2月11日は、日本の建国記念日とされる。しかし、主イエスと共に歩む我らにとって、「建国」とは、取りも直さず、「神の国建設」を意識させられる。「先ず神の国とその義を求めよ、あとは添えて与えられる」とされる故に、先ずは、神の国を目指して進まねばならない。
この世の「国家」、すべての権力は、神の国の下に成立する。神の赦しと許しがあってこその「建国」である。人間の歩み、しかも正しく聖書の神と向き合わないこの世の建国は、甚だ未熟であり、的外れな罪深いものとなる。実際、我が国のみならず、キリスト教国と言われる世界の多くの国々さえも、同様に失敗と間違いの繰り返しがある。
その「この世」と「真の神の国」との狭間にあって我らのなすべきことは、執りなしの祈りと悔い改めの歩み、更に「この世」に絶望せずに関わることである。国を導く政治家が道を踏み外さぬよう祈り、間違いがあれば悔い改めるよう祈り、国家と神の間にあって、主イエスと共に、執りなしの祈りに邁進する。「悔い改めと立ち帰り」を表明しつつ、来るべき「神の国」に備えることこそ、この日にふさわしい「時」の用い方の一つである。
我が教団では、「信教の自由を守る日」とされるこの日、「不自由」であった時代を経験したからこその表現であろうが、不自由を押し付けられないための「レジスト(抵抗)」が真の目的であろうか。どんなに不自由・不平等・理不尽な時代や状況があったとしても、心の内側の「信教・信仰」は、どこまでも自由であり、神により、それらが保持されてきた感謝の歩みがある。「悔い改めと感謝」を軸としつつこの日を意識したい。
全国のこの日の集会の上に、神の豊かな祝福があるよう、祈ります。(社会委員会 芳澤 信)
宮谷宣史氏(関西学院大学神学部神学教師)
15年10月15日逝去、79歳。大分県生まれ。64年青山学院大学大学院卒業、66年より青山学院高等部を経て、73年より関西学院大学神学部に務める。
遺族は妻・宮谷則子さん。
阿部丑治氏(無任所教師)
15年12月6日逝去、90歳。南満州生まれ。53年日本聖書神学校卒業。同年より柚木、本荘、磐城、玉出、御所、森小路、東舞鶴教会を経て87年に隠退。
遺族は妻・阿部良子さん。
篠原 満氏(無任所教師)
15年12月6日逝去、82歳。東京都生まれ。60年東京神学大学大学院卒業。同年より聖和、下関、下関東、小月教会を経て15年に隠退。
遺族は妹・竹本和子さん。
山田富稔氏(佐久教会主任担任教師)
16年1月2日逝去、82歳。茨城県生まれ。08年受允、09年より軽井沢、佐久教会を牧会。
遺族は妻・山田道子さん。
田村靖子氏(東京復活教会担任教師)
16年1月9日逝去、73歳。東京都生まれ。68年日本聖書神学校卒業、同年より田園調布、東京復活教会を牧会。
遺族は夫・田村信征さん。
羽根田豊氏(隠退教師)
16年1月26日逝去、93歳。兵庫県生まれ。50年神戸神学院卒業、同年より鶴見橋教会を牧会し、94年に隠退。
遺族は息・羽根田実さん。
1886年に布教を始めたアメリカ南メソジスト監督教会(MECS)は、日本で比較的遅く布教活動を始めたキリスト教団体ではありましたが、日本の数多くの若者の教育と精神生活に大きな影響を与えました。このような影響を与えることができたのは、祖国での安全で安心な生活を捨て、遠く離れた日本にやってきた宣教師たちの献身的な布教と教育活動によるものです。
ウォルター・ラッセル・ランバスは、布教と医療活動を行っていた彼の父親、ジェイムス・ウィリアム・ランバスとともに、1886年に中国から日本にやってきました。その直後、ウォルター・ラッセル・ランバスは、故郷の広島で女性の教育を始めていた若き牧師砂本貞吉から宣教師派遣の要請を受け取ります。ランバス牧師を通じて話を聞いたMECSは、1887年に当時27才だったナニー・ゲーンスを日本に送ることを決めます。それから45年、ゲーンス先生は校長、名誉校長として、広島女学院を小さな英語私塾から広島で最初の政府公認の女性教員養成学校へと発展させるために、彼女の生涯のすべてを捧げました。戦争の一時期を除いて、広島女学院は73人の宣教師と密接に連携しながら、100年以上にわたって日本における女性教育の普及に努めてきたのです。
ゲーンス先生は日本という新しい地で新しい任務につくに当たって、興奮と共に不安を抱いていました。彼女は語っています。「私は神への信仰と信頼によって導かれ、この地に宣教師としてやってまいりました。広島でのわれわれの仕事の成功は、われわれの神への信仰と信頼によって支えられ、そしてわれわれの神への信仰こそが今試されているのです」。彼女は夜遅く広島に到着し、次の日の朝にはもう授業を始めていました。砂本牧師とランバス家の人々は30名の教員を志す女学生を募集しました。彼女たちには、若い女学生だけではなく、政府役人、軍人、専門職業人と結婚している女性たちも含まれていました。これが広島における女性高等教育の始まりでした。
