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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

死の棘 ――宗教と死――

2026年9月1日


死の棘

――宗教と死――

54さて、この朽ちるものが朽ちないものを着て、そしてこの死すべきものが不死を着るとき、まさにそのとき〔次にように〕書かれている言葉が成就する。
死は勝利のなかに呑み込まれた。
55死よ、お前の勝利はどこに〔あるのか〕。
死よ、お前の棘はどこに〔あるのか〕。
(コリントの信徒への手紙一 15章54−55節[私訳])

 冒頭に引用した聖書テクストには死後の生命ないし永遠の生命をめぐるパウロの理解の一端が記されています。日本において死後の生命というと、死の瞬間に霊魂が肉体の外に出て行くイメージが多いように思いますが、これはヘレニズム・ローマ世界の考え方と似ています。すなわち、ヘレニズム・ローマ世界では、死後の生命は肉体から真の生命である霊ないし魂が解き放たれるイメージだからです。それに対して、54節aからもうかがえるように、ユダヤ人のパウロにとってそれは現世の古い身体の上に来世の新しい身体を着るイメージであることが分かります。ここでパウロは自分が生きているうちに終末が到来し、瞬く間に生きたまま朽ちない身体という不死を着せてもらえると言っているのです。そのような思いを吐露しつつ、続く54b−55節においてパウロはイザヤ書25章8節とホセア書13章14節を引用して、死に対する勝利を宣言し、自らを苦しめる「死の棘」など存在してはいないと叫んでいるのです。
 ここでパウロは死を擬人化して「お前」と呼び、「死よ、お前の勝利はどこに〔あるのか〕」「死よ、お前の棘はどこに〔あるのか〕」と繰り返していますが、55節を構成するふたつの文章は疑問文になっています。これらは修辞の否定疑問文と呼ばれるものであり、実際に疑問を呈しているわけではなく、強い否定を表現するためのレトリックです。死を強く否定し、死を遠ざけようとするがゆえに修辞の否定疑問文が用いられているということです。死の恐怖に縛られているパウロにビビりすぎと感じる方も多いかもしれませんが、死に恐れおののくパウロの心情に共感する自分がいるのです。普段パウロを論じるときには、どうしてもパウロを批判ばかりしてしまっているのですが、死を畏怖するパウロにわたしの宗教観が重なるのです。
 2026年8月9日に母が亡くなりました。89歳であり、天寿を全うしたと言っていいのだと思います。あまりに個人的なことを教団のHPに書くのもどうかと思いますし、いい歳をしてマザコンを曝してしまっているとも感じるのですが、わたしが宗教に走った理由を想い起こしたので、「宗教と死」の問題について自分史を振り返りながらしたためさせていただきます。
 わたしが7歳(小2)のときに父が亡くなりました。北洋漁業の船長をしており、200海里問題前でしたので、当時のソ連(現在のロシア)の遠洋の船上でワイヤーに挟まれて内蔵が破裂し、ソ連(ロシア)の病院に運ばれたのですが、そのまま亡くなりました(享年41歳)。父の死の一報が入り、母がただならぬ様子だったことが微かな記憶として残っています。ご近所さんや親戚が集まって騒がしくもあるのですが、今までは家になかった仏具の灯籠が赤と緑と白の光を放ちながらくるくると回り、子ども心に何とも言えぬ物悲しさを感じていました。父の遺体が自宅に安置され、納棺前に好きだったウィスキーをコットンで口に含ませるように言われました。小2のわたしには父の死は実感としてよく分かりませんでしたので、言われるままに父の口にウィスキーを滴らせました。小5の兄は父の死を十分に理解しているようで、父の遺体を直視できないようでした。3歳の弟はいつも通り無邪気にはしゃいでいるように見えました。
 わたしにとってはこれが初めて遭遇した死の経験でした。父の遺体を直視できていることから、意識的には死をあまり理解できていなかったようですが、潜在意識では死の恐ろしさを感じていたのだと思います。葬儀等が終わり、家に仏壇が置かれました。月命日にお坊さんがお経をあげに来るようになりました。かつてお寺の運営する幼稚園に通ってはいましたが、ロウソク、線香、りんなどの仏具が新鮮でもあり、お坊さんの真似をしたり、お経を唱えたりしました。
 父の死は4月だったのですが、同じ年の10月にわたしはかの小樽運河で溺れて、意識不明の重体になりました。溺れるわたしを助けに飛び込んでくれた年配の男性が飛び込んだ後にカナズチだということに気づくという素敵な方で、別の若い男性がその方とわたしのふたりを救助してくれました(事故の直前の記憶は喪失しています)。
