1887(明治20)年、来日。26歳であった。1888年、長老教会教育宣教師として新榮女学校に着任した。新榮女学校は、築地居留地六番地にB六番女学校、その後、居留地42番に移転し新榮女学校、その後、櫻井女学校と合併して女子学院として開校する。ミス・ビゲローは着任の1年後、新榮女学校長に昇任。1890年に辞任し、北陸女学校に転任した。北陸女学校の草創期に金沢で2年間勤務、その後、山口市の光城女学校に着任した。

 光城女学院は、1891年、服部章蔵によって、山口市道場門前(当時は山口町)の善福寺に山口英和女学校として開校。1892年、山口市後河原に移転し、光城女学院と改称。ミス・ビゲローは、この時期に着任した。服部章蔵院長、外人教師1名、日本人教師3名、生徒20名ほどの学校であった。ミス・ビゲローは教諭として、英語、倫理、唱歌、体操を担当した。1893年7月~1894年に一時帰国。デトロイトで開かれた会議に出席した。

 1897年には、妹フローレンス・ビゲローも光城女学院に着任した。1899年、39才で第2代院長に昇進した。

 1899年4月に長府の町から山口まで蒸気船と馬車を乗り継いで12才の少女が入学。この少女こそ、ミス・ビゲローが薫陶し彼女の意志をついでキリスト教教育のために貢献した、後の女子学院院長〈1947年~1966年〉山本つち(旧姓弘中)であった。山本つちは、『パレアナ』(E.H.Porter著)の訳者としても知られる。彼女の回想によると、ミス・ビゲローは、和裁、洋裁、刺繍までも教え、ベビーオルガンを校庭に持ち出しての体操やダンベルを使用した体操も指導した。また、愛馬カイザー号を駆って乗馬も楽しんだ。快活な女性であったと思われる。1909年には、米国の長老派事務局発行の雑誌『The Assembly Herald』に「Japan’s Daughters and Missionary Teacher」を寄稿している。1904年に一時帰国。

 その後、光城女学院は、長崎の梅香崎女学校との合同校として、1914(大正3)年に梅光女学院として下関に開校。院長には梅香崎女学校の廣津藤吉、ミス・ビゲローは聖書、英語を担当した。花壇を整え校内を美化することに心を配った。

 1919年には教育功労賞を山口県から受け、1921年には勤続30年の祝賀が行われた。

 1930(昭和5)年、日本在留45年間、光城・梅光38年間の長きにわたる奉仕を終え、帰米の途についた。この時71才。帰米する折、梅光女学院に200冊の書物と、校庭後ろの山上に祈祷黙想の場所として煉瓦造りの頑丈なあづまやを建築し寄贈した。「祈りの家」である。1941年11月1日、カリフォルニア州ロサンゼルスにて死去。81才であった。

 ミス・ビゲローについて、忘れがたい逸話は「青い目の人形」である。1927年、アメリカから12,739体の「青い目の人形」が届いた。伝道のために日本に居たS.L.ギューリックの働きより、平和のために日本に贈られた人形である。ミス・ビゲローは、山口市の公会堂に小学生の代表を集めて人形を贈った。その中の1体は、夏物のドレスには胸に刺繍があり、冬のコートのポケットには、米国の少女の手紙が入っていた。現在、山口市の大殿小学校に、ローズ・メアリーという冬のコートにポケットがある「青い目の人形」が保管されている。平和の願いと祈りは、時代と国境を越えて生き続いている。

 梅光学院は、2014年に下関開学100周年を迎えた。ミス・ビゲローの愛弟子・山本つちの夫、山本五郎は、戦時下において理事長を務め、困難な時代を支えた。これもミス・ビゲローの影響と云われる。彼女の精神である「平和への願いと祈り」は、今も梅光学院に引き継がれている。
記録出典:梅光女学院遠望(梅光女学院同窓会編1987年)ほか

 清水さんは、日本基督教団のいくつもの教会に育てられた。母の胎内にいるときから弘前南教会に礼拝出席し、高校1年生から現在に至るまで5つの教会で奏楽奉仕を務めている。

 大学入学後、長野本郷教会に礼拝出席し、大学4年生のイースターに洗礼を受けた。「受洗にあたり、聖書のことをもっと知らなければいけないと思ったが、牧師先生から『ここからがスタートだ』と言われて、これでいいのだ、一生、神様について行きたい、社会に出る前の不安の中、守っていただきたいと思った」という。

 その後、東京の会社に就職すると共に野方町教会に転入会し、4年間、楽しい青年会時代を過ごした。

 2000年3月、牧師の司式により、大学で出会った青年との結婚式を挙げた。

 結婚後は、新居近くの滝野川教会に転入会、2005年の春から聖学院大学キリスト教センターに就職した。「主に用いていただいている感謝と共に、キリスト者としての生き様を学生たちに見られている責任は大きい。キリスト教センターが証しとなって、若き魂が教会に導かれてほしい」と語る。

 次男の出産にあたって、人生で最も大きな試練の出来事に直面した。次男は生後12日目に召された。「出産の翌日に牧師先生が病院にいらして、次男に聖書を1冊くださった。その際に読まれたローマ人への手紙8・18~25『今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちのうちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。…もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐してそれを待ち望むのである』との御言葉が、私の胸に響いている」と語る。そして「今まで見えていなかったことが見えてきた。同じ痛みを持っている友人を慰めることができた。キリストに結ばれているゆえに、試練と共に逃れの道も備えられている」と語った。

青森県出身、滝野川教会員、聖学院大学キリスト教センター職員。

11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 晩秋の或る主日夕、東京・永福町に幼稚園の持続を断念して、その敷地を売却し、瀟洒な会堂・集会室・牧師館のみを新築をした永福町教会の献堂式に出席した。教会は、地域に次第に少数化する幼児の実情と教会幼稚園としての経費に徒ならぬもの有りと判断して廃園の決断をしたのだ。ところがそれに異を唱える保護者と卒園者ら3000余名の人々の猛烈な反対署名運動が起こった。それらの動きに呼応して教会を離れた信徒も数名はいた。教会に戦後都内から現在地に移転した経緯があり、合わせれば130年を越す重厚な教会史と格式を有しつつも現在地で70年近く継続させた幼稚園経営によって、地域は教会というよりも、「小羊幼稚園」の呼称で親しまれたのも確かだ。そのために、歴代の牧師・園長は相当の努力をもって必要な教育を些かも恥じることなく行った。わたしは、幼稚園付教会に赴任したことはないが、それらの報告を聞きながら、思うことが幾つかあった。教会幼稚園の経営主体は教会にあり、幼稚園あっての教会ではない。だが、この伝統の教会にも幼稚園とは切り離せない繋がり、場合によっては互いに助け合わずにはいられない相互依存の時代もあっただろう。それは押し並べて地域に子どもたちが大勢いてのこと。牧師も牧師だけでは、園長の名をもってする影響力や尊敬も集めることは不可能だった。今や教会は、 教会一本で人々の心にどんな痕跡を残すのか、新たな戦いが始まった。(教団総幹事 長崎哲夫)

2016年1月29日

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

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