ゲーンス先生のこの女学校における初期の活動は、困難に直面する日々の連続でした。適切な教師を見つけること、校舎の建設、保守的な広島の人々の反キリスト教的態度など、多くの困難を乗り越えなければなりませんでした。ゲーンス先生は広島に到着したとき、身の回りの品を入れたトランクのほかに、ピアノを1台持ってきました。彼女が始めた最初の仕事のひとつは、このピアノを使って音楽教育を始めたことです。1890年には、最初の女学院校舎の建設が完了し、そこでの教育が始まりました。その後、政府の要請を受けてさらに幼稚園を建設しました。
しかしこの直後2つの悲劇に見舞われます。幼稚園の建物は1891年後半の台風によって大きな被害を受け、さらに女学院の本校舎が深夜の火災によって消失してしまいます。ゲーンス先生はこれらの悲劇的な出来事にもくじけず、校舎を建て直す努力を続けるとともに、その間支援者の人々の自宅を開放してもらい、授業を続けました。ゲーンス先生の緊急要請に応えて、MECSは校舎の再建築を直ちに了承し、1892年には女学院の建物と幼稚園の校舎が再建されました。1898年にはさらに小学校が建設されました。
1895年には正式名称を広島女学校に変更し、キリスト教精神を維持しながら当時の日本の教育制度に沿った学校組織を整え、より多くの学生を集めることになります。この時期には、日本政府は若い女性の教育の重要さを認識し、ゲーンス先生のこの学校を一つのモデルとしてみるようになります。1906年には、女学院は高等女学校(女性の高等学校)として認可されることになり、設備などの整備拡充が必要となりました。そのころには、広島の有力者たちが広島女学院に娘たちを送るようになり、彼らによる女学院に対する認知と支援は、学校をさらに大きく発展させていきました。
1916年にはゲーンス先生の妹レイチェル C.ゲーンスが広島に到着します。彼女の参加がゲーンス先生にとって大きな支えと慰めになったことはいうまでもありません。レイチェルは、来日当時は正式な宣教師の資格を持っていませんでしたが、彼女は他の宣教師たちとともに、女学院の教育と地域での布教活動に参加しました。ゲーンス先生は、文部省の指導によって、女学院の校舎増築が必要になったとき、自身の資産から建築費用の全額1万ドルを提供しています。ゲーンス先生と妹のレイチェルは、個人用の住宅の提供を断り、女学院の学生宿舎で生活を続けることを強く希望しました。その後、女学院の学生宿舎が新しく建設された際に、その一角の東棟にゲーンス先生と妹レイチェルのためのプライベートな部屋が設けられました。ここがゲーンス先生が生涯最後の時を過ごした場所となりました。レイチェルは26歳で女学院に赴任し、姉のゲーンス先生の死後も女学院の教育につくしました。女学院はレイチェルにとっても生涯をかけての仕事となりました。
1919年には女学院の学生数は700人にまで増え、ゲーンス先生は引退を考え始めました。ちょうどそのとき広島県と広島市は、女学院に中学校および高等学校向け英語教員の養成コースおよび音楽と家政学の教員養成コースを新設するように要請します。これは女学院が高等専門学校(現在の大学)として承認されることを意味していました。しかしそのためには新たな校舎の建設が必要になり、そのためには日本国内のみならずアメリカにおいても大規模の募金活動を行うことが必要になります。ゲーンス先生たちは日々の地道な努力を続け、この募金活動を成功させました。
この仕事を終えて、ゲーンス先生は女学院を後進に引き継ぐ決心をします。ランバス牧師の推薦で、後任にはステファン・A・スチュワート牧師が女学院の第二代校長として着任し、ゲーンス先生は名誉校長となります。これによって少し時間に余裕ができたゲーンス先生は、日本および当時日本の植民地であった朝鮮および台湾において福音伝道活動により深くかかわることになります。ゲーンス先生はこの活動のために自動車の提供を受け、「宣教車フォード」と名づけ、これに乗って西日本各地を回りました。彼女はまたYMCAの活動にも大変深くかかわり、そこで河井道、津田梅子などのキリスト教女性教育者たちと深い友情関係を築くことになります。