 4月につれあいを亡くし、10月に子どもを亡くしそうになった母の気持ちはいかばかりかと思うのですが、この事故の直後から幾度となく、寺、神社、鬼子母神など様々な宗教施設でお祓いをさせられることになり、お守りを肌身離さず首から下げて持たせられました。意識的には不承不承ではありましたが、寺院に連れ回されたり、お守りを持たされたりすることを受け入れたのは、やはり父の死の経験と生死の境を彷徨った経験がわたしに死を極端に恐れさせるようになっていたのだと思います。その恐怖もあって、仏前でお経をあげたのだと思うのです。そして、その後に高校1年生から教会に通うようになったのも、人間はいつか死ぬ、死んだ後にどうなるのか、死んだら無になるのではといった恐怖から逃れたいがためでした。父の死がトラウマのように染みついていたのだろうと思うのです。パウロが言う「死の棘」がわたしを苛んでいたのです。
 話を母の死に戻します。わたしは2013年4月に酪農学園大学に着任し、25年振りに北海道に戻ったのですが、それは母がひとり暮らしをしていたこととも関係します。その暮らしは母が認知症と不調が重なって入院する2022年4月19日(父の命日)まで続きました。レスパイト入院のつもりでしたが、コロナのパンデミックの最中ということもあり、お見舞いも退院も叶わず、二度目のコロナ罹患によって母は寝たきりになってしまいました。認知症が少し進んだ母とのふたり暮らしもなかなか大変ではありましたが、入院させてしまったこと、そして徐々に弱っていく母の姿を見るにつけ、申し訳なさと同時に、母の死が近づいていることを実感し、死に対する恐怖心が甦ってくるようでした。
 最期の2ヶ月くらいはだいぶしんどそうに見えました。それでも生きていて欲しいと思うのは、子どものエゴであると感じ、早く楽にさせてあげたいという気持ちとの間で板挟みになりました。亡くなる4日前には、あと数日と主治医に告げられ、覚悟をしました。母の呼吸が浅くなってきていると連絡が入り、病院に向かいました。自宅から数分の病院に着いたときには心臓も呼吸も停止していました。よくドラマで見るシーンだと思いながら、声をかけてくださいと言われ、身体を揺らしながら声をかけると、少しの間ですが心電図に反応がありました。しかし、呼吸は止まったままでしたから、一瞬でも生き返ったわけではなく、亡くなったままだったのだと思いますが、声が届きますからと言われ、声をかけ続けました。今際に間に合ったように思わせてあげたいとの病院側の配慮なのだろうと感じました。
 わたしは遺体を見るのがどこか怖いと感じていました。30年前に牧師をしていたときもそうでした。ですから、母の遺体を見たくないと思っていたのです。しかし、母が最期まで懸命に生きる姿に接し、死に行く姿を目の当たりにしたとき、母の亡骸を抱き締めて、ありがとうと告げました。母の死の前には遺骨を自宅に置くのは怖いから、埋骨まで預かって欲しいと冗談混じりで弟(札幌教会牧師)に言っていたのですが、今は自宅のリビングに置いています。父の死を通して、死を恐怖するようになり、「死の棘」がわたしをキリスト教へと向かわせました。そして、母の死を通して、これまで避けてきた「死よ、お前の勝利はどこに〔あるのか〕」「死よ、お前の棘はどこに〔あるのか〕」と叫んだパウロの言葉と今こうして向き合いながら、「死の棘」から少し解き放たれているように感じています。もっとも、これはわたし自身が他には代え難い自分の死を突きつけられていないからのことでもありますので、そのような状況になったら、きっと死の恐怖におののくのだと思いますが・・・。
 キリスト教の小部屋では、戦争と平和の問題に触れることが最も多いのですが、それは政治や社会の問題に関心があるからというだけではなく、生と死に直結する問題だからです。やはり「宗教と死」は切っても切れない関係にあるのです。89歳の天寿を全うした母の死と41歳で無念の事故死をした父の死は同じではないのかもしれません。急に爆弾が落ちてきて殺される幼い子どもの死と母の死もきっと違うのだろうと思います。ひとりひとりの生と死はナマの現実であり、ひとつひとつの生と死に固有の物語があります。母の死の直後にセンチメンタルにマザコンに浸ってしまっている状態でⅠコリント書15章54−55節を再読しているため、死を恐れ、死を「お前」と擬人化して呼び、「死の棘」と言わずにはいられなかったパウロにいっそう共感し、誰が読むのかという自己満(の過去最長)の長文を綴ってしまっていますが、パウロの言う「死の棘」に苛まれる人間の在りように今は正面から向き合っていたいのです。

(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)

 
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