ゲーンス先生は、女性教育に多大な貢献があったということで日本政府から多くの表彰を受けています。その中でも特筆すべきは、1926年、当時の皇太子の広島訪問の際に、晩さん会に招待され、皇太子から言葉をいただいたことです。ゲーンス先生は皇太子臨席のパーティに借り着のガウンと帽子を着用し広島女学院を代表して出席しました。このことは広島女学院に対する人々の認識と評価を大いに高めることになりました。
生涯の最後には、ゲーンス先生は広島でもっとも愛されかつ尊敬される人間になっていました。何世代もの世代を超えた多くの教え子たちは、教員として、家庭の主婦として広島の社会に広がっていきました。そのころゲーンス先生は次のように書いています。「この女学院の成功ほど私にとって重要なことはありません。それは単に私が人生のすべてをつぎ込んできたからというだけでなく、女学院の教育が東洋の女性たちの発展に貢献しているからです」。
ナニー・ゲーンス先生が1887年にMECSの最初の宣教師として広島に初めて着任した後、73名のMECSの宣教師たちが彼女の後を継いで日本にやってきました。現在、広島女学院の中学 高等学校のキャンパスにはゲーンス先生の名を冠したゲーンス ホールが建てられ、大学のキャンパスにはゲーンス チャペルが建てられています。しかし、ゲーンス先生の本当の遺産は、21世紀の今日においても重要な役割を果たしつつある広島女学院という教育機関そのものなのです。(Kyodan Newsletterより)
日本では何人ものオルガニストのいる大教会がある一方で、奏楽者ゼロの小さな教会も少なくない。オルガニスト・ゼロの小さな教会を励まし、後継者を育てるのが自分の使命だ、と伊藤さんは語る。1か月の内、福島、千葉、大阪の教会の礼拝奉仕へと出かけて行く。
伊藤さんは、父三井勇牧師と母夏野さんの間に4人兄妹の長女として生まれた。幼少時は虚弱体質で引っ込み思案、ただピアノを弾くことが楽しみの少女だった。父は、伊藤さんのピアノ演奏をだれよりも喜び、応援した。戦後、皆食べることに精いっぱいで楽器を勉強する余裕などない時代。特に、父が仕えていた銀座教会では毎日の正午礼拝、その他の集会でオルガニストが払底しており、高校生の時には公同礼拝の奏楽を奉仕した。父が50歳で急逝したことは、一家にとって大きな試練となる。
伊藤義清牧師と結婚し、子どもを授かると、だれより健康的で積極的な女性に変貌した。母校フェリス女学院のオルガニストとなり、約30年間、中高、短大、大学すべてカイパー記念講堂の礼拝の奏楽を担当した。忘れられないのは卒業生からの手紙と言う。「礼拝は難しく退屈でしたが、先生のオルガンの音は心に響きました。今は教会のオルガニストです」。日曜日には、牧師である父、義父、夫、息子の仕える礼拝の伴奏者として奉仕し続けてきた。「奏楽は祈りつつ讃美、感謝、の信仰告白です」と伊藤さんは語る。
昨夏には、中学生の頃からオルガンを教えてきた大学生の愛弟子と共に演奏会も開催した。
現在、所属している蒲生教会の祈りと運転奉仕者の協力によって、被災地の磐城教会へ遣わされて5年が経つ。当初は町に津波の爪痕も残り、教会員も涙を流していた。この5年間に伊藤さん自身が骨折や大病を経験するも、そのたびに復活して教会を沸かせた。「励ましに行くつもりが、心熱くされ、癒されて帰宅する」と伊藤さんは語る。
元フェリス女学院オルガニスト。大阪 蒲生教会員。
3:15 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。
3:16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。
3:17 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。
3:18 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。
3:19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。
3:20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
3:21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。
3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
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